gillespoire

日常考えたことを書きます

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

「サクランボの花咲く頃」〜じゃないです長塚京三さん

またまた日経のコラムですが、夕刊1面のコラム「明日への話題」で長塚京三さんが執筆者の一人になっています。5月13日は「たった50年前のこと」と題して、映画俳優として初めて立った時のパリの思い出を語っています。その中でメニルモンタンを散歩し、桜の木が多く目に付き、「サクランボの花の咲くころ」と謳われたパリ・コミューンの故事を追想したと出ています。


 これ有名なシャンソン「Le Temps des cerises」から来ていますが、「cerisesの季節に」という意味です。ceriseといえば桜のことですが、ここでいう桜は「桜の花」じゃないのです。実の「さくらんぼ」のことなんですね。長塚さんは早大文学部の仏文出身だということ今回初めて知りましたが、何となくそのことは大学時代習って知っていたから「サクラの花の咲くころ」じゃなくて「サクランボの花の咲くころ」と書いたんじゃないでしょうか?しかし間違いです。そもそもフランスでは、桜の花を日本みたいに愛でる習慣はありません。花木のひとつとして公園や庭にはありますが、桜だけすごく珍重することはないです。寧ろ初夏の一時に出回るサクランボが庶民にはなじみ深いです。日本のサクランボでもっとも多い佐藤錦は紅黄色ですが、フランスのサクランボは深紅に近いです。その深紅色が「血」を思い出させる訳です。


 私はこのシャンソン「Le Temps des cerises」が1871年のパリ・コミューン以前の作品だったことを、今回初めて知りました。てっきりパリ・コミューン事件で犠牲になった大勢のパリ市民を悼んでつくった歌曲と思っていたのですが、その5年前の1866年につくられていたのですね。共産主義者でもあったジャン=バチスト・クレマン(Jean-Baptiste Clement)が作詞しました。それが普仏戦争敗北でパリなどに興ったコミューン(労働者政府)が初期の第3共和政府軍によって壊滅させられた時に再度歌われるようにになったのです。ナポレオン3世の第2帝政時代にフランスの産業革命が振興し多数の労働者が都市に誕生しました。それを背景に労働運動が盛んになり、社会主義も浸透しました。1789年のフランス革命で始まった共和政治はその後帝政や王政で圧迫されていましたが、普仏戦争の敗北で一挙に開花したのがコミューンだったのです。しかし資本家を中心とした有産階級は労働者を敵視し、蹂躙したのがパリ・コミューン事件です。パリ・コミューンは1871年3月28日に興り5月28日に鎮圧されています。ちょうど今の季節ですね。この鎮圧でパリだけでも3万人が殺されたと言われます。この虐殺を描いたのがヴィクトール・ユゴーの「レミゼラブル」で、舞台や映画でこの場面を視た方も多いのでないでしょうか。


 パリでサクランボが出回るのは6月に入ってからかな。フランスでもサクランボのシーズンは短いですが、虐殺された者たちを悼む時期と重なるので歌い継がれているのでしょう。フランスのサクランボは甘くて美味しいですが、その味と色に犠牲者を追想するのです。ちなみにパリ・コミューンで最後の激戦となったのは、市南部13区のビュット・オ・カイユ(ウズラ丘)です。市北東部のメニルモンタンじゃありません。長塚さんが勘違いしているのは、パリコミューンの犠牲者を弔ったサクレクール大寺院にメニルモンタンが比較的近いせいでしょうか。それともメニルモンタンのコミューン(村落)がパリ市に併合された過程をパリ・コミューンと勘違いしている?