名大医学部、慶応医学部、東大理3に“すべて合格”→「理3を退学」(; ̄Д ̄)」
(大竹稽氏本人のホームページから)
東洋経済の記事から引きます。
名大医学部、慶応医学部、東大理3に“すべて合格”も、「理3を退学」彼が選んだ《その後の道》
配信
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。
今回は3浪して東京大学理科3類に進んだ後に退学。その後、学習院大学に進学・卒業後、東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻に進み、博士課程を2年で退学。現在は教育者・哲学者・作家として活躍している大竹稽(おおたけ けい)さんにお話を伺いました。
うーむ、大竹稽氏は初めて聞く名前。何者?検索したら本人のサイトがあったので引用します。
大竹稽
ニックネーム:オーシャン
東大を二度やめた哲学者・教育者。
作家として『超訳モンテーニュ』『読書感想文書き方ドリル』『賢者の智慧の書』ほか多数の編著書あり。
「てらてつ」「作文堂」「思考塾」主催
(株)禅鯤館 代表取締役
産経子供ニュース編集顧問
1970年愛知県生まれ 旭丘高校から東京大学理科三類に入学。五年後、医学に疑問を感じ退学する。
その後、大手予備校で授業をしながら作文指導塾を始める。
三十代後半で、ある避け得ない問題に直面し、再度、東大大学院に入学する。そこでフランス思想を研究した。
専門テーマは、モンテーニュ、パスカル、実存の哲学者たち、構造主義の思想家たち。
大学院退学後は建長寺、妙心寺を始めとする禅僧たちの指導を受けながら「お寺での哲学教室」や「お寺での作文教室」を開いている。
私より若いけど、もうすっかりおじさん。大学受験は1980年代末〜1990年代ということでかなり前です。大竹氏が初の大学受験となったと思われる1987年には「国立大ABグループ分け」による国立大の複数受験を認められました。この結果、東大・京大の両方を受けることが可能で、かつ両方に合格したらどちらかを選べました。その結果wikiに記載される以下の事態となりました。
東京大学がBグループであったのに対し、京都大学がAグループであったため、W合格者の多くが東京大学に入学した。
翌年、京都大学の文系学部では定員をABグループに分け、その大半をBグループ(法学部は全定員をBグループ)にする方法が取られ、導入翌年から複数受験の足並みは崩れることになった。これが分離分割方式への端緒となった。
傾斜配点により、一部の大学では事実上一次試験の点数を評価しない大学が出現した。
受験動向を読みきれず、二段階選抜後の実倍率が極端に低くなる例が多数発生した。
事前出願制にしたため逆に、一次試験終了後、合格圏まであと何点必要であり、それは達成可能なのかを知るべく多くの受験生が予備校に走り、受験産業が潤った。
事前出願制のため、一次試験の段階で予想外に低い結果となった場合、いわゆる「足きり」によって二次試験を受験することなく早々と浪人が確定してしまったり、予想外に高い結果となった場合に、より難度の高い大学に志望を変更したくてもできなかったりした。
こと大学受験に関して激動の時代で、受験生は翻弄されました。
話は東洋経済の大竹氏の記事に戻ります。
今回お話を伺った大竹さんは、3浪で東京大学理科3類に進まれた方です。
医師になりたいと考えた大竹さんは、1浪目で名古屋大学医学部に合格、2浪目では慶応義塾大学医学部に合格したものの、諦めきれずに東大の理科3類を受け続けます。
しかし、3浪の末に合格して進んだ東大の理科3類も退学した彼は、驚きの選択をします。
なぜ別の大学に入学しても、3浪してまで東京大学理科3類にこだわったのか。
3浪して入った東京大学理科3類をやめようと思った理由はなんだったのか。詳しくお話を伺いました。
大竹さんは1970年3月、愛知県の蒲郡市に、公務員の父親と主婦の母親のもとに生まれました
小さいころの大竹さんは、本を読んだり、山の中に入って遊ぶのが好きな子どもだったそうです。
