徳田虎雄氏死去 〜功罪あるが功績は偉大
徳田虎雄というと、我々の年代の医師には特別な感慨があります。私の医学部在学時すでに徳洲会病院はあちこちに出来ていました。それまでの病院とは一線を画す画期的な運営で、注目を浴びていました。「24時間体制」とか「患者から謝礼を受け取らない」とか、それまでの旧態依然たる病院にはあり得ないことばかりでした。
私の伯父は40代後半にして胃癌にかかり、東大附属病院に入院しました。当時日銀からある地銀に異動したばかりで、将来的に頭取含みの人事だったと記憶します。胃癌はおそらくスキルスでなかったと思いますが、手術不能でなすすべもなく、結局半年くらいで亡くなりました。亡くなったあとで聞きましたが、伯母は伯父に何としてでも助かってほしいと思い、東大病院の担当医たちに大枚のお金を差し上げたと言っておりました。子どもだった私ははっきりその金額を聞きませんでしたが、おそらく数百万円以上でなかったでしょうか。封筒に入れてお渡しすると、どの先生もすっと白衣の下に入れたと言っておりました。昭和40年代のあの頃は「生きるも死ぬも医者のさじ加減ひとつ」といった具合で、一般庶民からは医者は「神様」扱いをされていました。しかし、僕は「へー、大学病院って国立でも結構金がものをいうところなんだ」と思いました。それに今思えば、医者の方は「この患者は助からない」とわかっていたはずです。それでも受け取るのか。何か違和感が残る顛末でした。
当時の日本は、今からでは想像もできないほど医療後進国だったと思います。実際の医療で大学病院や大病院はともかくとして、時代に即した的確な診療をおこなえる開業医はかなり少なかったと思います。まだまだ戦前・戦中の「医専」卒の医者が圧倒的に多かった時代でした。薬の院内処方が普通でしたが、実は医院内での調剤が実に適当で、まさに「薬九層倍」みたいなボロ儲けをしていたという話も聞きます(これが医薬分業を押し進める契機となった)。医者が開業すれば億単位の金儲けができる時代で、税務署調査の高額所得者の長者番付に医者がずらりと並びました。
そういう時代にあって、徳田虎雄氏は旧態の「お医者様は神様」の医療体制に敢然と反旗を翻しました。その結果が既得権と持つ医師会との激しいバトルです。AERAから引用します。
地域による医師不足、偏在の解消は、日本医療の永遠のテーマである。1970~80年代にかけて徳洲会は、医療過疎地に的を絞り、「年中無休・24時間診療」を掲げて病院を次々に建てた。総帥の徳田虎雄は「患者からはミカン一個ももらわない」「生活に困る患者の医療費自己負担は猶予する」と宣言し、マスコミの寵児となった。
その徳洲会の前に巨大な壁がそそり立つ。開業医が中心の医師会であった。当時、ベッド数20以上の病院の新設は、都道府県に申請し、開設者の資格や施設基準、従業者の定員などが満たされていれば許可が下りた。開設許可を得た医療法人は、病院をつくる自治体に建築確認申請をし、支障がなければ着工。開院へと進んだ。
しかし、徳洲会の場合、医師会の影響力が強い都道府県は開設許可をなかなか下ろさない。あるいは都道府県が許可をしても、自治体の医師会が「進出阻止」を唱え、立ちふさがった。徳洲会に「患者を奪われる」「生活権を侵害される」というのがその理由だ。
医師会は医師個人が会員の職能団体である。そのころ、トップには「武見天皇」と呼ばれた日本医師会会長・武見太郎が君臨し、都道府県医師会、郡市区医師会が下を支えていた。
明治の元勲、大久保利通のひ孫を娶(めと)った武見は、戦後日本の通商国家路線を定めた総理大臣、吉田茂の謦咳(けいがい)に接して政治力を蓄えた。「喧嘩(けんか)太郎」の異名をとり、攻撃的な姿勢で医療行政に医師会の意見を反映させた。
医師会と徳田が壮絶バトル
