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日常考えたことを書きます

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私の読書歴

盛岡 〜緑の街に舞い降りて
「宮沢賢治のちから」 〜多面体の結晶


2023年になりました。お正月は穏やかな晴れが続きゆっくりできましたが、明日から仕事始めと申しますか本日から仕事があります。束の間の休息ですが、それでもないよりましです。


 さてもし自分の趣味は?と訊かれたら、一つは読書となります。この際自分がどんな読書歴だったか、他人には一向に興味ない話ですが、忘備録代わりに書きます。
 まず絵本からですと幼稚園からになりますが、記憶があいまいです。4歳くらいに幼稚園から講読を勧められたとおぼしき「よいこのくに」あたりでしょうか。3歳くらいにアメリカで買った絵本も幾つかありましたが、こちらは当時英語を読めなかったので、まさに絵しか見てませんでした(セイウチとか出てくる冒険談)。
 小学校に入り字が読めるようになると「せいめいのれきし」とか読みましたが、この頃から生物に興味がありました。その後小学3年生くらいまで主軸を成すのが、図鑑です。保育社や小学館などですが、昆虫・魚貝・植物などばかりでなく鉱物図鑑も買ってもらい、すべて丹念に読みました。当時図鑑は写真でなく絵やイラストですが、かえってイメージが脳裏に焼き付きました。今でも野外で動物や植物を見れば、大概はすぐ名前が判ります。少なくとも図鑑に表記がなかった珍しい生き物ははっきり認識できます。大学生の頃ですが、東大本郷構内の草むらに見たことがない白いチョウが飛んでいました。よく見ると周囲にその幼虫とおぼしき芋虫も結構いました。「何だろう?図鑑にはなかった。外来種じゃないかな」と思いましたが、後年「ホソオチョウ」と判明しました。朝鮮半島など大陸系のチョウで日本には分布しておらず、東大構内にあった棲息はその後根絶されてしまいました。どなたか「虫好き」の学生が放ったんじゃないかな。閑話休題。あとは「百科事典」です。今となっては百科事典は死物同然ですが、インターネットなどなかった当時僕は図鑑よろしく端から端まで眺め、知識を仕入れました。
 その後小学4年生になると、2つの興味が出てきました。一つは日本の民話や伝説です。この頃には学校図書室だけでなく、市立図書館にも行くようになり、ありとあらゆる民話集、伝説集を読みました。内容はほとんど忘れましたが、日本各地のそれぞれに特徴ある話があることに興味津々でした。もう一つは「ナルニア国物語」です。最初に読んだのが「銀の椅子」で題名に惹かれました。戸棚やタンスの奥に分け入ると、見知らぬ森に妖精や半獣半身のパン、あるいはアスランのような言葉を話すライオンなどに出会う話で、19世紀イギリスのムードたっぷりでした。上記の伝説・民話好きと呼応しており、後年幻想小説に興味を持つようになる源流です。
 この辺から小学校高学年、そして中学時代ははっきりした読書の思い出がありません。普通の勉強に忙しくなり、読書に熱中できる環境でなくなった事が大きいと思います。この頃日本文学全集などが家で購入されましたが、数学とかベンキョーせずに読んでいると、親父に怒られる。おかげで「読書は悪い習慣」のような刷り込みが入った感が否めません。
 それが変わったのは高校2年。当時同級生でボート部の奴がいましたが、体育会系にも拘わらず非常に本読みでした。いつも文庫本抱えて電車で読んでる。カッコイイ!彼に感化されて一挙に読書に没頭するようになりました。この辺りから多読・濫読となりましたが、この頃は海外の翻訳小説が多かったかな。新潮文庫のモーパッサンは全て読み、非常に感銘を受けました。そして宮沢賢治。これは高2の東北研修旅行の課題で選び、その詩的感覚には後々まで魅惑され現在に至ります。あとはSF。こちらは幼年の民話・伝説、後年の幻想小説好きと一脈通じています。しかし当時のハヤカワなどの翻訳SFは誤訳も多かったですね。ウイリアム・テンの「ブルックリン計画」はマンハッタン計画よろしく国家プロジェクトで開発されたタイムマシンの旅行で、その後の生命進化史が変わってしまう話でした。おもしろいんですが、誤訳が多い。「トリロバイトがタイムマシンでぐしゃっと潰れた」と書いてある。トリロバイトって、何?あとで「三葉虫」と判りましたが、これなんかましな方。当時はSFはやりでしたが玉石混淆で、また翻訳家の質もかなり悪かった印象があります。感激したのはアーサー・C・クラークの「地球幼年期の終わり」。これ、当時の学生運動の思想とも関係すると言われますが、今でも傑作だと思います。社会問題意識も当時の流行で私も旺盛になり、本多勝一の「中国の旅」を高校図書館で読み、衝撃を受けました。マンガもこの頃からよく読むようになりましたが、これは別項で述べます。
  その後大学受験がうまくいかず浪人。この頃はまた読書量が減りました。これは仕方ないですね。しかし、模試で国語の成績が安定して良かったのはそれまでの読書の習慣のおかげだと思います。そしてようやく大学に入り、教養時代はまた読書三昧になりました。「氷点」「続氷点」はこの時期に読みました。実は「続氷点」は小学校6年時の春、朝日新聞連載の最終話を読んでいました。赤々と夕陽に燃える流氷に降りるカラス。「そのカラスにさえも2本の足がある」と書いてありましたが、何か深刻な結末なんだろうなと思った程度です。大学生でこういう話の結末かと知った次第です。あまり期待しないで読み始めましたが、一気呵成に最後までいきました。と同時に「北大いいなあ」と俗なことも感じました。自分は入りませんでしたが、後年子供達が北大と関係するなんて思いもよりませんでしたね。
