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日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(1)〜京都大医学部 藤浪鑑(あきら)先生

日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(2)〜慶應医学部生理学教室の源流(1)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(3)〜慶應医学部生理学教室の源流(2)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(4)〜慶應医学部生理学教室の源流(3)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(5)〜慶應医学部生理学教室の源流(4)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(6)〜慶應医学部生理学教室の源流(5)


 私は色々ものを知らないということをこの年にして知ることになっていますが、この本の著者杉晴夫さんもまったく知りませんでした。日本の生理学研究で筋の生理学は伝統があり、東大薬理学の教授だった江橋節郎先生(1922~2006)は有名です。世界的にはイギリスのハクスレーやホジキンが有名ですが、日本の研究者たちも江橋先生を始めとして大いに貢献しました。杉さんは特にミオシン頭部の運動で重要な仕事をしたようです。さてその杉先生が現在の日本の生命科学を深く憂慮して書いた本ですが、まずびっくりしたのはこの本を88歳にして出版されたこと。老いても本を出す方はいますが、往々にして無惨なことになっているものです。しかしこの本は間違っていると思うところはあるものの、実に慧眼です。私としては触れたい点が多々あるので、数回に分けて感想を述べます。


 まず改めて思い知るのは、明治期から昭和初期にかけて日本には医学を中心として生命科学で重要な貢献をした人が何人もいたことです。高峰譲吉、鈴木梅太郎、北里柴三郎、山極勝三郎といった偉人たちが、明治に入って導入された欧米の科学の知識を吸収して、わずか数十年で独創的な業績を次々と出しています。20世紀初頭の欧米文化による人種的・地理的偏見さえなければ、日本人はノーベル賞を始めとして国際的な栄誉をもっと受けてしかるべきでした。日本が世界に誇るべきなのは近年のノーベル賞受賞者たちより、物資・資金とも貧弱だったこの時代に大活躍したこれらの先達かもしれません。


 杉さんが克明に調べていると感心したのは、藤浪鑑(あきら)に触れていることです。1970年代後半、ウイルスによる発がんの研究が急速に進み、そこからがん遺伝子などがん化に関わる遺伝子機構が明らかになってきました。その発端となる発がんウイルスの発見はかなり古く、1911年アメリカのロックフェラー大学にいたラウスがニワトリに感染する肉腫形成ウイルス(RSV, Rous sarcoma virus)として見つけています。現在このウイルスが持つ発がん遺伝子はsrcと呼ばれ、チロシン残基のリン酸化をおこなうシグナル伝達酵素であることがわかっています。この発見でラウスは1966年にノーベル生理学医学賞を受賞しました。ところが日本でも、京都帝国大学医学部の病理学教室の初代教授になった藤浪鑑が1914年にラウスとは独立にニワトリに感染する肉腫ウイルスを見つけ、Fujinami sarcoma virus (FSV)と命名しました。こちらも後にsrcと同じくチロシン残基をリン酸化する酵素と分かりました。私も医学部学生時代の勉強でFujinami sarcoma virusを知りましたが、あまり記載がないのでどういう経緯だったかよく理解してませんでした。脇道にそれますが、これらsrc関連の遺伝子機能については、ラウスと同じロックフェラー大に在職した花房秀三郎先生(大阪大理学部卒 1929~2009)が重要な貢献をしています。


 残念ながら藤浪先生は1924年に亡くなってしまったので(1870〜1924)、ノーベル賞受賞はなりませんでした。しかし杉先生が憤慨するのは、折角日本でも先見の明がある発見がなされたのに日本の学会で黙殺されたこと。実はラウスも当時のアメリカの医学界ではその発見が受け入れられてなかったことを今回知りましたが、日本の藤浪先生でも同じで特に東京帝大医学部の教授達の責任だと難じています。事実とすれば実に惜しい話です。ただ藤波先生は教育家としても、優れた先生だったようです。滋賀医大の病理学教授だった挾間章忠先生が、母校京都大学で病理学教室に入局した時、保存されていた古い病理剖検の記録を見たら、藤浪教授が弟子達の記録を丹念に読んで朱筆で校正されていたことに触れています(滋賀医大図書館のサイト記録)。狭間先生はそれを見て感激したと書かれています。しかし藤浪先生に関する記録はネットではwiki記載といくつかがあるくらいであまり多く見当たりません。藤浪鑑は東京帝大医科大学卒で、病理学教室の山極勝三郎の初期の弟子です。入局わずか半年ほどでドイツに留学し、留学後は新設された京都帝大医科大学の教授に就任してしまうので短い付き合いです。山極勝三郎のウサギ耳のコールタール発がん実験は有名でノーベル賞候補だったことはよく知られてますが、藤浪鑑についてはあまり多くのひとは知らないでしょう。



