NHK歴史探偵「後藤新平」 〜今の政治家は爪の垢でも煎じて飲め!
日本でのラジオ放送開始から今年で100年だそうです。NHKのドキュメンタリー番組「歴史探偵」はそれを記念した拡大版として、NHK(日本放送協会)の前身「東京放送局」の初代総裁・後藤新平を特集しました。
歴史探偵 放送100年スペシャル 後藤新平の大風呂敷
ラジオ放送開始から100年。東京放送局の初代総裁・後藤新平をスペシャル調査する。医師でありながら政治家としても活躍し、関東大震災からの復興に尽力。現在の東京の礎を築いた。その代名詞は「大風呂敷」。日本が危機に陥るたび、壮大な計画を打ち出し、未来を切り開こうとした。後藤が力を注いだのがラジオ放送。テレビプロデューサーの佐久間宣行さん、タレントのトラウデン直美さんを迎え、放送最初の日に迫る。
後藤新平といえば、東京市長として有名ですね。大正12年の関東大震災後の東京復興旗振りとしても活躍し、例えば「昭和通り」が彼の施策によることは昔から知っていました。しかし、時に「大風呂敷」として陰口を叩かれたのにある意味違わず、生涯を通じて非常にスケールが大きい人物だったことを初めて学びました。
まずビックリしたのは彼が医者だったこと。「板垣死すとも自由は死せず」は小学校時代の社会科でも習いましたが、自由民権運動を進めた板垣退助は、明治15年(1882年)4月岐阜県で刺客によって襲撃されました。この負傷時に治療をおこなったのが、当時愛知医学校の校長を務めていた後藤新平だったと紹介されました。え、後藤新平ってそもそも医者だったの?観ながら慌ててwikiを調べると、以下でした。
1857年7月24日、仙台藩水沢城下に、仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇と利恵の長男として生まれる
江戸時代の人だったのか。
1867年、11歳で留守邦寧の奥小姓となる[4]。
廃藩置県後、胆沢県大参事であった安場保和に認められ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ、県庁に勤務した。15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三の下で門番兼雑用役になる。安場が岩倉使節団に随行後に福島県令となり、その縁で16歳で福島洋学校に入った。後藤本人も最初から政治家を志していたとされるが、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の勧めもあって、17歳で須賀川医学校に入学。
福島洋学校はどういう学校だったのかよくわかりません。ただ上記の経緯からすると、現在の福島市にあったと思われます。須賀川医学校は現在の福島県立医科大学の源流ですが、県南の郡山市近郊の須賀川にありました。この学校は西洋医学を学ぶ医学校として新設され、その1期生7名の一人として後藤新平は入学しています。後藤は寄宿舎舎長も務めているので、人望は当時からあったのでしょう。
同校では成績は優秀で、卒業後は山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場が愛知県令を務めることになり、それについていくことにして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医者となる。ここで彼は目覚ましく昇進して24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。
この若さで学校長兼病院長になるとは安場県令の引き立てがあったにせよ、相当才覚があったと思います。しかし、本格的な西洋医学を修得せぬまま医者になったことには、忸怩たるものがあったようです。
明治15年(1882年)4月6日に岐阜の神道中教院で開催された板垣退助の政論演説会で、板垣が暴漢に刺され負傷する事件が発生。後藤が板垣退助を診察している。この際、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と言ったという。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。またこの時期に安場の次女・和子を妻にもらう。
安場県令には相当見込まれていたのですね。
明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績や才能を見出され、軍医の石黒忠悳に認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなった。
明治23年(1890年)、ドイツに留学。西洋文明の優れた部分を強く認める一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(1892年)12月には長與專齋の推薦で内務省衛生局長に就任した。
ここまではとんとん拍子でした。しかし、
明治26年(1893年)、相馬事件に連座して5ヶ月間にわたって収監された。最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり失脚し、長與專齋にも見捨てられる破目となった。
相馬事件は簡単に言うと、今で言う統合失調症になった旧相馬藩主の軟禁は家督を狙う親族の陰謀だと旧藩士が訴えた事件で、後藤は藩主診察と旧藩士を匿い擁護したことで投獄されました。しかし、後藤新平の運は尽きていません。
内務省衛生局員時代に局次長として上司だった陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰し、広島・宇品港似島(似島検疫所)で検疫業務に従事して、その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。
この検疫は日清戦争帰還兵のコレラ感染のためでした。NHKでは広島・似島(にのしま)の検疫所跡の桟橋などの遺構を紹介していましたが、健常兵と有病兵の仕分けを別々の桟橋建設から病棟分離まで徹底的にしています。これを広島以外に山口・大阪の3カ所の検疫所でも同時におこない、24万人の兵帰還時に日本へのコレラ侵入を未然に防ぎました。コレラは糞便感染で伝染する細菌感染症で、江戸時代後期から日本でも何度も大流行して、大量の死者を出していた恐ろしい病気です。日清戦争当時はコレラは戦場となった中国・遼東半島付近で流行していました。西洋医学にコンプレックスがあったとはいえ、後藤はドイツ留学の成果を立派に発揮しています。
