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岡田武史さん 〜今治FCオーナー


朝NHKニュースをつけたら、祝日インタビューで岡田武史さんが出ていました。懐かしい。1998年サッカー日本代表監督を辞めた後どうされていたのか、あまりよく知りませんでした。あの時の監督就任は驚きでしたね。「知将」と言われた加茂周(かもしゅう)監督でしたが、1997年のワールドカップ・アジア予選の不振で電撃的な解任となり、その後任が岡田武史さんでした。コーチこそ経験あれ、監督未経験の全日本代表監督就任でした。しかし、その後サッカー日本代表はジョホールバルでの劇的な勝利で、初のワールドカップ出場となったことは皆さんよく覚えていると思います。1990年代は社会人サッカーチームが改組されてプロ化された日本サッカーの黎明期でした。


 今wikiを見たら、その後コンサドーレ札幌監督、横浜F・マリノス監督、そして再度の日本代表監督になりました。2回目の日本代表監督は最後まであまり良い首尾でなく、ファンに散々に叩かれています。実は私サッカーの試合はほとんど観ません。サッカーは自分でやるから楽しいので、ゲームとしては得点がじゃんじゃか入るものでなく、興味が持てないからです。自分がおかしいの?そういう訳でそこまでサッカーにのめり込んで熱狂するファンの心理は、正直よくわからない。なんかサッカーの監督するの、しんどそうだな。


 その後、2012年中国・杭州のサッカーチーム監督するも、1年足らずで辞任。その後2014年11月、四国サッカーリーグ・FC今治のオーナーに就任しました。wikiから引きます。

指導者ではなく敢えてオーナーとなること、それも地域リーグのクラブを選んだ理由について、岡田は「日本のサッカーはこのままでいいのか」という疑問に対する一つの答えとして「日本のサッカーはこういうものだという『型』(=一貫したスタイル)が必要だ」「それは代表監督や日本サッカー協会が作るものでもない。むしろ、クラブから生まれるべき時代が来ている」という結論に至ったこと、当時J1とJ2のクラブから、全権監督としてのオファーがあったものの「新しいチャレンジをするために潰すべき既存の枠組みもその分大きいし、時間もかかる」「小さいチームなら、時間はかかるかもしれないけれど一から始めることは比較的簡単」という考えから、大学時代の先輩がオーナーをしていたFC今治からのオファーを受け入れたと述べている。

今回FC今治に来て10年という節目で、インタビューに応じたわけです。話を聞くと、決してサッカーが盛んな地でない今治で、散々苦労しています。サッカーに興味がない地元民にアピールするため地道な宣伝をするが、全然観客が増えない。オーナーとして社員の給料支払いにも窮しています。しかし、少しずつ顔は売れていったようです。転機は「自分たちのサッカーを売り込むんじゃなくて、地元民のニーズに応えること」と思うようになったこと。しかし、じいさん、ばあさんの日用手伝いまでしたのか。


 岡田さんは地元に元々あった私立高校(今治明徳高校 矢田分校)と提携して、「JF今治高校 里山校」の設立とともに校長も務めています。うーん、よくやるな。実は今治市は僕にとって先祖の地でもあるので、ある程度実情を知っています。今今治市の人口は減る一方です。特に出生率がどんどん下がっており産科医院の廃業が相次ぎ、開業産科医院はもう1軒しかないのです。若者という視点からはお先真っ暗といってもいいでしょう。そこで、岡田さんはどう勝負するつもりなのか?岡田さんはJF今治高校 里山校だけでなく、今治の他の高校のサッカー興隆にも励んでいます。そのひとつが県立今治東高校です。2020年今治東は第98回全国高校サッカー選手権大会で初出場を果たしてています。その時のSPORTSBULLの記事から引用します。


「サッカーで地方創生」の先駆けに!「岡田メソッド」だけに非ず、今治東躍進の本当の意義


「町の中心地に土地はあっても、商店街には誰も歩いていないというか。このままならたとえチームが強くなっても、応援しに来てくれるお客さんがいなくなるというか。少子高齢化の限界都市のようになっていたので、何とか町と一緒に元気になる方法がないだろうか、と思ってきたなかで地域や地方の創生も始めよう、と。今治の未来に必要なものを提供しなければいけない、と考えたんです」


