「あんぱん」 〜若松次郎と私の祖父
(3本金線の一等航海士制服の若松次郎 「あんぱん」から)
「あんぱん」はいよいよ第二次大戦の敗戦後の日本になりました。のぶの夫の若松次郎は折角日本に戻ってくることができたのに、「肺浸潤」になってしまいます。ドラマでのぶが「次郎さん、肺浸潤なんだって。結核じゃなかった。」と家族に話してましたが、意味不明。もしここで言う結核が「陳旧性の石灰化した結核病巣」という意味なら確かに違う。だって肺浸潤は「結核菌が活動性に肺を冒している状態」だからです。つまりいずれも結核菌の感染で、しかも肺浸潤の方が状態がよくないです。ああ、このセリフはのぶたちは医学を知らなくて危機感に乏しいことを強調したいからですかね?
ところで若松次郎は一等航海士で、一番最初にお見合いで登場した時袖に3本金筋が入っていましたね。陸軍、海軍と同じで戦前の航海士や機関士の階級にも厳然として区別があり、特に船長や機関長の待遇には下位職と天と地くらいの違いがありました。この金筋は今の航海士、機関士の制服にも残っています。
(「中国地方海運組合連合会」のホームページから)
「歴史人」の「朝ドラ『あんぱん』史実では高知で3年間の療養生活 若松次郎のモデルとなった男性との死別」から引用します。
朝ドラ『あんぱん』史実では高知で3年間の療養生活 若松次郎のモデルとなった男性との死別
6/23(月) 16:00配信
歴史人
NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』は、第13週「サラバ 涙」が放送中。信じていた正義が間違っていたことに打ちのめされ、それを子供たちに教えてきたことを後悔するのぶ(演:今田美桜)は、教師を辞める。夫・次郎(演:中島 歩)は海軍病院での入院生活を続けているが、病状は思わしくない。そして、ついに病院から次郎が危篤であるという電報が届いてしまう……。史実でも、次郎のモデルとなった男性は病気によって下船し、療養生活を送っていた。その生涯を振り返る。
■終戦後、7年の結婚生活に終わりが……
若松次郎のモデルとなった小松総一郎さんは高知県高知市生まれ。後にやなせたかし氏の妻となる暢さんの6歳年上だった。
昭和5年(1930)11月22日の官報に、小松総一郎さんの名前がある。掲載されたのは神戸高等商船学校入学試験に合格した生徒の一覧だった。神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)は、当時日本に2校しかなかった高等商船学校のひとつである。学費が免除されるのはもちろん、生活費まで支給されるとあって志望者も多く、難関校でもあった。総一郎さんが非常に優秀だったことがわかる。
昭和11年(1936)、総一郎さんは同校の機関科を卒業。『神戸高等商船学校一覧』には、同年の卒業生一覧のなかに「小松総一郎 高知」という名前と本籍の記載がある。卒業後は、日本郵船株式会社に就職した。
実は私の祖父もこの時代のひとで、東京高等商船学校を卒業して日本郵船に就職しました(まだ神戸高等商船が創立される前で、東京高等商船しかなかった時代)。祖父は官立岡山医学専門学校(岡山医専)と東京高等商船学校の両方に合格し、東京高等商船に進みました。どうして医者にならず船乗りになったのか?祖父が受験してから2年後に岡山医専は旧制岡山医科大学に格上げされました。後継の岡山大学医学部はいわゆる「旧六」(旧制6医科大学)の一つで、今も中国・四国の広範な地域に関連病院を多数抱える有力医学部です。祖父も岡山医専に進んで医者になって開業でもしていれば、随分楽な生活ができたはずと思うのですが。日本郵船は大会社ですが、給与は安かったと思います。なお東京高等商船学校は戦後東京商船大学となり、さらに東京水産大学と合併して「東京海洋大学」となりました。
祖父が商船学校を選んだ理由は、ここについたヤフコメの通りです。
yam********
23時間前