「父方は農業の家系で、母の血筋はみな教育者の家系でした。私はそれをどちらも受け継いでいて、本を読むのが好きでしたし、山や田んぼでメダカやトンボ、クワガタを捕まえるのも好きでした。友達はそんなにいなかったのですが、自然と本が友達という感じでした」
〜中略
中学校に入ってからも優等生ぶりは変わらず、テストはほぼ満点で成績もずっと1位。成績をキープしたまま高校受験に臨んだ大竹さんは、県有数の進学校、愛知県立旭丘高等学校の普通科に無事進学しました。
愛知県立旭丘高校は旧制愛知一中の伝統を継ぎ、愛知県内一の公立進学校です。
「高校に入っても1番を取れるだろう」と思っていた大竹さん。
しかし、ここで初めて1番以外の点数を取るようになり、「350〜400人ほどの同級生の中で3年間、ずっと10位前後だった」と語ります。
「高校に入ってからは満点が取れなくなってきました。中学時代は90点が自分にとっての失敗だという気持ちだったのですが、高校に入ってからは60〜70点も取るようになったのはショックでしたね。もともと、私の勉強法は授業で言われたことを後回しにせず、その場で全部吸収して次に進むスタイルだったのですが、高校で出される課題が多すぎて手に負えず、だんだんできなくなりました」
最初から理系に進もうと決めていたため、必修の文系科目に力を入れず、0点を意図的に取ったこともある大竹さん。そんな当時の彼の夢は、医者になること。そのきっかけは、叔父が癌で早逝したことが大きかったようです。
「それまでは虫をはじめとする動物の研究職に就こうと思っていましたが、叔父が亡くなってからは、癌を世の中からなくすようなことができればいいと考え、研究医になろうと思いました。そこで東京に行きたかったこともあって、東京大学の理科3類を志望するようになりました」
大学で理系に進むつもりなら、高校時代は寧ろ文系科目を積極的に学ぶべきだと私は思うのですが。なるべく専門以外の学問についてもよく知っておくことは、のちのち専門の勉強にも役立つことが多いと私は思います。
現役のときは模試で理科3類のE判定しか取ったことがなかった大竹さん。共通一次試験(現:共通テスト)で800点中720点という結果を見て、この年は理3の受験を断念します。さらには志望学部を変えて受験した東大の理科2類も落ちて、浪人が決定しました。
大竹さんに浪人を決意した理由を聞いたところ、「医学部に入りたいから」と答えてくれました。
1浪目は駿台予備学校に在籍し、授業は取らずに自習室だけを使用していた大竹さん。朝起きたら予備校の自習室に行き、自分の体調と相談しつつ、夕方まで勉強をするか、途中で周辺を散策しにいくかを決めていたそうです。
河合塾と代々木ゼミナールにも在籍者として名前だけ置いていたのですが、自習室は駿台ばかり使っていました。なぜなら名古屋城の堀が近くて、そこまで歩いていってアヒルや白鳥と過ごす時間が好きだったからです。喫茶店や雀荘、近くの円頓寺商店街にもよく行きましたね。散策する日は、予備校の自習室に戻ってから1日のまとめをして帰る生活をしていたので、勉強時間は5〜10時間くらいだったと思います」
理科二類に変更して「日和った(から、その後も受験がうまくいかなかった)」と非難するヤフコメがありました。しかし、理科二類からも10人医学科に進めますから、あながち否定すべき進路変更とは思いません(至難の道ですけど)。しかし、理二でも受からなかったのですね。浪人です。
■成績がぐんぐん上昇した
自然が好きな大竹さんらしいリフレッシュ方法は、成績にも表れます。
河合塾・駿台・代々木ゼミナールの受けられる模試をすべて受けていた大竹さんの判定は、この年でグッと上がり、理科3類でもB〜A判定が取れるようになりました。
「これなら、もうこれ以上上げなくてもいいだろうってところまで成績が上がりました」と語る大竹さんは、この年に受けた最後の共通一次試験では国語の小説の1問ミスだけだったそうです。