自治体の医師会は、武見の威光をバックに徳洲会に対抗する。医師会員は徳田に憎しみをぶつけた。
京都府宇治市では医師会と徳田が壮絶なバトルを展開している。京都府が徳洲会に「申請通りの価格で宇治の土地を買収してよい」と通告したのは78年6月のことだった。宇治医師会は、これに反発し、8月に「徳洲会病院進出絶対反対、健全な地域医療の確立にご協力を!」と地方紙に全面広告を掲載。医師会員の学校医ボイコット、予防接種拒否をちらつかせる。
9月、徳田は建設予定地の町内会・住民説明会で「医師会が反対しても、住民の(病院建設を望む)声は消せない」と語る。住民側は徳洲会の進出を望んでいた。医師会は地元住民に「徳洲会は危険な病院だ」と訴える。宇治市長は、住民が推す徳洲会と、集票力を持つ医師会の板挟みで頭を抱えた。
〜中略
医師会「あんた、最終的にはなにをやりたいのか?」
徳田「最終的には無医村をなくすことで、出身地・徳之島の医療をやりたい」
医師会「それなら、人のいやがる場所に病院を建てんと、徳之島へ帰ったらええやないか。徳之島へ帰りなさい。島へ帰って自分でやればいいじゃないか」
徳田「行ったこともなく、知りもしないで徳之島のことがいえるのか」
医師会側の発言には、奄美群島出身の徳田への差別的な匂いが漂う。話し合いは、物別れに終わった。
大阪大学卒とはいえ、大学医局とはまったく関係なく病院設立を始めた徳田虎雄に、既得利権を持つ医者達が意地悪く妨害に走りました。
数日後、宇治医師会のメンバーは、武見天皇へ直訴に行く。徳洲会は医師会に相談せず病院をつくり、地域医療を破壊すると訴え、歯止めをかけるよう政府に働きかけてほしいと頼んだ。喧嘩太郎の剛腕にすがったのだ。
だが、予想に反して武見の返答は木で鼻をくくったようなものだった。
「地区のことは、地区で片づけたまえ」
武見は、世論が医師会に味方しないと見抜いていた。医師会は徐々に孤立する。とくに学校医や予防接種のボイコットへの風当たりが強まった。
「医師会は子どもを人質に取るのか」と親たちが抗議をする。
宇治と同じく徳洲会と対立していた神奈川県の茅ケ崎医師会は、市当局に予防接種、日曜・祝日の当番医、休日夜間診療の拒否を申し渡したところ、市民の激しい怒りを買った。
なおも京都府と神奈川県の両医師会は、厚生大臣(現厚生労働大臣)の橋本龍太郎(のち首相)に「徳洲会の理念と、その実行方法を誇大に宣伝することは医療法違反」と陳情する。何が何でも徳洲会の進出を止めようとした。橋本は「慎重な対応が必要」と言ったきり、面談を打ち切った。
勝負あり、医師会の完敗であった。宇治市と茅ケ崎市に徳洲会の新しい病院が建設される。最終的に民意が徳洲会の後押しをしたのだった。
武見太郎もしたたかでしたが、徳田虎雄はそのさらに上を行っていたと思います。こうして、徳田は各所に徳洲会病院を開設し、念願の「平等な医療」を実現していきます。後年の選挙に関わる一連の不祥事は、残念に思います。「医療改革に政治改革は不可欠」という徳田の信念自体は正しいと思います。しかし、結果として金まみれの選挙となり醜聞も相次ぎ、古参の職員の離反も招きました。そういった残念な部分はあるにせよ、徳田虎雄氏は自分の弟の死の無念の上に、その強い信念で多くの患者に福音を与えたと思います。晩年はALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、全身麻痺となりわずかに眼筋の力で意思表示をするのみでしたが、らんらんと輝く目には相変わらず強い意思を感じました。闘志を貫き通したその生涯を改めて振り返り、ご冥福を祈りたいと思います。
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