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知恵泉「薩摩治郎八」 〜パリ・日本館の恩人


薩摩治郎八」(さつまじろはち)」と言われて、今パリで生活するひとの間ではどの程度知られているでしょうか。我々の世代くらいの滞在者ですと、一種独特の光芒を放っている人物です。その薩摩治郎八についてNHKの「知恵泉」(ちえいず)で特集されました。


 薩摩治郎八はパリでは「バロン薩摩」とも呼ばれていたようですが、男爵の爵位はなく平民の出でした。しかし、彼は東京の木綿問屋の息子で莫大な資産家でした。第一次世界大戦後のパリで生活し、その資産をまさに湯水の如く使い、散財しました。その金満ぶりが貴族のようだということでしょう(もっともヨーロッパは貧乏貴族が多いですが)。


 番組で紹介された薩摩治郎八はこどものころから祖父にフランス・メドックの赤ワインを飲まされたほどで、当時の東京庶民とはかけ離れた生活です。学習院中学の入試面接で院長の乃木希典に「将来何になりたい?」と聞かれて、「市川團十郎になりたい」と答えたそう。陸軍大将として質実剛健を旨として天皇陛下の盾となる人物を求めていた乃木からしたら、不遜な発言をする治郎八など不倶戴天の敵に近いものでしょう。当然不合格。そしてその後薩摩治郎八がヨーロッパに渡航したのは何のためか?というと、当初は「オクスフォード大への留学」ということでした。イギリスの滞在はその目的で始まったようです。しかし、薩摩治郎八はその勉強生活に飽き、当時すでにパリに渡っていた妹を頼ってフランスに行きます。当時のパリはベルエポック(Belle Epoque:美しき時代)と呼ばれるもっとも華やかな時代で、薩摩はたちまちそれに魅了されます。そして散財。なんと今のお金にして月300万円使ったそうです!1922年の関東大震災で父親に帰国を促されてようやく帰国。しかし、帰国して結婚しても家業に身に入らず。そこで広田弘毅(外務相)に「パリ日本館の建設に協力を」と言われます。この日本館はパリ市南西部境の「国際大学都市」にあります。この国際大学都市は世界の国々からのパリに留学する留学生を受け容れるために設けられた広大な場所です。そこにアメリカやヨーロッパ、アジアの各国の留学生受け容れのための建物がつくられました。広田に頼まれた薩摩治郎八は「日本館」(Maison du Japon)の建設の全額、44億円相当のお金を気前よく寄付したのです。しかも、その完成のためにすでに第二次世界大戦が始まっていたフランスに渡航。その時に結核を患っていた妻を日本に残していきました(その後死去)。

 上の写真は小さすぎてわかりにくいですが、日本のお城風の建築ながら中はれっきとした鉄筋の洋館です。柱から細部のつくりまで相当金がかかっているのを感じますが、何と言っても圧巻なのは、1階ホールにある藤田嗣治の壁画でしょう。

藤田の絵はもう1枚あります。

いずれも金箔をふんだんに使用した豪華絢爛な壁画で、我が日本館居住者の誇りといっていいものです。


 薩摩治郎八はその後戦中、そして戦後もパリに滞在を続けて、在留日本人を救ったりしたようです。しかし、薩摩治郎八の放蕩人生もそこまで。ついにお金がなくすってんてんになった薩摩は日本に帰国します。日本に帰国したあとは本当に質素な生活だったようですが、その後浅草のストリッパーと再婚。そして、その再婚相手の故郷徳島を訪ねて阿波踊りに参加中に脳卒中となり倒れます。その後半身不随のまま30年近く徳島で過ごして亡くなります。


 薩摩治郎八が1976年に死去してからもう50年近く経ちました。今のお金にして実に44億円もかかったこの日本館は今も立派に機能し、日本からパリに来る留学生たちを支え続けてくれています。薩摩治郎八さん、本当にありがとう!あなたのおかげでフランスにおける日本の象徴として、日本館はベルエポックが遥かに過ぎた今も燦然と輝いています。なお日本館の事務局は「Fondation Satsuma」となっていて、「薩摩財団」として彼の偉功がその名で記されています。