戦前の高等商船学校2校は記事にあるように学費と生活費が官費で賄われるというのが当時の少年たちの憧れだったようです。陸士や海兵は相当の難関、でも家庭の事情で旧制高校や大学に進学する余裕がないと考える少年たちにとって卒業後の就職が保証され、外国にも行けるというのは魅力的だったのでしょうね。戦前は公務を帯びた官僚や軍人以外の海外旅行などは夢のまた夢という時代でしたから。
また入校すれば海軍予備生徒として兵籍に入るので徴兵が猶予され、身分は海軍三校(海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校)の生徒に準じ、軍の階級上は海軍下士官の上位、准士官の下位に位置づけられるという優遇ぶりでした。卒業すれば海軍予備少尉または海軍機関予備少尉に任じられました。次郎さんは一等機関士でしたから年齢から見てもおそらく海軍予備機関大尉だったのではないでしょうか。
私の祖父は5人兄弟で下から2番目、しかも田舎の貧しい家でした。とてもじゃないですが、高等教育にお金を出す余裕がなかったのです。従って「官費で学べてしかも安定した就職先も保証」はなにものにも代えがたい好条件だったのでしょう。祖父は卒業後そのまま日本郵船に就職し、アメリカなど外国航路にも長く携わり、その点次郎さんとまったく同じです。父親の話だとアメリカ帰りには西海岸で買ったいろいろなものを土産として持ち帰ったそうで、その中にメロンもあったそうです。戦前の日本の一般家庭では考えられない贅沢品だったでしょう。「Cantaloupe」(キャンタロープ)と懐かしそうに語るので、後年僕も近所のスーパーでアメリカからの輸入品のキャンタロープを買い、「祖父の味」を自分のこどもたちと味わって追想しました。
しかし、その後は次郎さんと同じで、太平洋戦争に突入して日本郵船の船ごと徴用されてしまいました。戦争末期に日本の民間船会社はすべて「郵船近海機船株式会社」に統合され、軍部の統制下に置かれました。細かくは聞いていませんが、祖父が乗っていた船がインド洋でアメリカ軍の攻撃に遭って沈没し、海に投げ出されたこともあったそうです。幸い駆逐艦に救助されて日本に無事生還することが出来ましたが、生死紙一重の状況だったと思います。戦後も日本郵船を勤めあげて無事定年を迎えることができましたが、最後は現在横浜港に係留される「氷川丸」の機関長となりました。その頃日本の船は戦争で壊滅しており、氷川丸は唯一残った客船でした。この船の機関長はいわば「引退の花道」だったわけですね。その後も朝鮮戦争などの混乱で波乱の人生がありましたが、退職後甲状腺癌を患います。横浜市大病院で手術を受け一応治りましたが、数年しておそらくその肺転移と思われる肺癌を発症し、それで死にました。しかし、若松次郎さんと違って子や孫にも恵まれて、それなりに幸福な人生だったと言えるでしょう。実は私が生前の祖父と会ったたった一人の孫でしたが、1歳だったのでまったく記憶がありません。
SuperStars
1日前
小松聡一郎さん(手元にある校友名簿では”聡一郎”と記載されている)も旧制高知城東中学の出身で昭和4年に卒業しており、崇さん(昭和11年卒)、千尋さん(同14年卒)の先輩にあたる。
ちなみに叔父の寛さんは、旧制高知一中(城東中学の前身)明治40年卒業ですので、大先輩ですね(笑)
ドラマでは兄弟二人が後免与から高知市内まで一緒に通学している様に描かれていましたが、実際はお互い別々だったそうです。
どうやら秀才で柔道2段、文武両道の弟と一緒に通学するのを、運動はダメで英語・理数の成績も悪かった兄としては潔しとしなかったと。
そうか、現実の柳瀬千尋も文武両道で、しかもその後京都帝国大学法学部に進むほど優秀でしたから、嵩は旧制中学の多感な時期、千尋にちょっと引け目を感じていたのでしょうか。
pbm********
1日前
終戦から3ケ月後の11月に多くの陸軍海軍病院は、厚生省に移管されて国立病院になり、一部は進駐軍の病院となった。
ほとんどの軍人が復員して市民になって行く中で、軍の医療職(短期現役や徴兵を除いて)は留まることを強要され、海軍薬剤大尉だった私の父は厚生省技官に身分が変わったという。
厚生省にしても、なんの準備もできないうちに全国に多数の病院と職員、患者を抱えることになり、その運営は困難と混乱を極めたという。
