gillespoire

日常考えたことを書きます

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

東大へ入るために「仮面浪人」した京大生 〜卒業大学は人生についてまわった(゜д゜) !

ポワール

(九州帝国大学法文学部が入っていた九大旧箱崎キャンパスの建物)



前回紹介した京都帝大で仮面浪人して東京帝大に進もうとして阻まれた人物ですが、その後の彼の人生に東大を出たか京大を出たかは結局関係なかったように見えると書きました。ところがどっこい、実際はそうでもなかったことがわかりました。


 杉之原舜一氏にはその後の人生で、九州帝大法文学部の教員間の諍いに巻き込まれて休職を命じられた「九大事件」がありました。この結果九州帝大を退職することになりました。この九大事件がいかなるものだったか調べてもよくわからず、まあ杉之原氏は事件の首魁でもなくとばっちりを食らった程度だろうと推測してました。ようやくこれに関して文書が見つかりました。以下です。


九州帝国大学法文学部内訌事件 : 東京帝国大学・京都帝国大学の内紛・辞職事例との比較

 七戸克彦 九州大学大学院法学研究院 : 教授

発行日     2015-03-13
収録物名     法政研究


この論文はくだんの九大内訌事件を類似事案の東京帝大や京都帝大であった事件と比較して論じたものです。


事件自体は思っていた通り、教授同士のつまらない喧嘩と言えます。教授会の席上での言い争いに端を発しており、完膚なきまでにやり込められてしまった相手が根に持って、「和が保てないヤカラ」として譴責処分を学長に訴えたものです。ある教員が自分の本務でない辞書翻訳の仕事のために、大学研究室のドイツ語辞書を自宅に持ち帰ったことを、他の教授に激しく責められたことが発端のようです。教員同士が外のカフェーで口論になって殴り合いにまでなって怪我してしまったことも原因として書かれています。九州帝国大学ができたての大学で若い教授たちが多かったせいもあるのでしょうが、何か子どもの喧嘩みたいで情けないなあ。外のひとが見たら「帝大まで出た学士様がなんばしよっと?」と呆れていたでしょう。


 この論文では事件と関係があった人物たちの来歴やそもそも九州帝大法文学部の設立経緯について詳しく述べられていました。その中の一節に杉ノ原氏について述べていた箇所がありました。

ここまでは前回ヤフコメで指摘された通りの経緯です。その後です。

杉之原氏は京都帝大を退学し東京帝大に入学しようとした過去が尾を引き、京都帝大の助手就任を否決されてしまいます。仕方なく東京帝大法学部の美濃部達吉教授の研究室に移りましたが、そこで新設される九州帝大に奉職するチャンスが来たわけです。ここでも杉之原氏は美濃部達吉教授(天皇機関説で有名な)の特別な計らいで、年数足らずなのに(1年しか助手をしていない)九州帝大へは助教授昇進での赴任となりました。


 そもそも九州帝大法文学部の人事は東京帝大法学部の思惑でなされていました。法文学部の創立準備委員長は上述の美濃部教授です。法文学部とはなっていますが、美濃部の優先順はまず法学ついで経済で、文科は末席でした。東京帝大法学部の若手卒業生、特に美濃部氏と関係が深かった教員を次々と送り込みましたが、肝腎の美濃部教授は九州帝大の法文学部長でありながら「事務取扱職」を置き(事務取扱とは、役職者が不在などの理由でその職務を一時的に代行するひと)、実質専任教員にはなりませんでした。血気盛んな教員同士での意見の対立を抑える重鎮教員がいないため、感情的な諍いが嵩じていったようです。特に若手で弁が立つ木村亀二教授を中心に、杉之原助教授なども改革派として盛んに法文学部執行部攻撃を繰り返しました。この結果、木村派と反木村派の対立は大工原銀太郎学総長への解任上訴となりましたが、結局「喧嘩両成敗」で両方の派閥の教員いずれもが懲戒として休職を命じられました。しかし、この処分を決めたのは当時の九州帝大の法文学部長の四宮兼之氏でも総長の大工原銀太郎氏でもなく、なんと東京帝大法学部長の中田薫教授だったのです。

最後は「東大内部にはいない」と終わります。要するに九州帝大法文学部は東京帝大法学部の出向先の子会社みたいな扱いで、自治権はないに等しかったのです。中田薫氏は俊才が集まる東京帝大法学部でもピカイチの出来で、大ボスです。彼が九州帝大法文学部の内紛を一手に仕切りました。美濃部達吉教授は中田薫教授の先輩ですが、この事件当時東京帝大法学部長は中田教授で、かつ法学部の主流でした。なお、以前取り上げた昭和時代初期に活躍する東大法学部長も務めた田中耕太郎という大物教授は、この中田薫教授の愛弟子です。


 このようにして休職を命じられた5人の教授ですが、実質解任です。その職を代行する教員がただちに東京帝大から4人、京都帝大から1人派遣され、休職処分された者たちは辞職の上他に転出するしか道がなくなりました。杉之原氏も離職を余儀なくされ、古巣の美濃部達吉教授の研究室に戻ります。しかし、九州帝大時代に同僚の木村派の教員によってマルクス主義に感化されていた杉之原氏は「プロレタリア科学研究所」なる研究会を立ち上げ、当時非合法だった日本共産党に入党し、幹部となります。どの程度の活動をしたのか知りませんが、治安維持法によって検挙された杉之原氏はその後東京帝大を去ったようです。そして戦後学界に復帰して、法政大学学部長、そして北海道大学の教授を歴任します。この北大法文学部教授就任は当時の東大法学部長で北大法文学部設立に関与した我妻栄教授の指名によります。そして北大に移ってから再度日本共産党に入党します。1950年日本占領下の状態でGHQのマッカーサーの指示で、共産党員の社会的排除(レッドパージ)が始まります。北大では文部大臣が杉之原氏を直々に指名して免職を迫りました。杉之原は自発的に退職し、その後は共産党系弁護士として活動します。日本共産党札幌委員会によってなされた札幌市警の白鳥警部射殺事件(白鳥事件)では、被告となった日本共産党員の弁護団長となっています。


 こうやってみると杉之原舜一の波乱の人生はまさにこの京都帝大から東京帝大に転学しようとした大学受験の騒動から始まったと言えます。この事件によって東京帝大法学部にその名が知られ、京都帝大に嫌われた彼は東京帝大に拾われ、その支援のもとに渡った九州帝大での経験が、その後の人生を決定づけました。やはり大学受験でどこに進むのかは、人生において重要な意味があるといえます。

日常考えたことを書きます