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「「私」という男の生涯 」〜小樽と湘南高校時代

(石原慎太郎「十代のエスキース」から)


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「私」という男の生涯」は出版まで15年近くにわたって書き続けたとのことで、推敲も4度おこなったと出ています。そう書かれると満を持した出版と思ってしまいます。しかし通読した印象、どうもそうでない。綿密に書かれている部分とかなり雑に書き流された部分が混在しています。全体として、一つの本として統一されてないのは明白です。おそらくですが、2014年に石原慎太郎が脳梗塞を患ってから後は、口述筆記に頼っていたのでないでしょうか。そのため校正が粗くなっている。また脳梗塞の後遺症で、石原の認知機能も多少なりとも低下してしまったのでないかと感じる点もあります。


  そういう玉石混淆の文章ですが、丁寧に書かれているのは小樽の幼少時代と逗子で過ごした少年〜青年時代です。ここは出だしから読んでいておもしろいし、痛快な記載もあります(以前この本以外の何処かで聞いたことがあるエピソードも多いですが)。慎太郎少年の記憶は3歳の頃、神戸にいたときの線路置き石事件から始まります。私の記憶も3歳ころから繋がっており、大体この辺が普通のひとの人生の記憶出発点でしょう。その後山下汽船に勤める父親の転勤で小樽に移りますが、小樽は寒さの思い出で占められています。その後移り住んだ湘南の自然の豊かさと小樽の貧しさというか厳しさを比較していますが、小樽も悪くないのでないか。やはり寒さが原因でしょう。あと小樽で裕次郎がしでかした「子犬川流し事件」は愉快でない記憶として刻まれた影響も考えます。


 第二次世界大戦敗戦前の1945年4月に旧制湘南中学に進学しています。後年の県立湘南高校ですが、旧制中学時代は海軍兵学校や陸軍士官学校に途中転学する生徒が多かったとは知りませんでした。慎太郎の記載によるとやたら海軍将官(それも有名な)の子弟が多かったようです。おそらく横須賀にあった海軍基地に近い地域だったからでしょう。旧制湘南中は創立時の1920年から27年の長きにわたって「赤木愛太郎」という人物が校長を務めました。前職が新潟・長岡女子師範校長とのことですが、なぜ神奈川に?検索すると、赤木愛太郎校長は今の湘南高校でも顕彰され評価されています。しかし、慎太郎少年は入試面接の態度からこの校長にあまり良い印象を持たなかったようです。


 本題から逸れますが、この校長ちょっと気になったので調べました。予想通り赤木愛太郎氏は「東京高等師範」卒でした。高等師範は戦前の旧制中や師範学校の教員養成校で、格としては旧制高校に近い名門です。赤木の新潟からの異動は神奈川県の強い要望とのことで、当時から人望があったと思われます。赤木の湘南中の校長としての貢献には2つ特徴がありました。一つは英語教育。東京高師には帝大出身の岡倉由三郎という優秀な英語教授が居て、赤木はその薫陶を受けています。ちなみに岡倉由三郎はかの岡倉天心の弟だそうです。天心というと「茶の本」(The Book of Tea)が有名ですが、あの文章完璧な英語です。とても明治期に日本人が書いたとは思えないレヴェルです。これ、由三郎も関係しているのでないか?岡倉の指導を受けたせいか、赤木は英語教育に熱心で高師出身の精鋭の英語教師を集めています。特に発音重視は当時の講読重視の英語教育とは真反対です。「湘南プラン」と言われたそうですが、戦後も湘南高校の英語教育は「湘南メソッド」として知られてます。ちなみに私も高校時代、東京高師の後進・東京教育大卒の英語教師に教わりましたが、めちゃくちゃ鍛えられました。話を戻すと昭和時代初期は藤村作(つくる)という東京帝大の国文科教授などが「中学英語教育全廃論」を唱えていた時代です。アメリカが台頭する日本を恐れて「排日移民法」を制定し日本排斥に乗り出した頃ですが、対抗して英語の学習に否定的になったのです。赤木は敢然として英語教育否定論を拒否したわけです。「敵性語」として英語教育が極端に制限された戦時中ですら、湘南中は英語教育を続けました。


 さて赤木のもうひとつの特徴はサッカーです。なんと野球を禁じてサッカーを推奨したと出ています。湘南高校サッカー部のOB会誌から引きます。

赤木校長は野球だけは在職中禁じた。ボールを中心に、ひとりひとりが気をつけないと広い運動場が使えないからだ。そこへいくと、サッカーはボールが当たっても痛くもない。それでサッカーを無上の運動とした。

うーん、確かに硬球は生身に当たると確実に怪我します。しかし、湘南高校のグランドは知ってますが、そんなに狭くはないが?硬式野球とサッカーのグランドはそれぞれ1面ずつくらい優に取れます。サッカー一択となったのは、これも東京高師の影響らしいです。東京高師は日本のサッカー発祥の地のひとつで、サッカー熱が強かったそうです。wikiによるともともと神戸の居留地で始まり、それが地元師範学校から高等師範に逆導入されたと出ています。