この年は800点中790超えという結果を受け、東大理3と後期試験で受けた名古屋大学の医学部、慶応の医学部に出願。しかし、東大理3と慶応医学部には合格できず、唯一合格した名古屋大学の医学部に進学しました。
名古屋大学医学部に合格した大竹さんは大学に進学こそするものの、理3に合格したかったためにすぐに仮面浪人を決めます。大学に籍だけを置き、同じように籍を置いていた駿台で前年と同じような生活を続けました。
模試の判定は前年・前々年と変わらず、第1回試行であったセンター試験の結果もまたしても小説の1問ミス止まり。
それでも理3には届かず、併願していた慶応の医学部に合格し、入学しました。
慶應医学部に入学する外部生で東大理三落ちは、当時だと10人以上は確実にいました。
■慶応に入学も「ここは自分がいる場所じゃない」
2浪で入った慶応義塾大学の医学部には半年間は通いましたが、「自分がいる場所ではない」と感じていたことで、もう一度だけ理3を受けてみようと思ったそうです。
「あまりにも慶応の同級生と世界観が違ったんです。普通の家庭が買えない車に乗っていますし、行動の1つ1つを見ていて庶民じゃないなと感じました。それでいて、彼らは『マウントを取る』ようなこともせず、何の見返りも求めずにご飯を奢ってくれたりしました。彼らはきっと自分が恵まれていることがわかっているんでしょう。あまりにも人柄がよすぎたんです。それでもう一度だけやってみて、ダメなら慶応に戻ろうと思い、ラストチャレンジのつもりで理3を受験しました」
ここに書かれる慶應医学部生の特徴は「事実」です。しかし、悪い事ではないと思うのですが?大らかな性格でかつ優秀なひとが多く、ある意味非常に恵まれた学生生活です。上に書かれたような理由で退学する慶医生はかなり珍しいと思います。
3浪目の受験生活も2浪目までと同じような生活を続け、成績も判定も安定していました。そしてこの年のセンター試験の結果も、小説の1問ミスのみだった大竹さん。前年・前々年と非常に高い点数を取り続けたにも関わらず、理3に落ち続けた彼は、今まで落ちた理由を「運」と振り返ります。
「1浪目以降、理3に合格できるかは運次第でした。そのときに出た問題ができるかできないかにかかっていましたね。たとえば私は数学の確率の問題が苦手で、これがセンター試験のレベルでも解けませんでした。センター試験では(確率か、違う分野で選べる)選択問題だったため回避することもできたのですが、東大で出たら1問ミスが確定でした」
こうして臨んだ3回目の理3受験でしたが、残念ながらこの年も数学で確率が出題されました。しかし、幸いそれ以外の問題はすべて解くことができ、6問中5問を完答することができました。
こうして、ついに大竹さんは、目標であった東京大学理科3類に合格することができました。
よかったですね。前も申したことがありますが、この時代だと慶應医学部に入ってから翌年東大理三を再受験して合格して辞めていく学生は毎年数人はいました。
3浪の末、悲願であった東大理3に合格した大竹さん。
浪人してよかったことを聞くと「多浪を経験したということで興味を持ってくれる人がいること」「浪人生へのアドバイスができること」と答えてくれました。
「私は現役で大学に行ったわけではないので、同じことを繰り返す人生を数年間送ったわけです。でも、その後の人生で、『愉快な人生を歩んでいる人だ』と思ってくれる人と会えて、それでご縁が広がったりしているのはありがたいことだと思います。浪人している人の気持ちにも配慮できるようになれたのもよかったですね。今、浪人している方に伝えたいのは、『絶対に早寝早起きをすること』ですね」
東京大学理科3類に進んでからの大竹さんは、「恋愛と文学にのめり込む生活を送った」という2年の留年を経て、進学振り分けで医学部に進むことが決まります。ようやく夢であった医師への道が見えてきた段階で、大竹さんは大切な人の死に直面し、そのショックから理科3類を退学します。