冒頭で記したように、今治市の人口は県内で2番目に多い。しかし、2000年の18万627人から2万以上も減少しているうえ、今後の予測では2045年には10万525人という数字が弾き出されていた。少子化に加えて、15歳から64歳までの生産労働人口も半減するとも指摘されていた。


ならば、FC今治の経営者として具体的に何をすればいいのか。まずはサッカーを介して町を活性化させ、市民を元気にするという願いを込めて、後に「岡田メソッド」として体系化され、かつてはビラ氏が言及したプレーモデルを今治市のサッカー界全体で共有したい、という青写真を描いた。

大学を卒業したらFC今治でプロに。循環し始めた人づくり


メソッドを体系化するうえで、岡田氏は剣道や茶道などの修業でよく使われる「守破離」という概念をサッカーに持ち込んだ。師匠や流派の技や教えを確実に身につける「守」から、他の流派にも触れて心技を発展させる「破」を経て、独自の新しいものを生み出していく「離」へと移っていく。

〜中略

「今治全体で強くなっていこう、という目標があるので。選手権出場を決めてから僕たちは地域の大勢の方々から祝福の言葉をいただきましたし、FC今治がJ3昇格を決めた瞬間も本当にうれしかった。何よりも将来はFC今治に帰ってきてプロになりたい、という目標がみんなにできたと思う。地元に支えてもらってきた一人として、自分も今治へ帰ってこられるように頑張りたい」


卒業後は関西国際大学でサッカーを続ける大谷は、伝授された「守」を「破」から「離」へと進化させたいと笑顔を輝かせる。大学を卒業した子どもたちが故郷へ戻ってくる流れが生まれれば、生産労働人口の減少も食い止められるかもしれない。夢が膨らむからこそ、大谷はこんな言葉を残した。

〜中略


今治東の選手権初出場・初勝利。3度目の挑戦で成就させたFC今治のJクラブへの仲間入り。メソッドを言語化した著書の発表。そして、新スタジアム構想が加速された令和元年度を、岡田氏は「重く、大きな石がようやく動き始めた最初の年なのかな」と位置づけている。


「いままで止まっていた石を動かすまでが本当に大変で、ここからは何とか動いていくんじゃないか。非常に楽観的ですけど、そのように思っています」


サッカーを変えたい思いが、日本社会全体の課題でもある、地方創生や少子高齢化対策と融合。いつしか一大プロジェクトへと変貌を遂げている現在地を楽しむかのように、トレードマークの眼鏡の奥で瞳を輝かせながら、岡田氏は大きな石が転がっていく先々で起こる化学反応を心待ちにしている。

なんか夢のような壮大な話です。再びNHKのインタビューに戻ります。JF今治高校 里山校の目標として「ロールモデルがない時代をどう生き抜くか」と掲げています。「自分で考え抜いて道を模索する」は岡田さんが自分のサッカー選手、そして監督としての経験から出ているようです。「30代のサッカー選手時代、当時の日本サッカーは監督の指示待ちだった。ところがヨーロッパから来た指導者たちは、「選手にいちいち指示なんかない。自分でその場その場を考えるんだ」と言われて衝撃を受けた」そうです。岡田さんの行動もそれに則っています。「今治にサッカースタジアムを」という構想は、今治市民にとって「はあぁぁ?」だったようです。若者のスポーツは野球だけではなくサッカーもあるのかという認識しか育ってないのに、5000人収容のスタジアム建設ですよ?しかし、岡田さんは「単にサッカーだけでない。「今治の市民が元気になれるために、カフェをつくり障害者施設をつくり、田んぼやワイナリーも経営する」とぶち上げました!その熱意に今治市議会も動かされたわけですが、そのスタジアム建設にかかるお金40億円を岡田さんが集めたのはすごいです。FC今治高校には柔道の井上康生も講演に来るくらいですから、岡田さんは自分の人脈をフル活用したのは間違いありませんが。


 岡田武史さんは現在68歳です。高齢とは言えないけど、若くもないです。果たしてこの今治構想は成功するでしょうか。少なくとも岡田さんが倒れてしまったら瓦解します。自分は先祖の地今治市を訪れたことがいまだありません。何年かして仕事を辞めたら必ず行ってみようと思っていますが、その時岡田さんが築いた「サッカー王国・今治」を見ることができるか期待しています。