サッカーが最初に師範学校、神戸市の御影師範学校で受容されたのは非常に重要な事であった。近畿地方がサッカー先進地となり、師範学校の交流を通じて東京高等師範学校(以下、東京高師)(現、筑波大学)をはじめ全国の師範学校もこれに追随する事に影響した。東京高師が日本最古のサッカーチームとして立ち上がることとなる。(1896)


高等師範卒業生たちは全国各地の旧制中学や師範学校に赴任し「赴任地にゴールポスト!」を合言葉に、サッカーを全国に広めたそうです。赤木愛太郎はサッカー部OBではありませんが、どうもこの運動の一翼を担ったらしい。僕には湘南高校に進んだ友人や知人が何人か居ますが、サッカー部員もいました。そのひとのサッカー愛はやけにすごいものでしたが、こういう伝統があったのか!赤木愛太郎が湘南中に残した足跡は大きいです。


 しかし、石原慎太郎は赤木愛太郎にとことん否定的です。戦後赤木が公職追放を受ける前におこなったエピソードを紹介しています。突然「校長訓示」として全校生徒に招集をかけます。そこで赤木校長は見知らぬ人物を壇上に上げ、「我が校の現在一番の出世頭」と紹介します。大蔵省の理財局長だったそうですが、石原はそれが我慢ならなかった。あれほど海軍など軍の学校に進むのが「お国のため」と推進していた学校の校長が、いきなりそういう人物を激賞した「変身」に吐き気を憶えたと書いています。石原は学校に失望し、1年病気を口実に休みます。


 うーん、しかし石原慎太郎は湘南中(旧制)〜湘南高校(新制)でサッカー部に所属し、随分打ち込んだと書いています。その時赤木は公職追放ですでに湘南高校を去っていますが、石原がサッカーをできたのも、赤木校長のおかげではないのですか?湘南中入試の模擬面接で国民学校の先生から「志望は外交官じゃなくて海軍兵学校と言え」と言われ、石原は実際の面接で「海軍士官志望であります!」と言って、通ったと言っています。しかし、湘南中が特に海軍兵学校を推したというよりは、旧制高校と並ぶ当時の名門校のひとつくらいで推したのでなかったでしょうか?東京にある攻玉社海城は戦前海軍兵学校に進む専門の中等学校として創立されましたが、さすがに湘南中がそういうのと同じと思えません。教師の指導というより、海軍将官の子息が多かったので自然とそうなったのでしょう。


戦後の混乱の中、大船から藤沢までの東海道線は朝の下り方面でもひどい混雑だったようです。列車後部デッキに一緒にぶら下がってた同級生が身を乗り出したはずみに線路脇の鉄塔に激突し、即死するのを慎太郎は目撃します。石原慎太郎が生涯意識することになる「死」はこの同級生の不慮の事故死で急に近くなったようです。


 石原慎太郎が絵を描いた話は聞いていましたが、後年「十代のエスキース」としてこの時期の絵の個展を開いています。検索すると確かに上手く、個性的です。しかし同時にグロテスクな絵も描いていて、石原少年の内面には暗いものもあったと感じさせます。


 石原慎太郎が京大文学部志望だったとは初めて知りました。しかし、親代わりの山下汽船社長の二神氏の忠告で諦めています。理由は大きく2つあり、まず「文学部では就職に困る」でもう一つ「家庭の困窮」でした。石原慎太郎は結局一橋大を出ても就職なんかせず作家として大成功するから、京大文学部の方が良かったのでは?と思います。しかし後者が問題で、慎太郎が高3の時父親が脳溢血で急死します。遺産は充分あったのですが、弟の裕次郎が遊び人で家の金を浪費していました。そちらを監視するという意味で京都には行きづらかったでしょう。石原裕次郎は慶應義塾大学法学部中退ですが、まあ裏口に近い方法で入っています。裕次郎は勉強ができず慶應高校受験は失敗し、慶應農業高校に入ります。この高校は現在の慶應義塾志木高の前身で、戦時中獣医学校を目指してつくられた学校が戦後農業高校に転換したものです。農業高校には大学への内部推薦もなく、当時のレヴェルはかなり低かったようでかなりの低学力者でも拾っていました。そこに入り、ただ高校3年で推薦枠のある日吉の慶應高校に編入したのです。この編入裕次郎以外に聞いたことがありません。今騒がれる悠仁様の筑波大附属高校に進学したような特別扱いと思います。しかしまずいことに慶應は高校も大学も良くも悪くもお坊ちゃんが多く、遊び人が多いです。裕次郎はたちまちそれに感化され、放蕩のかぎりを尽くしました。慎太郎からすればしょうがない愚弟となりますが、彼の作家デビューには裕次郎の交渉の腕が大きくものを言いました。もし慎太郎が京大に進学して敬愛するフランス文学者の桑原武夫教授などの謦咳に接していたら、どんな進路になっていたでしょうか?石原慎太郎の文学は戦後東京の若者の風俗と密接に関連しており、ちょっと想像しがたいのですが思わず夢想します。