ここが謎です。なぜ退学する必要があるのか?知人の死と大学を辞めることにどういう関係性があるのか、まったく理解できません。ただ教養課程で勉学する意欲が失せてしまい、専門課程に進む前に2留を超えてしまって(=教養課程在籍が4年を越えてしまう)放校処分(除籍)になる医学生は割合います。というか「いました」だな。特に国立・私立の難関中高一貫校から来た学生に多かった印象があります。今は医学部に限らず大半の大学学部の教養課程は1年かそれ未満ですから。今だと1年生を2回超えたら放校でしょうか。
理3を退学してからは、代ゼミのサテライン予備校で働く生活をスタートします。それから高校生のときから学問として興味を持ち続けていたフランス語・フランス文学の勉強をするため、36歳のときに学習院大学フランス語圏文化学科に社会人入試で入学し、首席で卒業。そのまま東京大学の大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程に入学し、博士課程2年生のときに退学。
現在はお寺で教育の場を創生・活性化させる株式会社禅鯤館(ぜんこんかん)の代表として、子どもの作文教室を開催しながら『超訳 モンテーニュ』の翻訳を担当するなど作家としても活動しています。
「私は浪人を通して、毎日すべきことを後回しにせずにやる能力が鍛えられたと思います。仕事や予定などをこなすときにすべきことを前日に列挙して、一個ずつ消していくという習慣は、浪人時代にできたものですね。すべきことをしっかりその日のうちにクリアすると私は清々しい気持ちになるので、浪人時代は清々しい日々を毎日送ったことになるでしょうか。
小さいときから浪人時代も含め、ずっと本を読み続けてきたのもよかったと思います。でも、現在はそういう機会がどんどん少なくなっていることに危機感を覚えました。その状況をなんとかするため、この夏、新たな挑戦として書店で絶版になるような本を集める古本書店を開こうと思って、クラウドファンディングを始めました。どうにかして、子どもたちが、紙の本に触れる機会を作ってあげたいので頑張ります」
そうなんですか・・・としか言いようがありません。大分後年になってからとはいえ文学部に進むくらい興味があったなら、東大で理三からそのまま文学部に進む道もあったのでないでしょうか?宗教学者で死生学の第一人者として有名な島薗進氏はそういう経歴の持ち主です。島薗氏の経歴をwikiから引きます。
東京都生まれ。東京大学理科三類に入学するも人助けの学問という医学の理想に疑問をもつようになり、医学部への進学を選ばなかった[2]。人が幸せに生きようとする意志を吟味する学問を探し、東京大学文学部宗教学・宗教史学科で学んだ[3]。当時はまた、ベトナム戦争反対と学園闘争の混乱期であった。1972年、東京大学文学部を卒業。同大学大学院に進学し、1977年に博士課程を単位取得退学した。
この東洋経済の記事に対するヤフコメをみましょう。圧倒的に多かったのが大竹氏の生き方に対する疑問あるいは批判の意見です。
rhs********
4日前
この人の体験記を聞いても、まったくすがすがしい気持ちにはならなかった。私は大学を、「何を学びたいのか」を基準にせず、ブランド名で選んでしまった。そのことを今でも後悔している。そのせいで人生まで変わってしまったからだ。受験生の中には、その大学にはどんな研究をしている教授がいるのかまで調べ、「その人の元で学びたいから」という理由で進学する人もいる。私も高校生のころ、そこまで頭が回っていたらと後悔の念しかない。
この彼の場合なら、大学名にこだわらず、まっすぐ名大医学部を出て医者になり、その上でフランスに興味があるのなら、フランスに留学するような道も開かれたはずだ。作家のなだいなだ氏は慶応医学部を出た後、フランス政府給費留学試験に合格して留学している。こういう道をたどるほうが、ずっと実り多い人生だったと思う。この彼の場合、親がどうして許してきたのか不思議だ。
なだいなだは本名「堀内秀(しげる)」で精神科医になった後、国費留学でフランスに渡り、フランス人と結婚しました。
kur********
