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東京医科歯科大学(2)〜東京高等歯科医学校(旧制)

東京医科歯科大学(1)
東京医科歯科大学(3)
東京医科歯科大学(4)
東京医科歯科大学(5) 〜戦後の新制大学設立


 東京医科歯科大学の源流である東京高等歯科医学校がつくられたのは第二次大戦前の昭和時代で1928年です。それまで明治時代から私立の歯科専門学校は東京でも幾つかありました。現在の東京歯科大や日本歯科大の源流ですが、官立学校はずっとありませんでした。東京帝国大医学部(当時は東京帝大医科大学)でも歯科の必要性が認められたものの、歯学部や歯学科の設立にはなりませんでした。しかしようやく歯科学教室、のちの歯科学講座設置の機運が盛り上がり、1899年に第2外科助手だった石原久をアメリカとドイツでの歯科学研究のため3年間の研修に出されます。1902年に歯科学教室が創立され1903年石原が帰国して教室主任に就任(1915年教授に昇任)、そして歯科医療が始まります。ところがこの教室は主任だけでなく医局員もすべて帝大医学部卒、すなわち医師でした。教室には今の東歯大など私立歯科専門学校出身者もかなりいたそうですが、歯科医はすべて「傍観生」で医局員ですらなかったのです(すごいネーミング)。傍観生が診療できるのは正規の医局員が診た後だったそうです。これは明治時代末期に至っても、日本では真っ当な教育を受けた歯科医が非常に少なかったためでしょう。主任者の石原教授自身が歯科を学問とすらみなさず、一般歯科医をとても低くみていたようです。しかし医局員全員が石原教授に同調したかというとそうでもなく、特にアメリカなどへの歯科留学を果たした者たちの石原に対する反感は相当つのりました。石原と袂を分かって退局した旧医員たちを含め、1920年有志連名で石原教授への退職勧告が当時の医学部長に提出されたくらいですが、不発に終わりました。ただ石原久には、歯科学については一定の見識もありました。「歯科医学は医学を全うした上での専門教育と位置づけるべき」と考えていて、歯科医師という医師とは別個の資格にすべきでないという意見でした。これは当時先進的だったアメリカの歯科医学校が過当競争で続々と閉校に追い込まれていたことや、日本の歯科専門学校が短期の講習で卒業資格を与えていたことへの懸念が背景にあったようです。石原自身が第2外科の助手を辞して歯科学講座に移るとき、周囲からは相当反対されていました。理由はいうまでもなく、日本における歯科医および歯科学のレベルが低かったためです。


 石原門下には後に東京高等歯科医学校をつくる島峯徹がいました。島峯は帝大医学部を卒業した後、恩師の小金井良精(解剖学教授)の奨めもあって、ドイツとアメリカに歯科学を修めに留学します(1907年〜1914年)。帰国後すぐに石原が率いる歯科学講座の講師になっていますが、早々に石原教授と対立し1915年には医術開業試験附属病院』(通称永楽病院)歯科の運営に入ります。ここに上記の反石原の元医局員たちが続々と集まり、ついに島峯は官立の歯科学校の設立に動きます。1922年には設立許可が下りますが、1923年の関東大震災で一旦凍結されます。1928年に至ってようやく官立の歯科医専門学校として,東京高等歯科医学校が設立されました。これが医科歯科大の始まりです。この時期実際には専門学校の位置づけですが、島峯は専門学校の名称を嫌い、「高等歯科医学校」となりました。この学校は一橋にあった東京商科大(現在の一橋大)の構内に創設され、その後1930年に東京高等女子師範の寄宿舎跡地を間借りする型で湯島に移転しました。1923年の関東大震災で東京高等師範と東京高等女子師範は湯島にあった校舎の大半が焼失し、文京区大塚に移転していたのです。これ後の医科歯科を考えると千載一遇のチャンスでしたね。東京高等歯科医学校は校長と4人の教授は全員「医師」すなわち東大医学部卒でした。教授達は当然医学教育もおこなえたのですが、学校としては「歯科医養成」で始まりました(定員100人)。島峯は教員たちの医師には歯科学を修めるための留学や、歯科技工の修得を求めたと出ています。また解剖学実習などは東京帝大医学部でやらせてもらいました。しかし帝大医学部には石原に与し島峯を敵視する教授もいて(石原の下にいた医局員が辞めて島峯門下に移動した)、東京高等歯科医学校との関係は良好とは言えなかったようです。しかし島峯の親友だった長与又郎が1933年医学部長に就任したことで、ようやく両校の関係が改善しました。


 ところで東京高等歯科医学校は専門学校で旧制高校に相当するので、旧制大学受験資格があります。そのため卒業生の相当数が旧制大学の医学部に進みました。つまり歯科医と医師の両方の資格をとったのですが、おそらく医師として活躍したでしょう。教授は医師から歯科に進み、教え子は歯科医から医科に進むという交錯した状況ですね。こういう状態の学校に1944年に医専としての医学科が併設されて、東京医学歯学専門学校となったのです。


 余談ですが、医科歯科大歯学部を卒業して歯科医になってから医学部に入り直し、医師資格もとるいわゆるダブルドクターは以前そこそこいました。再受験進学先としては千葉大医学部が多かったです。しかし、今は医学部と歯学部の難易度の開きがかなり大きくなったので、あまりいないのでないでしょうか。