病院内には「海軍」の文字はそのまま残り、広く地域住民の方々の診療をするようになっても、入院する部屋は、第○○号下士官病室、◇□号兵員病室と表示されたままで、海軍出身の入院患者は、○○兵曹、□△一水と階級で呼称され、「国立病院」という名称はなかなか定着しなかったという。
うーむ、戦後になっても旧陸軍、海軍の病院は以前のままの雰囲気だったのか。
fembot
1日前
私の祖父も日本郵船の船乗りでした
昭和17年に徴用された船で南方へ物資を運ぶ途中、鹿児島沖で米軍機に撃沈されて亡くなったそうです
そして家にも祖父が渡航先の外国で撮影した写真が残っています
なので次郎さんは 会うことのなかった祖父のように感じています
私も若松次郎に自分の祖父のイメージを重ねておりました。
v*****
1日前
何故ドラマでは、海軍病院に入院としたのか…。
高知から呉まで簡単に移動できる時代ではない。
付き添いののぶは、一体どこで暮らしていたのか。
普通に高知で入院としておけば良かったのに。
kkk*****
1日前
そう思う。しかも入院したの7月ですよね。呉だと広島の原爆の影響なかったのかな、呉で入院となったら広島の原爆に対する言及ないのが不自然だから、史実どおり高知で入院がよかった
彩雲
1日前
高知から呉、確かに設定が不自然ですね。
ybb********
1日前
たしかに!
鋭いなー
鋭くねーヨ!これらは第二次大戦直後の医療事情を全然わかってない方々のコメントだな。はっきり申してこの時代、高知のような田舎にはろくな病院はなかったのです。軍の病院でないと受けられない治療や施術が多かったのです。呉の海軍病院なら、岡山医科大学出身の優秀な医師も多かったし、アメリカ軍からの物資提供も多かったと思うので、そちらの方が余程ましだったでしょう。
c10********
6/23(月) 18:22
進駐軍はストレプトマイシンを持っていたから 何か伝のある人は手に入って助かったと聞くが 誰でもという訳ではなかったんだろう。戦争で生き残っても結核に一家が次々かかり 皆んなの世話してた奥さんが最後にかかって酷くなって亡くなられた何例かを聞く。
ワクスマンが発見したストレプトマイシンの普及は結核治療に絶大な効果がありましたが、万能ではありません。使えたとしても残念ながら亡くなってしまうことは、その後も珍しくありませんでした。結核はそれくらい手強い感染症なのです。次郎の死はのぶにとって大きな衝撃だったでしょう。しかし、彼の遺志を活かして速記を学んだのぶはその後たくましく自分の人生を切り開いていきます。まさに「サラバ 涙」の週でした。
余談ですが、慶応義塾大学医学部の構内には「日本ワックスマン財団」が置かれています。経緯について、財団ホームページから転記しておきます。北里柴三郎は細菌学者として著名ですが、慶應義塾大学医学部の創設者でもあります。
当法人は、結核症の特効薬として知られるストレプトマイシンの発見者、米国ラトガース大学農学部教授、セルマン・エー・ワックスマン博士が、1952年12月 ノーベル賞受賞式の帰途、故北里柴三郎生誕百年祭の招聘に応じて来日され、日本各地の大学、研究所を視察し、日本微生物学会ならびに医学会の実情に接し、多くの有能なる研究者が財政的制約に阻まれていることを目撃し、経済的寄与によって、これらの学者に激励を与えようと意図され、名誉総裁に三笠宮崇仁親王殿下を載き1957年11月21日に設立されました。
その後、文部科学省の特定公益増進法人の証明のもと、助成事業を推進してまいりました。2010年11月25日内閣府より公益財団法人の認定を受け、12月1日公益財団法人日本ワックスマン財団として新たにスタート致しました。
2012年3月31日三笠宮崇仁親王殿下の名誉総裁御退任、併せて4月1日より秋篠宮文仁親王殿下が名誉総裁にご就任されました。
今後とも当財団の事業目的を達成するための助成事業を推進してまいりますが、その一環として、学術研究者、留学者、学術集会等への助成金の交付が重点事業の一つとなっております。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。