***滋賀医大図書館の図書館報記録が1997年と古く、狭間先生の記載がいつまで保存されるか心配なので以下に転載します。

図書館、Library、Bibliothek

副学長 挾間章忠

これまで50年以上の間、いろんな文庫、図書館を利用して来たが、ふっとそれら過去の図書館との出会いをなつかしく思いだした。本との最初の出会いは、まだ幼かった頃、私が育った家の書庫だった。そこにはいろんな種類の本が並んでいた。父は本屋が持ってくる全集を片っ端から買っていた形跡がある。と言うのは、その種類があまりにも雑多で、統一が取れていなかったからだ。父がそれらの本を読んでいたかどうかは定かでない。私はやんちゃで、どちらかと言えば外で暴れ回るほうが好きな子供であったが、案外、この部屋に一人で篭り切って熱心に読書していた記憶もある。講談全集の荒唐無稽な話にうつつを抜かしていた一方で、内容が理解できるはずのない漱石全集を小学校の頃からすでに読んでいたのを覚えている。すべての漢字にルビが振られていたのがその理由の一つと考えられる。そのうちに鴎外全集も読むようになった。難しいところは抜かして読んでいたに違いないが、その後も繰り返し読んで、私の人格形成にかなりの影響を与えることになった。「三っ児の魂百まで」と言うが、どのような本を家に置いておくかということは子供の人格形成に重要な問題なのかも知れない。

また小学校の頃、市立図書館を恐る恐る尋ねたことがある。今まで見たこともないような沢山の本が書架に並んでいるのにびっくりし、胸を踊らせた。ただ、利用者は書庫内に入ることができず、まずカードを検索して係の人に希望の本を取り出してもらうという複雑なシステムであったため、自分自身で本の内容を予め知ることができず、どのような本を読もうという目的のはっきりしていなかった子供の私にはあまり利用価値はなく、また戦争もたけなわとなり、あまり行かなくなった。

戦争が終わり、アメリカ文化センターが設立された。ここにも図書館があり、あまり多くはなかったが、新刊書がずらりと書架に並び、出入り自由であり、簡単な手続きで本の借用ができるのを見て新鮮さを感じた。中学の後半から高校時代に、このセンターにはよく通った。当時は生きた英語を学ぶ手段は直接外人に接する他はなかった。センターで催される米語会話の授業には、美人の教師がいたおかげで熱心に参加した。そこで、アメリカ哲学にプラグマティズムなるものがあることを知り、古くさい利用されない日本の図書館と較べ、アメリカの図書館にその言葉を当て嵌めてみたりしたものだ。

私の大学時代は戦争直後で、日本全体がまだ貧しい時代だった。本は少なく、紙質の悪い岩波文庫がやっと毎月数冊復刊されていたに過ぎず、それを片っ端から買ってむさぼり読んだ。選択の余地はなかった。図書館にも本がなく、だだっ広い寒々とした館内にわずかの本が並んでいるに過ぎなかった。どのような経緯だったか、江戸時代に流行したコレラに興味を持ち、自分で古文書を読みたいと思い、大学図書館を尋ねた。ここには医学史の大家である富士川游博士が寄贈した文庫があり、一般蔵書から離れた場所にあまり整理もされず積み上げられていた。それら古文書の量の多さと質はすばらしいもので、思わぬところに宝の山が転がっているのをみて驚いた。

大学を卒業し、入局した京都大学の病理学教室にはすばらしい蔵書があった。昔、火事で建物は全壊したが、当時の教授は教室の再建の予算を見て0を一つ付け足した。ところがそっくりそのまま予算がついたという話を聞いたことがある。病理の有名な雑誌は初巻から揃っていた。ただ、戦中、戦後の新しい雑誌は欠けたままだった。単行本も、古いドイツ語の有名な医学書はほとんど揃っていた。これも新しい本はなく、書庫はほこりを被って誰も利用しようとしなかった。しかし、詳細に観察すると、ここにも宝の山があることがわかった。時を忘れて書庫で本に見入ることも屡々だった。漱石の「三四郎」のなかに、主人公が大学の図書館のどの本を取ってみても、かならず読まれた形跡を発見し、驚くシーンがある。同様のことを私も体験した。本にはアンダーラインが引かれ、書き込みがなされ、感激した箇所にはブラボーとさえ書かれており、先輩の息吹きに直接触れる思いをした。古い解剖記録に、初代教授の藤波鑑先生が弟子の記録にびっしりと朱で訂正されているのを見て感激した。また、生体染色法で網内系なるものを確立された、清野先生が書かれた大部のドイツ語の単行本を発見し、驚嘆した。ある本棚に巻物があるのを見つけ、拡げてみると学会に参加し、皆で楽しんだ様子が、筆と墨で見事な絵物語で書かれていた。このような経験から、ほこりにまみれた教室の書庫が過去の有名な偉い先生方をごく身近な存在にしてくれた。

その後、ドイツのミュンヘンにあるマックス・プランク精神医学研究所に留学したが、この研究所には小さいながら立派な図書館があった。そこの主任は、とても優雅な品のよい中年のレディーだった。私が図書館を尋ねていくと、かならず近寄ってきて、「何を探しているんですか?お手伝いしましょうか?」と尋ねてくれた。20年後に短期間この研究所に滞在し、図書館を尋ねたとき、「Dr.Hazama、お茶を入れましょうか?」と名前を憶えていたのには感激した。私が翻訳した、私の先生と同僚の2冊の著書の翻訳書もここに収められているはずだ。

残るはわが大学の図書館であるが、ここだけしか知らない若い諸君は、ここの設備、サ-ビスが他と較べて優れたものであることがわからないだろう。とても機能的にできている。いずれマルチメディア・センターと一体となり、近代的な情報センターとなるにちがいない。できるだけ多くの人が図書館を十分に活用し、各自の楽しい、なつかしい思い出をつくっていって欲しいものだ。

(はざまふみただ)

余談ですが、現在福島医大で生理学教授を務める狭間章博先生は章忠先生のご子息なのでしょうか。


日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか 杉晴夫著 光文社新書 2022.04