本庶佑氏「私の履歴書」 〜信念を貫き京大をリードした
(本庶佑氏 京都大学のサイトから)
6月の日経「私の履歴書」は京都大学名誉教授の本庶佑氏でした。本庶先生の略歴をwikiから抜粋して引きます。
本庶 佑(ほんじょ たすく、1942年〈昭和17年〉1月27日 - )は、日本の医師、医学者(医化学・分子免疫学)。京都市生まれ、山口県宇部市育ち。
京都大学医学部副手、東京大学医学部助手、大阪大学医学部教授、京都大学医学部教授、京都大学大学院医学研究科教授、京都大学大学院医学研究科研究科長、京都大学医学部学部長、内閣府総合科学技術会議議員、静岡県公立大学法人理事長、先端医療振興財団理事長などを歴任した。
受賞歴
1981年
野口英世記念医学賞(第25回)
1984年
大阪科学賞
木原賞
1984年 - ベルツ賞[56]
1988年 - 武田医学賞
1992年 - ベーリング北里賞
1993年 - 上原賞
1996年 - 恩賜賞・日本学士院賞[57]
2012年 - ロベルト・コッホ賞[58][59]
2014年 ウィリアム・コーリー賞
2016年
慶應医学賞
トムソン・ロイター引用栄誉賞 (現クラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞)
2017年
復旦・中植科学賞
ウォーレン・アルパート財団賞
2018年 - ノーベル生理学・医学賞
上記のように2018年ノーベル賞を受賞しましたが、理由は抗PD-1抗体によるがん免疫賦活化でがん治療をおこなうという画期的な手法の開発です。
私が初めて本庶先生を拝見したのは、1981年12月京都国際会議場で開かれた「第1回AMBO国際会議」の講演でした。AMBOはAsian Molecular Biology Organization(アジア分子生物学機構)の略称で、慶應義塾大学医学部教授だった渡辺格氏の肝いりで設立されました。当時はEMBO(European Molecular Biology Organization:ヨーロッパ分子生物学機構 )が勃興した時期で、その向こうを張ったものです。この会議には世界的に有名な分子生物学者たちが一堂に会して、当時の最先端の研究発表がおこなわれました。残念ながらAMBOの会議はその後続きませんでしたが、この会議は確かに日本の分子生物学発展の起爆剤となったと思います。
(利根川進氏)
本庶氏は免疫学のセッションで、MITの利根川進氏の次に講演しました。利根川氏は当時スイス・バーゼル免疫学研究所からアメリカのMIT(マサチューセッツ工科大)に異動したばかりで、1987年ノーベル生理学医学賞の受賞対象となった抗体遺伝子の組換え機構について講演しました。その次に立った本庶氏ですが、まずその流暢な英語に驚かされました。Nativeと思えるほどのなめらかな話しぶりでしたが、あとでそれは高校時代(山口県立宇部高校)の研鑽の賜と知りました。さてその出だしで、いきなり「日本には「前座」という習慣があります。」と本庶氏は言いました。続けて「講演の順番で利根川先生が先となりましたが、どちらが「前座」であるかは皆さんのご判断にお任せしたい」というようなことを述べ、度肝を抜かれました。話された内容は「抗体遺伝子のクラススイッチ機構」でした。発見の順番として利根川氏の抗体遺伝子の組換え機構の方が先で、本庶氏のクラススイッチ機構がその次です。しかし、本庶氏の強気といいますか押しの強さには圧倒されました。
私は免疫学の研究とはまったく関係ない世界で仕事してきたので、本庶先生のその後の仕事については、2018年のノーベル賞受賞までまったく知りませんでした。今回の履歴書で、本庶先生の生い立ちから現在に至るまで、駆け足ながらその足跡を知ることができました。最後まで読んで感じた読後感ですが、「まことに信念に生きた方だな」です。小学校時代からその片鱗はすでにあったと思われる記述ですが、京都大学医学部に進学して医化学教室の早石修教授の薫陶を受け、それが一段と伸びたと感じます。1974年着任した東大医学部栄養学の助手時代、私はてっきり「助手しかいない教授空席の講座」なのかと思っていました。しかし、真野教授という主任教授がいたことを今回の連載で知りました。その後1979年に大阪大学医学部遺伝学講座の教授に転出します。
(故早石修京大名誉教授)
(故山村雄一大阪大名誉教授)
当時から大阪大学医学部は免疫学研究の日本の中心で、山村雄一医学部長を中心に発展していました。そこに迎えられた本庶先生ですが、履歴書では
「阪大の先生にはとてもかわいがっていただいた。ライバル関係で「格上」の京大から阪大に来るケースが珍しかったこともあるのだろう。」
と書いています。これ字義通り「かわいがってもらった」という理解でいいのですかね?それともまさか相撲部屋でいう「かわいがり」だったのでしょうか??全然知らないので、私にはなんともわかりませんが、本庶先生の鼻息が窺えます。そしてAMBO会議の翌年の1982年に上記の早石修教授の後任として、京都大学医学部医化学第一講座の教授に選出されます。この時のいきさつとして、本庶氏は履歴書で
「青天の霹靂だった」
と述べています。
「当時神戸大学医学部教授としていた西塚泰美先生が京大に戻って医化学教室を継ぐものと思い込んでいた。」
西塚泰美(やすとみ)先生は京都大学医学部の出身で、早石先生の下で助教授を務めました。その当時まだ学生だった本庶先生は西塚氏の指導で初めての論文を書いたことが、今回の「履歴書」で述べられています。話は本庶先生の京大教授選任の時に戻りますが、早石先生の後任は西塚氏でないかと思っていたのは本庶氏だけでなく、一般的な下馬評としてそう思われていたと思います。西塚氏は当時PKCというカルシウムイオン依存性のタンパク質キナーゼの研究で一世を風靡していました。西塚氏は神戸大学退任後の2004年、講演中に脳内出血を起こしそのまま亡くなりました。しかし、本庶氏も「履歴書」で書いている通り、あと数年長生きしていれば確実にノーベル賞を受賞したと思われる傑出した研究者でした。
(故西塚泰美神戸大名誉教授)
しかし、本庶氏は京都大学に戻ってから免疫学の研究を推進し、上記のノーベル賞受賞につながるPD-1の発見を大学院生だった石田靖雄氏とおこないました。最終回では製薬会社ブリストルマイヤーズから5000万ドルの寄付を受けて、京都大学に「がん免疫総合研究センター」を本年11月に竣工する予定を述べて結ばれています。本庶氏はがん治療の流れはがん免疫に移ったと考えており、日本のがんゲノム研究の偏重を批判しています。「テイラーメイド医療」で個別の患者のゲノム情報に即応した細かい治療法開発より、がん免疫で一網打尽にする発想の方が大事だと仰りたいようです。
通読して感じる本庶氏の強い信念と「有言実行」の行動力には感嘆します。その集中力はゴルフのような趣味や阪神タイガースの応援といった私事にも、遺憾なく発揮されています。なんか凄すぎて、近くに居たら放射されるオーラで射殺されてしまいそうな感じもします。本庶氏のノーベル賞受賞時に弟子の一人だった仲野徹大阪大学教授が、「本庶研がいかに大変だったか」を熱っぽく語っていたのを思い出します。
交通事故のせいだと本庶先生は述べていますが、今左半身の片麻痺で不自由な生活を送られています。しかし筑波大教授の山海嘉之氏が開発したロボットスーツHALを利用して、懸命にリハビリしていると述べています。上記のがん免疫総合研究センター開所式で元気な姿で現れることをお祈りします。


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