 この頃は幻想小説も相当読むようになりました。幻想とはやや違いますが、感銘を受けたのがルグィンの「ゲド戦記」シリーズ。これまた最初からでなく「影との戦い」から。人間の持つ正負の両面を直視するようになるまでの一種の青春小説と理解します。幻想小説では泉鏡花に惹かれました。「眉隠しの霊」何度も読み返しました。自分冬好きもあって、好きになる本は大概非常に寒い荒涼とした舞台が多いです。ボルヘスなんかあまり感情移入できなかったのは、暑苦しい雰囲気のせいかもしれません。
 大学高学年からまた本を読まなくなりましたが、臨床関係で憶えたりすることが多かったせいかな。また特に大学院以降、そしてその後の研究生活では仕事に必要な海外の研究論文を通読するのに多くの時間を割かれるようになりました。とてもじゃないが、本を堪能している暇がない。読むのは「食」関係ばかりとなりました。これも最初は高1の時亡くなった伯父から受け継いだ獅子文六全集中の「食味歳時記」から始まっていて、長いです。食や料理つくりにも興味がある私はこの頃自活・自炊生活になったこともあって、息抜きがてら多読しましたが、これはどちらかというと実用書の側面が大きかったです。
 フランスに居た3年超えほどは日本の本がほぼ入手できず。日本から持って来た「宮沢賢治」集とあとは森瑤子の「デザートはあなた」。フランスの生活は孤独でかつインターネットなどなかった当時はどっぷりフランス語の生活でした。宮沢賢治と森瑤子が唯一きつかった現実を一時忘れさせてくれる「日本の心」で、何度も何度も読み返しました。ただ留学後半になってきて、「日本と世界の近代史」にも非常に興味を持つようになりました。これはフランスと対峙することで、「日本人としてのアイデンティティ」を強く意識するようになった結果で、大学受験時代に世界と日本の近現代史に関わる本を読んでいたのを里帰りで持ち帰り、久しぶりに再読しました。こちらの興味は今に至っても継続しています。
 しかしながら帰国すると、又さらに仕事が忙しくなり本を読まなくなりました。そういう生活が30代後半から50代前半まで20年以上続きました。読書に関しては「暗黒の世紀」です(笑)。転機となったのはまず転職。研究職を諦め異動した結果、片道2時間以上の遠距離通勤になりました。しかし通常の通勤と逆方向で、ありあり余る自由時間(最初のうちは授業準備に追われましたが)。そして決定的な契機となったのが、子供の大学受験です。事情があって予備校なしの受験勉強になったのですが、理科系なので国語まで手が回らない。二次で国語試験が課される大学の受験だったので、その指導を僕がしました。そして久々に東大や京大の国語問題を解きました。17歳の高3で初めて東大の国語問題を読んだ時の驚愕は今でも忘れられません。確か「古代の書物は大らかに語られたと思うのは間違いで、「時間区切り行為」の打ち込みで初めて出来たエビデンスの連続」といった内容でしたが、ともかく難解。何を言いたいのかさっぱりわからず、問題文を読み理解するだけで1時間以上かかったことを思い出します。しかし50過ぎて入試国語の文章を読むと、簡単でないながらまあまあすらっとわかる。設問の意図も大体すぐ掴めます。自分で解いてみて子供の解答、問題集の答えと付き合わせる。問題集の答えは結構トンチンカンなことも多いのですが、若い解説者には難しかろうと思いました。そうそう、浪人時代通った駿台予備校で古文を担当してくれた桑原岩雄先生。「皆さん、徒然草とかは古文で一番わかりやすいと思っているでしょう。違うのです。徒然草の本当の意味は若いあなたたちには決してわからない。それがわかるようになるには私のような年にならないと難しいのです」と当時70を超えていた桑原先生が仰いました。徒然草の極意は相変わらずよくわかってませんが、入試国語の難しさは年齢に影響されるのだとこの時はっきりわかりました。一体どういう年代の教員が作問者に当たっているのかわかりませんが、17,8の若者の感覚を想定した上での作問は相当難しいと思います。逆にそういう配慮されない設問でもその意図を読み取ってしまう高校生って、単に早熟だけで片付けていいのかとも感じてしまいます(よほど深刻な心的トラウマが幼少からあり、ひねくれて世に対し斜に構える?)。その意味で私のコーチングが子供の受験勉強にどの程度役に立ったかは、定かでありません。ともかく子供達は合格し、受験勉強は終了しました。しかしこの過程で、私の読書熱は再燃しました。子供の受験が終わっても自分の追及したい数々の表現や知識に果てはありません。こうして今私は小学・高校時代以来の「第三の読書」の波に洗われ、多読化が進む一方で今に至ります。


 追記:
駿台予備校の古文講師だった桑原先生に触れて、今検索をおこないました。桑原岩雄先生を偲ぶサイトがあるのですね。2028年までは見られるようです。色々な方が師を偲んでいらっしゃいます。自分の受験、子供の受験が終わった今、理科系の受験合否は基本「数学」の出来でほぼ決まる(特に医学部)と感じます。少なくとも数学を失敗して合格することはあり得ないです。駿台でも古文の授業は空席が目立ちましたが(本部校舎・前理1)、僕も最近まで「古文なんかどうせ点が大して取れないし差もつかないのだから、あの時間を数学の勉強に当てておけばよかった」と思ってました。しかし、桑原師サイトを見て人生には合格だけでは得られない、いやもっと重要な学びがあると改めて感じました。今は亡き桑原先生の謦咳に接することができてよかったと、今は思います。