4日前
私の卒業した大学の医学部の同級生には、旭ヶ丘高校出身者が10人ほどいました。皆さん優秀で、ほとんどの人は、卒業後名古屋大学の医局に入って活躍しています。東大医学部出身者が、卒業後に医師として活躍できるかどうかは、別問題です。いくら難関な入学試験を突破したとしても、医師としての資質に欠ける人は、病院勤務の中で淘汰されてしまいます。普通の医学部を卒業して、普通に勉強し、医師国家試験を無事取得し、医師として長く勤め上げる事が大切だと思います。また、研究で名をあげようと思うのであれば、基礎研究で有名な場所で頑張れば、臨床の分野では、それなりに評価されます。医学部卒業後は、どこの大学出身かというよりも、医師本人の人間性や臨床医としての実力がものをいいます。また、鶏口牛後という諺のように、上には上があるものです。
この方がいう「卒業した大学」とはどこなのかはっきりしませんが、ほとんどが名大の医局に入局というならそれは名古屋大でその医学部のことでしょう。名大近隣の三重大医学部や愛知医大でも名大医局への入局者はそこまではいません。この方が言う「医学部に入ることでなく、医師として長く勤め上げる事が一番大事なことだ」と、私もまったく同感です。
jew********
4日前
理Ⅲに入って1つの目標を達成したのでしょう。
受験勉強をただのゲームや競争と考える人達も多いと思います。
そういう人達が医学部に入るべきではないと思いますし、そもそも医学にそれほどの高学力が必要とも思えません。
数学が受験科目に課されない帝京大学医学部卒でも医師になれるのです。
もっと昔なら医学部は偏差値50台の時代もありました。
トップレベルの高学力の方達は、理学や生命科学の分野で研究職になってもらう方が国の為です。
確かに入学して達成感を得て、そのまま燃え尽きになったひとかもしれませんね。
fro********
4日前
確かに理3合格は凄いですが「理3病」にかかって実際に合格できた稀な例としか思えませんでした。叔父の死がきっかけで研究医になりたいと思った志は立派ですが、それなら1浪で入れた名大医を普通に卒業する方がよかったと思います。理3に固執しながら、名大医を退学してまで慶大医に入りなおすのも理解に苦しみますし、慶大医を退学する理由も親だったら呆れるような内容。今が幸せならそれでよいのかもしれませんが、随分と遠回りをした人生で、貴重な若い時代を相当無駄にしてしまった印象をもちます。
このシリーズは現役で受かった大学に入るのが主流になった今の時代に、あえて浪人を選択して得難い経験をした話、というのが当初のテーマだっと思いますが、どんどんその趣旨から外れていっていますね。
無
4日前
教科学習や受験勉強が好き過ぎたんだな。
いわゆる受験勉強の秀才中の秀才。
叔父の死がきっかけで理3を目指したものの、大切な人の死で医者になることを断念か。
下衆の勘繰りになるが、(東大で)研究医になるために理3を目指したというが、それが目標だったとはちょっと思えないな。
先に入学した名大医や慶應医から東大医の大学院へ進学し、念願の東大での研究医になることだって可能だったはず。
でも、名大在学中は「籍だけを置き、同じように籍を置いていた駿台で前年と同じような生活を続けました」。
さらには、理3合格後は、2年の留年と「恋愛と文学にのめり込む生活」。
受験秀才にありがちな燃え尽き症候群とも違う。
研究医になることが目標で入学したとはちょっと思えない。
結局は、「理3に合格するためだけの受験勉強」にハマってしまい、それを長く続けることが目的になってしまったんだろうな。
dai********
3日前
合格に到達できずに終わる人は世の中に数多くいるが、到達することができるこの人にはこの人なりの悩みや苦労があったのだろう。ただ個人的には、受験システムの運に翻弄されたことよりも、その後にフランス語・フランス文学に興味を持った理由やお寺で作家の活動をしてく経緯の方に興味がある。
これはまったく同感します。なぜフランスなのでしょうか?