前後しますが、番組では板垣退助に「あなたは医者だ、国家を生き物と考えるならなにが必要と思う?」と訊かれて、後藤新平は「生理学です。生理学の考え方が重要です」と述べた場面を出していました。番組ではこの生理学重視の考えが後の似島検疫で発揮された公衆衛生学に繋がっていくと言っていましたが、医学を学んだ身としてはちょっと解釈が違うな。生理学とは、身体の個々の器官がどう連動しているのかを調べ、人体全体の安定をどう図っているのかを解明する学問です。この発想は寧ろ後年の東京の関東大震災復興計画に影響したのでないでしょうか。
再びwikiから引きます。
明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」という思想だった。
後藤新平は医業から離れて官吏となっていきますが、実地で徹底的に調査してデータを集めて解析するという態度には医学の考え方が強く反映されています。
明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。また満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄調査部を発足させている。
有名な「満鉄調査部」は後藤新平の発案だったのか。ここにも医学の発想が反映されています。その後内地に帰り、鉄道院総裁、内務大臣、外務大臣など政府の要職を立て続けに担っていきます。いやただ者ではありません。財務家としても有名な高橋是清とも似ていますね。そしていよいよ関東大震災になります。
復興院総裁として後藤は、震災後速やかに震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、13億円という当時の国家予算の約1年分の巨額予算のため、財界や政友会からの猛反対に遭った。その上、後藤のお膝元である帝都復興院も、積極派の副総裁・松木幹一郎、建築局長・佐野利器らと、消極派で拙速主義を採り予算を削減しようとする副総裁・宮尾舜治、計画局長・池田宏らとに割れ、総裁である後藤には両派の対立を調停するだけの力がなかった
後藤新平は東京を「復旧」ではなく「復興」すなわち新しく興すことを目論みました。そのためこの時当時の国家予算に匹敵する13億円を要求します。しかし、これらの計画や予算を「大風呂敷」と誹られ、5億円に縮小されてしまうことになります。その時実行した名残りのひとつが昭和通りですが、72メートル幅予定の道路が40メートルに狭められてしまいます。しかし、それでも今見てもかなり広い道路です。靖国通りもそうです。隅田川の鉄橋や隅田公園は震災を念頭に築かれましたが、これは第二次大戦末期の東京大空襲時の死者数を多少とも減じるのに役立ったのでないでしょうか。しかし、東京駅を中心として蜘蛛の巣状に張り巡らす地下鉄網の整備はできませんでした。これは第二次大戦後の営団や都営の地下鉄建設でようやく実現されます。
こういう震災後のインフラ整備だけでなく、ソフトというか情報面の整備にも後藤は関心を向けています。有名な震災後の朝鮮人の大量虐殺や大杉栄のような無政府主義者の虐殺は流言飛語が背景にあるとして、そのような情報混乱をいかにして抑えていくかと後藤は考えます。関東大震災直後に新聞に出た朝鮮人2名の拘束は震災とは関係なかったのに、震災時の火災や爆発と結びつけられてしまい、それが「不逞鮮人」というデマを生んでいきます。内務省がおこなった「朝鮮人が震災混乱に乗じて放火をして回っている」という誤った発表も拍車をかけます。後藤新平は広範に情報を伝える手段として電波を考え、ラジオに注目します。今無線放送なんて当たり前ですが、当時にしたら空気中を伝わる電波で情報を送るなんて魔法みたいに感じたのでないでしょうか。震災翌年の1924年に東京放送局が開設され、その初代総裁に後藤が就任します。そして番組の充実だけでなく、放送の受信のためにラジオの普及にも腐心します。この考え方は今インターネットの発達によって暴走するSNSの問題を考えると、とても先見の明があると感じます。
後藤新平はラジオ放送開始の5年後、1929年に死去します。wikiから引きます。
昭和4年(1929年)4月4日午前7時過ぎ、岡山で開かれる日本性病予防協会総会に向かう途中、米原駅付近を走行中の急行列車内で、一等寝台のコンパートメントから起き上がり窓際へ出ようとしたところを、後ろによろめいた。口から泡を吹き、呼んでも意識がなかった。後藤にとっては3度目となる脳溢血だった。たまたま同じ列車に乗り合わせた財部彪(元海軍大臣)らが駆け付け、次の大津駅で降ろすことも検討されたが、病院が充実した京都駅へ向かった。京都駅では列車を停めたまま、医学博士の松浦武雄が乗り込んで強心剤を数回注射するなど治療に当たった。松浦はさらに、京都駅長の許可を得て列車の窓ガラスを破って後藤の身体をホームに用意した担架に寝かせて駅貴賓室に移したが意識は戻らず、京都府立医科大学医院に入院したまま4月13日に死去した
後藤新平は医学の実地から離れたとはいえ、医学には最後まで関心があったと思えます。視聴を終えていろいろ調べ、後藤新平の偉大さを知りました。振り返って、今の日本の政治家でここまで大所・高所から政策を俯瞰できる者がいるでしょうか?この50年以上、全然いないと思います。実に情けない、というかうすみっともない政治家ばかりが頭に浮かびます。小池百合子にしても、関東大震災虐殺朝鮮人追悼式典に都知事として追悼文を送らなくなって久しいです。保守派としてならしたあの石原慎太郎ですら都知事時代追悼文を送ったというのに、ヘイトデモを繰り返す人種差別主義団体の脅しに屈しているとしか思えません。しかし、日本人の遺伝子そのものは絶えたわけではありません。何時の日か後藤新平のような救国の大政治家が世に出てくれることを切に願います。
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