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大阪・関西万博開幕 〜1970年「昭和の大阪万博」に思う

ポワール

最初のニュータウン ・大阪・千里 〜「よみがえる新日本紀行」


本日から大阪・関西万博開幕とのことで、ニュースでも盛んに報道しています。しかし、いまだ完成してないパビリオンも数カ所あるとのことで、降り続く雨もあってあまり景気いいスタートではありません。私は行く予定まったくなし。首都圏に住み関西地方と縁がないひとは、ほとんど同じでないでしょうか。考えてみるとつくばで開催された1985年の「科学万博」あたりから、万国博覧会というイベントは人気がなくなったと感じます。なぜそうなって来たのか。私の考えでは、「万博に行かないと見られない非日常が盛りだくさんのわくわく感」が下がってきたからです。わざわざ博覧会場まで行かなくても、そういう非日常は日常生活のごく近傍まで来ています。特にインターネットの発達以降、デスクに向かうだけでそういう非日常を体験できるようになりました。


 その点、1970年の大阪万博はまったく違っていました。開催の1年以上前から大いに話題となり、小学生向けの雑誌にはこれでもかと言わんばかりに色々な特集が組まれていました。あの頃は海外に旅行するなんて、庶民にとって夢のまた夢。憧れの世界でしたが、それが向こうからわざわざ日本までやって来てくれる!しかも色々な国のパビリオンが林立し、1日にして世界旅行ができる気分になれました。これ、今みたいにごく気軽に海外へ旅行できる環境ではまったく想像もできないであろうわくわく感です。「コンニチハ〜、コンニチハ〜、せかいの〜くにから〜」でした(三波春夫が歌う1970大阪万博公式テーマソング)。そして未来を予感させる数々の企業のパビリオンや出展がたくさんありました。今となってはごく当たり前の「動く歩道」も日本では大阪万博が初めてだったのでないか。あれは驚きました。「テレビ電話」もびっくりでした。あれって、その少し前テレビ放映された「鉄腕アトム」などのアニメに出てくる未来世界にしかないものでした。それが現実に見ることが出来る。「無線電話」はブースに設定された電話から電話線なしで家まで通じる!いやもう現実世界とは思えませんでした。今となったらスマホでごく普通のことで、何の感動もありませんね!


 僕は大阪万博に関係した雑誌付録や特集号を何度も何度もそれこそ目を皿のようにして隅々まで目を通しました。過去の例として紹介された1900年イギリスロンドン万博のクリスタルパレス(水晶宮)とか1957年ブリュッセルのアトミウムも感動しました。フジパン出展のロボット館は実際には行きませんでしたが、そのアイディア作成者の苦心譚を何度も読み直しました。なかなか良いアイディアが出ず、タバコをモウモウに吹かしながら紫煙でかすむ室内で徹夜で仕事をしていたら、急に目が見えなくなってしまったという話も出てましたね。しばらく休んでいたらようやく見えるようになったと書いてあり、「いやー、そんなに一生懸命考えてくれたロボット、きっとすごいんだろうな!」とただただ感動しました。しかし、今考えてみると、これ典型的な「一過性脳虚血発作」(TIA)ですね。この発案者当時まだ30代だったと記憶しますが、ヘビースモーカーのせいでかなり動脈硬化が進んだ状態だったと推測できます。それからほどなく脳梗塞か心筋梗塞を起こして場合によっては死んでしまったのでないかと思います。いかにも昭和のモーレツサラリーマンです。そういえばこの1970年、「すたーとだっしゅ、もうれつだっしゅ!Go! go! Go! go!  OH〜!、モーレツ!」で有名な小川ローザ演じる丸善ガソリンのお色気CMもありましたナ!ワルガキ小学生間で、女の子のスカートめくり大流行り!とにかく、一体どこに向かってるのか知らんけれど、イケイケドンドンとモーレツにばく進する時代でした。


 当時通っていた小学校でも半分くらいの同級生は何かの型で大阪万博に行ったと思います。特に夏休み。僕は夏休みの後半、母親と一緒に行くことにしました。それもなんと!大阪泊まりなしの日帰り弾丸ツアー!行きは新幹線で、帰りは当時東海道線にあった大阪発東京行きの夜行寝台急行「銀河」でした。この往復旅行もワクワクでした。ところがです。私は出発数日前から夏風邪に罹ってしまい、下痢と発熱でした!前日になってようやく回復してきて、本調子でなかったものの何とか行くことが出来ました。暑い日で、新幹線・新大阪駅からの北大阪急行に乗った時には結構バテていました。しかし、頑張りましたヨ!まず太陽の塔を見ました。「生命の樹」を見て、ただこれは事前チェック通りと感じたのみ。その後行ったのはブルガリア館だったと思います。大阪万博ではアメリカ館とかソ連館といった大国のパビリオンは超人気で、長蛇の列でした。2時間待ちなどざらでしたが、そんなとこに並んでいたら時間がもったいない!ということで小国のブルガリア館でしたが、バラの谷の紹介とかなかなかよかったです。失敗はここでサクランボジャムを2つも買ってしまったこと!500グラムくらいのガラス瓶でしたが、合わせて1キロ。風呂敷に包んで運ぶのが重くて暑い中あちこち移動するのは大変でした。買うんじゃなかったと散々後悔しましたが、自宅に帰って食べたら美味しかった!酸っぱいサクランボが独特の香りと粒感で、お土産としては最高でした。