hir********
3日前
大前提として、今が幸せならそれまでの人生はその人に取って良い選択をしてこれたのだと思いますので攻撃的な意図は全くありません。
そのうえでこの記事を読んで感じたのは、「妥協や逃げ出しはやはり癖になるんだな」ということ。
・初年度での理IIへの志望変更。
・名大/慶應での仮面浪人
・東大の中退
・博士課程の中退
現役から3回も落ちて(しかも初年度からセンターの得点率は9割以上で)、自身で数学弱いとわかっていてもなお合否の決め手が「運」と言ってしまう精神性をみても、壁にぶち当たったときに問題の本質を見抜いて解決に導き突破する力、というのは何かをやり遂げることで始めて培われるのだなと感じました。
理三のような難関医学部の合否はよほどの受験天才でもない限り、多分に運で決まります。受からないのは突破力がないせいとかの精神力だけの問題ではないと断言します。
余生の暇つぶし
4日前
大変面白き記事でした。
ここまで自分に正直に人生を貫ぬかれるかたがいるんだなと感心すると同時に、自分の小ささを痛感しました。
しかし、人は人、自分は自分です。自分で「これでいいんだ」「これでよかったんだ」と感じることができたら、それは素晴らしい人生です。
素晴らしいと感じることができるかどうか、それは「神のみぞ知る」ことだと感じています。
大竹氏の生き方を称賛するコメントはこの方くらいしかいませんでしたが、今の自分を肯定できるならOKはその通りです。
yos********
4日前
大竹さん予備校で一緒だったので当時面識くらいはありました。予備校でも当然断トツトップ(笑)。私は凡人なので普通に理一に合格し、入学手続きの日に本郷三丁目で偶然出会って本郷通りを一緒に歩いたのを覚えています。飾り気のないひょうひょうとした方でした。
この方の「その日の事はさっさと終わらせて清々しく」ってよくわかるんですが、それは多分普通の人には無理です(笑)。みんなその日の事を毎日たくさんできずにそのまま忘れていきます。
私もそうですが大概の事はさっさとわかってしまうのでそれに打ち込むことにならないし、どんなことでも気になって手を出してそれなりにできてしまうので興味があちこち移ってしまいます。
そういう人って自分で問題を探す、目的を見つけるの苦手なので研究者に向かないというか、逆に問題にあふれている(向こうからやってくる)場所に身を置くのがあっています。哲学はこの方に向いていると思います。
この方は「自分も大竹氏と同じ」と言っております。そういうあなたは今何をしてるの?そして現況に満足してるのでしょうか?
energy
4日前
素晴らしい人生です
全国民、全受験生のお手本です
名古屋大医学部、慶応医学部
日本最難関、東大理3合格は素晴らしい
慶応医は明らかに東大理3を意識している
英語、数学の難易度は東大を超えています
全てを制覇できたのは一生の宝です
慶応の校風に合わないのも普通、行く必要もないです
全てを退学し、学習院大学に進学で人生を見つけたのです
教育者・哲学者・作家が向いていたのです
東大理3合格したんだ、自分から退学してやった
そもそも通学していない、精神に非常に安心をもたらします
柴三郎に勝った、医学部大嫌い
自分が日本トップだという気持ちにあふれます
こういう人こそ最高の人生です
かなり悪意ある皮肉ですが、なにを言いたいのかよくわからん。要するに大竹氏は「制覇」だけが目的の人生だったということ?
tsu********
4日前
私は東大受験で失敗し、早稲田大学へ行きました。
母子家庭だったので浪人は選択肢にありませんでした。
会社勤め約20年、42才で不動産会社を起業し50才になりましたが、この記事で自身を振り返り、当時浪人してもしなくても正解だったと思いました。
息子も昨年東大を落ちて、浪人せず明治大学に行きました。
親子だなぁと思うのと、当時の自分をみているようで少し体温が上がりました。
これは経験あるひとの読後感として、よくわかります。
xhg********
3日前
国公立でも医学部医学科は『生まれ自体が違う。』人が結構いる。
初めての車が外車なのは普通だし、家政婦がいるとか家に「テニスコート」があるとか、合格のプレゼントに「軽井沢の別荘」なんて人がいた。
仕送りが月に50~80万円(35年くらい前ですよ!)
