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盛岡 〜緑の街に舞い降りて

私の読書歴
「宮沢賢治のちから」 〜多面体の結晶


2023年1月、ニューヨークタイムズに「2023年に行くべき52カ所」のひとつに盛岡市が選ばれたという記事が掲載されたと日経と読売新聞が相次いで紹介しました。しかもその52カ所のうち、ロンドン市に次いで2番目だそうです。今ニューヨークタイムズのサイトを見たら、日本では19番目に福岡市が入っています。ロンドンとかパームスプリングスとか有名地もありますが、全体としてマイナーな都市や国が多く「旅行慣れした通好み」の場所かなと思いました。しかし、盛岡はそれに選ばれたせいか、もうすでに海外から盛岡に観光客が殺到していると読売が紹介しています。達増岩手県知事も大喜びで、コメントされています。そうなんだ。実は私以前から盛岡を気に入っております。そういう街なので嬉しいといえば嬉しいですが、あまり多くの人が来てしまうと混んでしまって困るなあなんて思ってしまいます。冒頭の「緑の街に舞い降りて」は松任谷由実の曲の題名です。この緑の街のイメージはどっちかというと空港がある花巻市でないかと感じますが、小岩井牧場も含めて岩手らしさを感じさせます。また歌詞で言う「Moriokaというその響きがロシア語みたい」は、この後で述べる宮沢賢治が書いたモリーオ市の語感からでしょうか。


 盛岡という街を意識したのは、高校時代にした宮沢賢治についての学習です。宮沢賢治は今の岩手県花巻市の出身で、旧制の盛岡高等農林専門学校(今の岩手大農学部)で学んでいます。そのせいで、後年書いた小説には盛岡のイメージがあちこちに投影されています。「ポラーノの広場」に出てくるモリーオ市というのが盛岡でしょう。また「銀河鉄道の夜」で出てくるプリオシン海岸は、賢治がイギリス海岸と称した盛岡市を貫通する北上川沿いの泥岩の河岸を暗示しています。ここで賢治は教え子たちと古代のバタクルミの果実の化石を拾ったのでしたね。賢治の描写を読むと、盛岡はまるでヨーロッパのような異国情緒に溢れるふわふわした夢のような街として感じられます。もちろんのこと賢治が生きた当時、実際にはそのようなことはなく、特に1920年代の昭和時代の初期、東北地方は冷害に苦しめられ餓死や身売りが多発しました。特に岩手県はその被害を手ひどく受け、これが226事件の遠因ともなりました。でもそこに宮沢賢治は理想郷としての岩手県を高らかに歌い上げており、彼が如何に自分の故郷を愛していたかよくわかります。高校2年の修学旅行での研究課題であった宮沢賢治を通じて盛岡は深く心に刻まれました。
 また父親が獣医学の研究者だったため、岩手大にはよく出張講義に行っておりました。岩手大農学部には東北地方では少ない獣医学専攻が設けられていたからです。お土産はいつも南部煎餅。埋め込まれたピーナツや胡麻がうっすら甘くて噛むと麦の味がしましたが、ものすごく美味しいというものではなかったです。


 実際に盛岡を訪れたのは30代に入ってからで、学会開催地に時々なったからです。しかし開催はいつも駅前のメトロポリタンホテルが中心で、駅周囲から離れませんでした。従って盛岡の街はよくわかりませんでした。そして50代になって初めて盛岡の街中を歩きましたが、これは春田光治さんのおかげです。春田さんは伝説のフランス料理人です。慶應を幼稚舎から入り慶應義塾大学法学部を卒業した後フランスに渡り、料理の修業を続けてスイスやベトナムの日本公使邸の料理人として活躍しました。雑誌「シェフシリーズ」で「魅惑の南仏料理」を編集しており(1981年)、偶然神田の古書店でそれを購入して初めて知りました。もう何と言うかあらゆる意味で「本格的」なんですね。後年実際知り合った時にわかりましたがフランス語も非常に堪能で、スペルミスがやたら多いメニューを出しているその辺のフランス料理人とは格が違います。そして出す料理は洗練されていながらも家庭料理に通じる素朴さがあり、何度食べても飽きない味でした。バブル時代渋谷で出した「シェジャニー」は当時超人気店だったらしいです。しかし私が知ったのは、その30年後一応引退した春田さんが安比高原で新たに開いた「シェジャニー」でした。春先でまだ雪が沢山の安比高原でスキーを楽しんでからうかがいました。そしてさらにその数年後、今度は盛岡市材木町に移転したとお知らせをいただきました。そちらも家族を含めて何度かうかがいましたが、こぢんまりした店内は居心地良くとても楽しい食事をさせていただきました。ジャニーさんすなわち春田さんは、残念ながら2020年夏前に心臓弁膜症で亡くなられてしまいました。その前も狭心症で治療されておりましたが、比較的お元気でまさか術中に亡くなってしまうとは夢にも思いませんでした。お人柄も優しく、とても良い方でした。「食べログ」の心ない批評に憤激されていましたが、「もう知る人ぞ知るでいいのだから、そんなくだらない食べログなど相手にする必要がないのに」とずっと思っていました。しかし春田さん、ずっと純粋な少年のような正義心を持った方で、「不正行為を働く食べログ」やそこに記載する批評家もどきに我慢がならなかったのでしょう。そうそう、春田さんからは医科歯科大の有名な寄生虫学の教授加納六郎先生が叔父さんに当たるとうかがいました。まさか加納先生のお名前をここで聞くとは思いもよりませんでした。加納六郎先生はもともと上総一ノ宮藩の藩主の家柄で、第二次大戦前は華族にも列せられていました。姓こそ違いますが、春田さんも確かこの姻戚だったと記憶します。春田さんの人格にはそういった血筋の良さが争えませんでした。
 こうして材木町にあった「シェジャニー」は幕を閉じ、今はイタリア料理店に引き継がれていると聞きます。材木町、盛岡中心の繁華街から離れた場所ですが、粋なお店が集まる場所のようです。レストランやクラフトビアのバー以外に本屋さんとか骨董を扱う店、そして有名な「光原社」があります。実は光原社は宮沢賢治の命名で、1924年に童話集「注文の多い料理店」を初めてここで刊行しました。賢治が生前出版した唯一の本ですが今は出版でなく、民芸品を扱う店になっています。漆器や陶器など岩手のいろいろな民芸品を購入できますが、美味しいコーヒーが飲める喫茶店とかを経営し、あとお菓子やジャムの販売もしています。ここのクッキーやヤマブドウのジャム美味しいです。北上川を眺め、宮沢賢治をしみじみと思い出しながらコーヒーをいただくのはおつなものですよ。


