gillespoire

日常考えたことを書きます

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

Nスペ「”一億特攻”への道」〜特攻を讃えた教師達

Nスペ「”一億特攻”への道」〜特攻は軍だけの責任でない


フィリピン戦に負けて一旦減った特攻ですが、次の展開が待ち受けていたのです。1945年3月に入ってまた特攻隊は急増しました。それは沖縄戦が始まり、サイパン島から出撃するB29による本土空襲が激化していった時期です。いよいよ「本土決戦」が近づいたのです。そしてこの時大本営のスローガンは「一億火の玉」から「一億特攻」「一億玉砕」となっていったのです。こうなったら本土決戦で日本人の最後の一人が地球上からいなくなるまで、最後まで全員が戦うという発想です。学徒動員の兵士もどんどこ特攻隊につぎ込まれました。破れかぶれも極まれりですが、一種のマスヒステリーだったと思います。


どうやって学徒兵から特攻隊員を選んだのか?恐ろしいことが述べられていました。まず各学徒兵に特攻隊志願について「熱望」「」「」の希望を出させます。放映されたリストを見ると氏名欄冒頭に「熱望」「望」「否」が記されています。ではその順番に特攻隊員に選ばれていったのか?全然違うのです。「熱望」を出した者が寧ろ選ばれず、ほとんどが「望」なのです。「否」と書く者は一人もおらず、要するに「望」とは本当は特攻隊員になりたくないということなのにです。番組で戦史研究家の神立尚紀氏が読み解いていました。「このリストは海軍入隊後の総合成績順に並んでいる。「熱望」を記したのは最上位の学生がほとんどだが彼らは選ばれていない。選ばれているのは「望」を出しているその次の成績順位の者が中心である。そして下位成績の者も「望」がほとんどだが、まったく選ばれていない。」有り体に言います。最優秀の学生はリザーブしておき、二番手を特攻に送り出した。箸にも棒にもかからないアホは特攻機の操縦なんてできっこないから採用しないつまり中途半端に成績が良かった者が一番割を食ったのです。自分がこの時代の学徒兵だったら、二番手くらいじゃなかったかな。まさに「捨て駒」にされたでしょう!


 この時期になると特攻隊の隊員招集は、軍から指示を受けた市区町村に伝達され、どこも競って予科練応募者を募ります。主に旧制中学の生徒かそれに相当する青年が対象です。軍の地方事務所は市区町村に割り当て数を決め、実際にどれくらいが応募し、合格したかも競わされています。もうしかし、焼け石に水で本土空襲も本格化し、特攻そのものが無理になっていきます。しかしこの段に及んでも、海軍少将の富岡定俊が「沖縄で負けたら一億特攻だ」と叫んでいます。キチガイ沙汰ですが、それがおかしいということすら憚られたのでしょう。もう普通の戦闘機すらないから、練習用水上飛行艇まで駆り出して重い爆弾を持たせ、超低空で沖縄まで行かせようとする。しかしアメリカ軍はお見通しで、途中の海上ですべて撃墜。完全な犬死にとなりました。「天空の城ラピュタ」のムスカ大佐に言わせれば、「素晴らしい!最高のショーだと思わんかね」「見ろ、人がゴミのようだ!」でしょう。新聞を始めメディアはその事実を伏せて特攻隊員を「神鷲」と讃え、煽る、煽る。


 最後に国民学校の校長で、教え子に特攻隊に志願するよう煽動してまわった先生の話が出て来ました。校長先生は自分の長男を海軍兵学校に入れています。この時代の海軍兵学校は難関で、旧制高校に入れるくらいの優秀さが必要でした。しかし1944年の特攻隊として出撃した長男は戦死。出撃前結婚したばかりの奥さんに遺書を残していましたが、まさに「捨て石になる」と書かれていました。そして残された奥さんは1945年の敗戦で自決しました。その時の遺書がこれです。


世の中はすべて空なり。君なくてただいたづらに生きながらえんか


戦後父親は教職に戻らず、慣れない農業に携わり一生を終えました。しかし、死ぬまで針のむしろだったと思います。私は百田尚樹という作家が好きでありません。最大の理由は彼の小説「永遠の0(ゼロ)」です。特攻隊員が個人として有徳であったかどうかより、そういう特攻隊を押し進めた異常な集団心理がなぜ回避できなかったかにもっと目を向けるべきでないでしょうか。


 戦後を考えると「一億特攻」は果たして荒唐無稽と言えたのか考えてしまいます。あれだけの圧倒的兵力を抱えるアメリカはヴェトナム戦争では負けました。アメリカの湯水の如くの援助で腐敗を繰り返した南ヴェトナムは、高い精神性を保った北ヴェトナムに勝てませんでした。また今も続くイスラム教徒の自爆テロ。西洋的な文明からすればあり得ない自滅行為を支え続けるイスラムの宗教的な熱狂は、戦時中の日本と似ています。今の日本も決してそういう精神主義的な集団心理と無縁と言えず、状況次第ではまた繰り返されると私は深く用心しています。


再びNスペから引きます。17歳で特攻隊員になって1年足らずで戦死した志願兵には、出身の国民学校だけでなく郡(福岡県八女郡)のすべての国民学校の教師達が追悼文を寄せた文集がつくられました。「大君の盾」「軍神」「神鷲」となって栄誉をたたえられましたが、自らを「教育界の特攻隊員」という20代の教員が、こんなことを書いています。



ああ それがいけないのだ その消極が
特攻隊員を見よ
みんな青年ではないか
そうだ僕は青年だった
教育界の特攻隊員なんだ
遠慮気兼ねなど追放して

一人で充分だ信念さえあれば
そうだ、僕は歯車だ 歯車になるんだ
ぢりぢり廻はって特攻隊員をつくるのだ
やるぞ やるとも
やるんだ



兄を沖縄戦の特攻で亡くした妹が証言しています。出撃直前に飛行場に駆け付けた母、姉、妹に、兄は「特攻隊員になった」と告げます。「なぜ隊員なんかになった!」と詰め寄る姉に、優しかった兄は顔色を変えます。「何を言うてる!そんなこと言うもんと違う!国賊が!」と言います。姉は沈黙します。最後に「笑顔を見せい!」という兄に妹は抵抗しました。いかに常軌を逸していたとはいえ、兄から「国賊が!」と罵られた姉の気持ちはいかばかりか。


最後に上記で「一億特攻」を唱えた富岡定俊少がその後どうなったか?8月15日の敗戦で潔く腹を切って自決したか?wikiから引きます。

1945年8月、終戦。富岡自身の書いた著書によれば、富岡に詰め寄ってくる者もいたが、「第二次大戦が終わると必ず自由主義と共産主義つまり米ソの対立になる。その谷間に立直る機会ができる。幸いに民族は残った。そこから繁栄する新しい日本を育てよう」と説明して納得させたという。

そして1970年12月7日までのうのうと生きました。「玉砕」じゃなかったのか?戦後25年間も生きてて恥ずかしくなかったのか、富岡定俊?しかし、ずるい奴はいつの時代も狡賢いのです。そういうのに騙される頭が悪いバカが悪いのでしょう。ハハハハ!僕には乾いた笑いしか浮かびません。