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團伊玖磨さんのこと(「パイプのけむり」など)

いちごの季節 〜日本のいちごは美味しい


今「パイプのけむり」でググってみると、随筆の「パイプのけむり」は検索上位には出ないことを知りました。「パイプのけむり」はホテルや喫茶店の名前で上がってきますが、名付けた方々はきっと團伊玖磨の随筆を愛読されているのでしょう。


 團伊玖磨さんの随筆ではアサヒグラフの「パイプのけむり」の連載が一番有名ですが、僕が最初に読んだのは「エスカルゴの歌」です。当時小学5年か6年で、湘南に住んでいた頃でした。海辺近くだったので砂浜散策が多かったですが、貝殻もよく拾って持ち帰りました。サクラガイが一番きれいでしたね。ところが「エスカルゴの歌」に出てくるルリガイ、アサガオガイは初耳でした。「台風の後で打ち上げられていた」とのことで、僕も台風の後に砂浜に行ってみたけどついぞそれらしきものは見つかりませんでした。今検索してそれらの貝を見ると、思っていたより地味です。知り合いの画伯にガラス絵にしてもらったというので、もっと透明感がある貝を想像していました。もしかすると見逃していたのかもしれません。


 その後も「パイプのけむり」など團さんの随筆は学生時代熱心に読みました。團さんは当時から海外を旅していて、色々珍しいものを記載していました。小さいアーティチョークの生がサラダに出て、食べられなかったなんて記載もありました。僕もフランスに居た時アルティショーを食べるようになりましたが、大きいのは生なんて絶対無理です。小さいアーティチョークの瓶詰めはその後知りましたが、まあ生はキクの香りが強すぎて、普通無理でしょう。どんなサラダだったのか、色々想像してしまいます。
 国際線機内で知り合ったスチュワーデスに割ってもらったフストックというナッツは、とても美味しかったと書いていましたが、どんなナッツか?と想像しました。これ今となると、ピスタチオで間違いないと思います。ピスタチオ、私は大好きですが、1960年代の日本でピスタチオなんて何処にもなかったのでは?と思います。
「フランスで食べたカキで、発音に自信ないけどブロンとかいう丸いのが美味かった。」と書いてあり、ふーんどんなカキだろうと思いました。そもそも日本にはカキの種類なんてのが、昔はなかった。フランスに行ってから魚屋によく行くようになりましたが、このブロンはなかなかお目に掛かりませんでした。何でもウイルスの流行で激減したそうですが、ある日とうとうBELONを見つけました。普通のカキの3〜4倍高かったですが、思い切って買いました。早速食べてみると確かに美味しい。金属的えぐみが少ない穏やかな味です。「そうか、團伊玖磨はこういうのを食べていたんだ」としみじみ思いました。
 また好奇心も旺盛でした。カツオにまつわるイタリア語の話は、正直びっくりしました。團という漢字もひわいな意味があると書いてましたが、僕は後年イタリアに行った時にこのカツオの件は思い知らされました。身バレになっちゃうけど、トスカーナに滞在した時海辺のレストランで予約しようとして自分の名前を告げたら、若い兄さんに「ヒャハハハ!」と大笑いされてしまいました。「嗚呼、あの時の團さんの話はほんとだったのか!」と。しかし鰹節を男性の逸物の干物と思う神経はこれ如何に!


 ついつい食べ物関係ばかりの紹介になってしまいますが、團伊玖磨さんの硬骨ぶりにも感心しました。「映画なんてあんな缶詰に(フィルムで)保存するものは、芸術じゃない!」と断言してましたが、後年は映画の芸術性も認めたようです。祖父の団琢磨の暗殺にも触れていました。戦前の血盟団事件の一環ですが、その時團伊玖磨が裕福な家に生まれたことを知りました。なるほど逗子から東京までの横須賀線を、一等車に乗るだけのことはあります。
 團さんは頑固な一面人間観察は鋭く、本当におもしろかったです。「田谷の洞窟」は痛快でしたね。大船近くにある常泉寺の修行僧が昔掘ったとされる洞窟だそうですが、私は行ったことがありません。何やら由緒ありげに書かれた由来に反して、ぼんやりとほの暗く見える壁に彫られている仏像が割と素朴で俗っぽいと團さんは書いています。そして極めつけは、洞窟を出た後に出会った和尚です。如何にも俗っぽい人物だったようですが、バケツをぶら下げています。見るとザリガニがいっぱい。「バタライスにして食うとうまいんだ」とのことで、殺生を禁じられているのにいいんかい?といったことを書いていました。それを非難するというより、戦後の混乱期をたくましく生き抜く庶民が好きだったのでないかと思います。
八丈島が気に入って家を建て、定期的に滞在していました。「パイプのけむり」では、そこで食べた古い食べ物にあたって、蕁麻疹に苦しめられたことが書かれてます。吃驚したのは折角治療して治ったのに、どれであたったかを調べるためにまた候補食材を試していたこと!結局、それはアンキモだったように記憶します。八丈島での生活はNHKの「趣味の園芸」でも、書いていました。その創刊号で「野生ランの楽しみ」を寄稿し、台風で飛んできたセッコクやフウランを育てていたことを書いています。野生ランが好きな私としては、うらやましい生活でした。


でも晩年になってくると、次第に淡々とした描写が増えてきたように感じました。「なんか、昔と違うなあ」と感じるようになり、あまり読まなくなりました。連載していたアサヒグラフが2000年廃刊となり連載終了、そして2001年中国で客死したというニュースを、新聞で知りました。今wikiをみると、1997年に心筋梗塞で入院していたと出ています。この頃からあまりむちゃなことをできなくなっていたのかもしれませんね。團伊玖磨はむろん作曲家として有名です。その縁から「前進座」を支援していたことも知りました。前進座の舞台は後年観ましたが、おもしろいものの松竹歌舞伎座の力にはなかなか勝てない現実の厳しさも知りました。そういう前進座にも全力で支援し続けた團さんは、政治的にも色々考えていたことがあったのでないかと想像します。一度お目に掛かって、直にお話を聞きたかった方でした。