 このようなわけで材木町通り以外の街中はよく知らないのですが、一度だけ「さんさ踊り」を中心街で観たことがあります。この時も夏の学会でしたが、勇壮な踊りの隊列が次々と繰り出すのを飽きずに眺めました。この時の学会は珍しくメトロポリタンでなく、岩手大学の教育学部でおこなわれました。メトロポリタンホテルに泊まっててくてく岩手大学まで歩きました。材木町通りを通り過ぎ、途中山田線の線路踏切を渡ると、岩手大に通じる小道があります。こちらから入る道は岩手大の旧正門で現在の正門とは真逆になりますが、旧門番所があります(重要文化財)。「賢治もここを毎日通ったのかなあ」としみじみ歩いて入ると、すぐに農学部となります。家畜センターのヤギやヒツジ、およびニワトリと思われる鳥の鳴き声が聞こえて賑やかです。父も昔おそらくここを通ったのでしょう。そして農学部に沿って、昔の盛岡高等農林や賢治ゆかりの研究施設群が林内に点在します。訪問を是非お勧めしたいのは、盛岡高等農林専門学校の旧校舎を改築した教育資料館と新しく建造されたミュージアムです。前者は古い時代の学校の雰囲気がそのまま味わえ、後者は近年の岩手県の自然科学的な研究成果を堪能できます。ミュージアム近くの池では夏だとスイレンの花もきれいで、静かな雰囲気があります。


 いやー、随分偏った盛岡案内になってしまいました。知り合いや友人もいる岩手医科大は未見です。盛岡名物のわんこそばも未経験です。しかし冷麺は何度かいただきました。「盛楼閣」と「ぴょんぴょん舎」ですが、どちらも特徴ある人気店ですね。あとは駅ビル(フェザン)の中にある物産店や寿司店も意外と良いです。「イチゴ煮」や「ウニ」の缶詰をよく買いますが、リーズナブルな値段です。「イチゴ煮」はそのまま食べるにはあまりにもったいないので、拙宅では炊き込みご飯にしていただきます。お寿司も割安で実に美味しく、実は春田さんも大のごひいきでした。駅ビルのフェザンFES"ANですが、これフランス語でキジの「pheasant」から来ています。なんでキジ?と思っていましたが、岩手の県鳥がキジなんだと知りました。
 ただこのフェザンには悲しい思い出もあります。前述のお寿司屋さんを出たあとにトイレに行きたくなり、地下1階にあるトイレに入りました。ちょっと薄暗い照明ですが、別に問題なくきれいです。ただ年期入っているなあとは感じました。実はここが鹿川裕史(しかがわひろふみ)君が自殺した場所だったことを、後で気づきました。鹿川君は中野区立中野富士見中学の2年生で、1986年にこのトイレで首を吊って自殺したのです。ぱしりから同級生による壮絶なイジメに発展し、「葬式ごっこ」には担任の教師まで加担することになりました。「このままでは生き地獄になっちゃうよ」の遺書の文言は忘れられません。それに続く「俺が死んだからって他のやつが犠牲になったんじゃいみないじゃないか。だから君たちもバカな事をするのはやめてくれ、最後のお願いだ」は鹿川君が優しく、広い心の持ち主だったことをよくわからせてくれます。自分が死んだ後までいじめた相手を思いやるなんて、普通のひとにはちょっとやそっとではできません。当時は東北新幹線の終点が盛岡で、父親の実家が盛岡でした。あともう少しで祖父母と会うことができたのに、その前に生きる力が尽きてしまったのでしょう。あのトイレでどう思いながらひもを自分の首に掛けたかと思うと、胸が苦しくなります。あの時代は昭和後半で、自分の中学も校内暴力(生徒も教師も)で荒れた時代でした。今から思うと、敗戦後のさまざまな矛盾が高度成長の陰で最高潮に達した時代でした。その後バブルを過ぎ平成から令和になって日本の国力が衰退する今、改めてこの事件を思い出します。ご両親もすでに亡くなられ、鹿川君が書いた遺書は担当した弁護士が預かっていると聞きます。


 宮沢賢治がモリーオ市と表現した盛岡のイメージは、今現実がそれに近づいていると思います。色々な苦労や悲しみを踏み越えて、しかし決してそれらを忘れずに、新しい盛岡がつくられていくことを祈りたいと思います。