 

 ここでもう昼になってしまい、北欧館でスモーガスボードを食べました。いわゆるバイキング料理で楽しみにしてましたが、夏風邪で食欲がなくあまり食べられませんでした。スモークサーモンとかがちらっと記憶に残るのみ。外に出ると暑いし、またお腹が痛くなる。慌ててトイレに行ったけど、紙がないの!どうしたか忘れたけどお尻をふりふり歩いて帰ったら、「アヒルみたいでみっともない」と母親に叱られ。だってしょーがないじゃん!(怒!)その後エチオピア館に行き、モカコーヒーのアイスクリームを食べた。これ苦くて香り高くすごく美味しかったのを覚えています。こうやって書いてみると、記憶に残るのは食べ物ばかり。いや、どーも卑しくてスミマセン!


 その後ソ連館が意外と並ぶひとが少ないのに気づき、待ちました。大きなパビリオンだったことは憶えていますが、展示内容はまったく記憶なし。唯一売店でマトリョーシカ人形を買って、その後長く家にあったのは憶えています(今はどうなったのか?)。最後の方で行ったのは化学工業館だったかな。コバルトか何かの錯イオンを使った化学反応を実演していて、目まぐるしく色が変わる演出がよかったです。当時学校の理科の実験で化学反応に興味があった僕には新鮮でした。日が暮れるまで粘り、万博会場を去りました。その後「銀河」に乗るため大阪駅まで行きましたが、大阪駅が異常に暑かったのはよく憶えています。暑いせいか構内屋台の煙のせいか、駅構内にもやがかかったような感じでムンムンしていました。まさにザ(ジ)・大阪。狭い寝台に乗ると疲れて間もなく寝てしまいました。翌朝熱海駅か小田原駅の停車で買った鯛めしを食いましたが、相変わらずあまり食欲なく食べられなかった。照れ隠しで、相客がたくさんいたのをいいことに「皆が見てて食べられない」などと言ってしまい、苦笑されました。帰京した後も夢のような大阪万博の記憶は懐かしく思い出しました。この夏、というかこの年の最大のイベントでした。「よみがえる新日本紀行」でかしまし娘3姉妹の次女・正司照枝(しょうじてるえ)が、自宅がある千里ニュータウンから大阪万博が遠くに見え、「開催期間中は夜ピカピカ輝いて、毎日お祭りみたいだった」と語っています。それがよくわかります。


 それから20年近く経って、久しぶりに吹田を訪れました。ちょうど大阪大学医学部附属病院の吹田キャンパス移転が始動した頃で、蛋白研にいた先生に会いに行った時です。ついでに万博記念公園も散策し、「太陽の塔」を訪れました。生命の樹「あれー、何か意外と普通の演出だったな」と思いました。1970年と同じ感想ですが、それ以上にハリボテ的なチープ感でした。


その後数年間ヨーロッパでの留学生活になりましたが、ベルギー・ブリュッセルに行ったとき1957年万博の記念館として残ったアトミウムを思い出して行ってみました。エレベータで上ってから、パイプで繋がれたカプセル型の展示室をあちこちエスカレータで移動しました。大阪の太陽の塔以上に展示は陳腐でした。なんか万国博覧会という魔法が消えてしまって、「オズの魔法使い」で偉大な魔法使いは実はただの平凡なおじいさんだったというような気分でした。あれは夢だったのかなあ、あの時のわくわく感は。でも、万博当時確かに夢を見ることができました。


 今の世の中はあまりに便利すぎてかつ進歩する速度もすごくて、非日常的なわくわく感を実世界で味わうのは今の子供たちには難しいのでないでしょうか。1970年代に代表される昭和時代の訳の分からん熱気は遥かに遠くなり、未来に明るい希望を持つどころか、天下のアメリカ様が世界に誇る三下やろー「トランプ」みたいなゴロつきに脅されながら、トボトボ歩くしかないのも寂しいことです。

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