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東京医科歯科大学(3)〜医専の成立過程

東京医科歯科大学(1)
東京医科歯科大学(2)
東京医科歯科大学(4) 〜M君のこと
東京医科歯科大学(5) 〜戦後の新制大学設立


医師の養成や教育制度は明治時代以来変遷が随分あって、まとめるのは大変です。1910年代の大正時代に入って、日本の高等教育制度による医師養成が一応安定してからにしましょう。高等教育はこの時期大学と専門学校に分かれておりました。医学もそうで一つは大学としての医学部あるいは医科大学、もう一つは医学専門学校(医専)です。戦後の高等教育は、中等教育の亜型である工業専門学校を除いて(1962年発足)すべて「大学」になりました。現在の専門学校は教育基本法の一条校ではないので、戦前の専門学校とは異なります。戦前の医学専門学校は通称「医専」ですが、今医専というと医学部専門予備校のことらしいですね。これはまったく関係ありません。


1918年の大学令の発布で、大学教育の医学部は帝国大学とこの時医専から昇格した官立医科大学、および私立大学となりました。医学部に関して所謂旧帝(北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州)・旧六(新潟、千葉、金沢、岡山、長崎、熊本)、京都府立医大、そして私立の3大学(慈恵、日医、慶應)の原型がほぼそろいました(*内地に限る)。この時期医専として残った医学校は少なく、東京医専(東医)と東京女子医専(女子医大)の 2 校だけでいずれも私立です。この大学令発布前は医学校を出なくても試験を受ければ医師になれる制度がありましたが、発布後はいずれかの医学校を出ないと医師になれません。医学校の数が少なすぎるため、たちまち医師不足となりました。陸軍や海軍に軍医学校がありましたが、軍医養成で手一杯です。その結果昭和に入った1920年代末からまた医専が増加しました。これらはすべて私立だったのが特徴で、岩手医専、久留米医専を除くと東京と大阪が中心でした。また女子医専が2校できた点も目を引きます。帝国女子医専(東邦大)と大阪女子高等医専(関西医大)です。NHK朝ドラの「梅ちゃん先生」の下村梅子の出身校のモデルが帝国女子医専で、以前書いた旧制高校の話で書いた京大の岡田節人夫人の岡田瑛が旧制山口高校に入学する前に在籍したのが大阪女子高等医専です。


大学医学部でも医専でも卒業すれば医師になれ、資格では差がありません。しかしながら、その待遇格差は歴然としてありました。また学生の資質にもかなり差がありました。旧制の専門学校は旧制中学卒で入りますが、旧制大学は旧制中卒後まず旧制高校または予科という高等予備教育学校に入学して2年修養した後に進学するシステムでした。旧制高校は現在の旧帝大系大学に入る以上の難関で、昔は超エリートでした。旧制高校を卒業後医学部は4年間、他学部は3年間ですから、旧制中4修(4年で高校を受験できた)で旧制高校に入っても医学部卒業は23歳でした。それに引き換え医専はまさに速成教育で、旧制中卒業で入学し、すぐ専門教育に入ります。医専は原則として中学卒業者(5修)に受験資格がありましたが、第二次大戦中は4修でも受験可となり最速20歳で医師資格を取れました。医専は医学部とは講義内容や時間がかなり違い、教員陣容が貧弱で専任教員が少なく(不在の講座すらあった)、教育設備も不十分でした。後述しますが、戦時徴用された軍医で大学卒は中尉、医専卒は少尉でした。


1930年代に入り日中戦争が拡大していくと、軍医の不足はますます大きくなります。軍部特に陸軍の強い要請を受けて、大学医学部附属の医学専門部が続々と創立されました。すべて普通の医専ですが中学4修でも受験可能で、しかも戦争激化とともに教育年限はさらに短縮されて3年半でした。私の母校にもこの「臨時医専」があったのですが、大学医学部の教授達からは相当低く見られていたと思います。私が学生の頃「医専のような教育で医者を養成してはだめだ」とある教授が講義で述べたのを憶えていますし、母校でその頃臨時医専卒で教員になっていた先生はわずか1人しかいませんでした。大学附属の医学専門部は「臨時附属医学専門部」でしたが、後に「臨時」でなくただの「附属医学専門部」となりました。それまでにあった医専はこの時期に大学昇格を目論みましたが、陸海軍部や内務省の強い反対に遭い、不許可でした。要するに「軍医養成に学問不要。実利優先」の発想です。この時期にできた医専の卒業生はおそらく全員が軍医に徴用され、下級軍医として前線に送られたと思います。結果として医専卒の軍医は大量の戦死者を出しました。上級軍医も不足してきたため、陸軍は千葉医科大学(千葉大医学部)を接収して軍医学校にする目論見もあったようです。しかし、これは文部省の強い抵抗で実現しませんでした。


余談ですが、作家で精神科医の北杜夫が1944年麻布中4修で旧制松本高校受験に失敗し、東京帝大附設の臨時医専に合格しました。父の斎藤茂吉の厳命で東大医専にいやいや入学します。ところが入学3日で茂吉が翻意し、旧制高校を再受験してもよいと言ったので退学したことを述懐しています。結局翌年5修で松本高校に合格し、その後東北大医学部に進学しました。漫画家の手塚治虫は1945年北野中4修で旧制浪速高校を受験して失敗し、大阪帝大附属医学専門部に入学しました。戦後卒業して医師資格を得ますが、ご存じの通り漫画家として活躍していきます。手塚治虫がすごいと思うのは漫画家として働きながら、学位も取ったことです。1961年に奈良医大で本名手塚治として「タニシの精子の形態学的研究」で医学博士号を取っています。奈良医大で学位を取ったのは、この大学が戦中設立された奈良医専から戦後奈良医科大学に転換する時、同時期に廃止された阪大医専関連で移った教員が多かったためでないでしょうか。研究指導に当たった解剖学の安澄権八郎教授も、阪大医専から出ています。


なお官立の医学部や医専は「外地」にもかなりありました。帝大に関しては京城帝大と台北帝大に医学部がありました。京城帝大には、赤痢菌発見で有名な志賀潔が慶應義塾大学医学部教授を辞して前身の京城医専校長に赴任し、後京城帝大の初代医学部長となっています。台北帝大医学部には森鴎外の長子森於菟が東京帝大医学部助教授(帝国女子医専教授を兼任)から赴任して、解剖学の教授を務めます。戦後は東邦大医学部に戻り、東邦大医学部長などを務めました。