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NewDays駅弁 〜博多名物「かしわめし」


2月のNewDays駅弁は1500円〜2000円超と高価格帯のものしかなく、買う気がしませんでした。珍しい駅弁とはいってもそれだけのお金を出すなら、自分で食材を調達してつくった方がよほどまし。高くても1500円くらいでないとなあ。インバウンド観光客は2000円超えてても「安い」というかもしれんが、日本の今の物価水準ではね。


 さて3月の駅弁は安めだったので、購入しました。そのひとつが表題の博多名物「かしわめし」です。中を開けるとこんな感じ。


ちょっと傾いて寄ってしまいましたが、平たい折り詰め弁当箱のご飯に鶏そぼろと錦糸卵を敷き詰めた感じです。880円は今時かなり安かったですが、もうちょっと具を多く載せてほしかったかな。しかし、甘めのご飯味付けと合って美味しく出来ています。箸休めの煮豆や漬物も美味しかったです。


 ところでこの駅弁のオリジンを調べようと、「博多名物 かしわめし」で検索してもどうしてもかかってきません。おかしいな?と思い、弁当ラベルを確認すると「広島駅弁当株式会社」と書いてありますね。博多と言いつつ広島とは、どういうこと?広島駅弁当株式会社もキーワードに入れて検索すると、こんな記載が「広島駅弁当」のサイトにありました。



2010年に廃業された博多寿軒の人気駅弁「かしわめし」を、博多の料理研究家 山際千津枝先生監修により復刻。


なるほど、そういうことか。しかし、「博多寿軒」で検索すると、現存していますよ?この「博多寿軒」も駅弁を今も販売してるけど、「かしわめし」の内容がやや違う。一体どういうこと?現存する「博多寿軒」のサイトをよく見ると、下の方に「博多松栄軒」と書かれています。この2つ、どういう関係??「博多寿軒(博多松栄軒)」サイトに社史が記載されており、抜粋すると以下でした。

昭和 4年 7月

鉄道省公認出水駅汽車弁当店 松栄軒創業 代表者に松山 穣 就任

昭和28年 7月

出水駅鉄道構内営業株式会社 松栄軒設立

平成20年 7月

株式会社 松栄軒に社名変更

平成20年11月

鹿児島営業所開設(鹿児島市)

平成29年 7月

鹿児島純心女子短期大学と産学連携協定締結

平成29年10月

㈱博多松栄軒として事務所・工場開設

令和元年5月

㈱博多寿軒設立

つまり「松栄軒」は元々鹿児島・出水駅で開業した駅弁屋で、割合最近に博多に進出してきて「博多松栄軒」をつくり、さらに元年(2019年)に「博多寿軒」を設立したことになります。広島駅弁当では「博多寿軒」は2010年に廃業と記載しているので、以前の「博多寿軒」と「博多寿軒(博多松栄軒)」は直接の関係はないと考えるのが妥当でしょう。広島駅弁当がつくる「かしわめし」はよく見ると、「博多寿改良軒」となっています。商標登録かなにかで同じ名前を避けたと思われます。「博多寿軒」は人気がある駅弁屋だったのでしょうが、廃業後の経緯には複雑な事情があるように感じます。


 ところで、山際千津枝先生はどういう方でしょうか。wikiをみるとこうなっています。

山際 千津枝(やまぎわ ちづえ、1947年6月1日[1] - )は日本の料理研究家、栄養士である。福岡県北九州市出身。

人物

    1967年より料理研究家としての活動を開始。

    1983年、山際生活デザイン研究所を立ち上げる[2]。

    現在は料理研究家としての活動以外にも、講演、公的機関の委員、テレビ・ラジオのコメンテータ等としても活躍。

簡単すぎてよくわからん。「ソワニエ」という福岡のタウン誌にインタビューが出ていたので、引用します。

北九州を特集してくれてありがとう」

お会いしてすぐにそう言って笑顔を見せてくれた山際さん。

山際さんにとって北九州は、生まれ育ち、心から愛する大切な場所。

今回は料理研究家の視点から、その魅力を語っていただきました。

――生まれも育ちも北九州とうかがいました。

私は小倉北区の出身で、60年間北九州に住んでいました。福岡に引っ越してきたのは10年ちょっと前です。今でこそ新幹線を使えば北九州と福岡は20分ほどで行き来できますが、私が若い頃は1泊圏内だったんですよ。そのため食文化も福岡とは全く違うものが根付いていると思います。


――料理をお仕事にされたのは、どんなきっかけがあったのでしょうか。

今から50年前、栄養士として栄養改善を目的として、健康を維持しながら成長や発育にいい料理を教え始めたのがスタートです。当時は女性だけでランチに行くような思考もなかったですし、ご両親との同居も多かった時代。お嫁さんが一人でどこかへ行くという発想もあまりなかったんです。公民館などで開かれる料理教室自体、もの珍しかったんでしょうね。あっという間に人が人を呼んで生徒さんが増えていったんです。不器用でしたが、なんとか教えていました。たとえば20個教室があれば20回同じことを繰り返すので、どんなに下手でも料理が上手くなりますよ(笑)。テレビに出始めたのは33年前からで、料理研究家という肩書きでの仕事が増えてきたのもその頃からです。


読む限り、山際さんは昔あった「博多寿軒」と直接の関係はなさそうです。しかし、郷里の名物駅弁にはきっと強い思い入れがあったのでしょう。