母子家庭で親戚や奨学金借りまくりの自分とは全然別世界。(あまりの違いに嫉妬心も湧かない。)
この世には、努力してもどうにもならない事があると分かった学生時代でした。
まあ国立大医学部でも医者の子弟は多いですから、ここに書かれた経験は普通だと思います。
oaa********
3日前
東京大学理科3類に進んでからの大竹さんは、「恋愛と文学にのめり込む生活を送った」という2年の留年を経て(中略)大竹さんは大切な人の死に直面し、そのショックから理科3類を退学します。
→多浪、留年歴のある医師ですが、あれだけ執着した東大卒の医師の肩書をなぜやめたのか重要な部分が非常に短い。この記者の文章は基本的に受験体験記と高学歴の異色な経歴という表面的な内容が多い。この方は最高峰の理3に憧れていただけで医学には余り興味を抱かなかっただけだと思います。もっと言えば職業より学問に重きを持つ方なのでしょう。理3進学者には比較的多いタイプですね。何になって社会貢献したいかではなく、学問を追求した結果の高学歴が。大学で学ぶ学問に興味を抱いたら学者になりますが受験学問で興味が止まればこの方みたいになりますね。
これは的を射ている指摘でないか?
mmo********
4日前
知人は逆に、進学校の文系クラスから現役で東大の文系学部に合格し、
一年で退学して、一年浪人し、国立大学の医学部に入り直しました。
ずっと文系を選びながら、一年の浪人生活で国立大学の医学部に合格したことに驚きました。
今は医師をしています。
東大や京大だと文系学部卒でも医学部進学者はかなりの数がいて、まったく珍しくないです。
kir********
4日前
この記事の内容を見てると疑問点が出てきます
まず医学部はお金持ちが多くとありますが自身も金持ち家庭でないと医学部自体選択できないでしょう
(当時の教師家系ならかなり裕福でしょう)
あと東大理3の試験は運、確率の問題が出るか出ないかで合否が決まるなんてそれ以外が完璧ならなぜそこだけ対策しないんでしょうか不思議です
自伝的なものから情報を得ているんでしょうけど医師になりたかったんじゃなく東大理3に合格したという肩書だけが欲しかったのかな
当時は大学合格がゴールの人結構いましたからね
この方は受験数学の経験値が少ないと思います。少なくとも自分の経験からだと、「確率」は数学の中で鬼門の分野です。いくら対策してもなかなか力が伸びない感じで、ヘンな問題にあたるとハマります。私も入試で苦手な「確率」が出ないことを祈るばかりでした。
epsilon
4日前
私もおおむかしの受験生のころには,本記事の主人公と同等の受験学力があった。理学部・理学系大学院をでて大学教員になり,すでに定年退職した。小学校の先生ほどの人格者ではないが,教育業界人のひとりとして生きた。
本記事のような「流れ藻の人生」を送るのは個人の勝手だが,大学の教育資源を無駄に食い潰したことは反省するほうがいい。人前でも言わないほうがいい。受験学力ではなく良識の有無の問題だ。
epsilonさんはヤフコメでは有名人ですね。この方の投稿してきたコメントを読むと、東大理学部の数物系の学科と大学院を卒業し、幾つかの東大ではない国立大の教員を教授まで勤めあげた方だとわかります。
まあ「大学の教育資源を無駄に食い潰した」などと、そこまで目を吊り上げて罵ることもないでしょう。そもそも教育とか研究とかは無駄が多いです。そのたくさんの無駄の中に、ごく少数のダイヤモンドがキラリと光るといったものです。大竹氏だってこれから後生に貢献することもあるやも知れず、そう青筋立ててカンカンになることもないでしょう。「税金ガーッ!」というなら、見なさいほれほれ、政治家や官僚が税金を盛大にムダ遣い、どころか自分の懐にありったけ押し込もうとしてますぜ!そっちの方を追及なさったら如何?なおepsilonさんのヤフコメは結構おもしろいので、ご興味ある方はこちらをどうぞ。

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