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軍神と遺族の戦後 〜1942年シドニー湾潜水艇攻撃

ポワール


熊本日日新聞の記事を引用する前に、記事の主人公松尾敬宇についてwikiから関係した部分を引きます。

松尾 敬宇(まつお けいう / よしたか、1917年〈大正6年〉7月21日 - 1942年〈昭和17年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。海兵66期。太平洋戦争におけるシドニー湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」艇長として戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。


熊本県鹿本郡三玉村久原(現・山鹿市久原)出身。松尾鶴彦、まつ枝の次男として生まれる。父は八幡小学校校長、母も元小学校教師であり、厳格な家風で育った。

鹿本中学を経て、1938年(昭和13年)9月、海軍兵学校を卒業(66期)。特殊潜航艇(以下「特潜」 )艇長として訓練を受け、日米開戦前に真珠湾を視察している。真珠湾攻撃においては予備指揮官として現地まで赴いた。

1942年(昭和17年)5月、シドニー湾攻撃に第二次特別攻撃部隊の「特潜」艇長として選ばれた。出撃に当たり呉の旅館で家族とともに最後のひと時を過ごし、父から短刀「菊池千本槍を短刀に直したもの」を託された。 

熊本日日新聞の記事」です。

【連載・軍神と遺族の戦後②】「今夜はおふくろと」…松尾親子、最後の夜

8/27(水) 14:39配信

熊本日日新聞



 「我特殊潜航艇の殊勲 シドニー港を強襲 敵軍艦一隻を撃沈」。1942年6月6日、熊本日日新聞に大見出しが踊った。見出しの横には大本営発表が続いた。「帝国海軍部隊は特殊潜航艇を以て五月三十一日夜、濠州東岸シドニー港を強襲し港内突入に成功、敵軍艦一隻を撃沈せり」


 日本中が歓喜に沸く中、鹿本郡三玉村(現山鹿市)の松尾敬宇[けいう]中佐の生家は重苦しい空気に包まれた。父鶴彦さんと母まつ枝さんはその先の文言が気になった。「本攻撃に参加せる我が特殊潜航艇三隻未だ帰還せず」。2人は顔を見合わせた。「もしかして敬宇もいたんじゃないか」─。


 松尾中佐が海軍兵学校を卒業したのは38年。日本海軍は米英との戦争を視野に特殊潜航艇の開発を進めていた。潜水艦から発進し、魚雷で敵艦を急襲する2人乗りの小型潜水艇(全長24メートル、直径1・85メートル)。40年に兵器として採用され、翌41年4月に中佐も第2期搭乗員に選ばれた。



 初めての実戦投入は、太平洋戦争に突入した41年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃。直前に現地を偵察した松尾中佐も第一次特別攻撃隊を志願したが、人選は終わっていた。「納得がいかずに、『現地は自分が一番詳しい』と座り込みまでしたらしい」。めいの松尾和子さん(84)の夫和年さん(89)が関係者から伝え聞いた話だ。


 真珠湾には5艇が出撃したが、成果はなかった。遅れて第二次特別攻撃隊に選ばれた松尾中佐は出撃を控えた42年3月、広島・呉で父母、兄姉と水入らずの時を過ごした。兄の自彊[じきょう]さんが菊池神社のお守りを差し出し、父鶴彦さんは頼まれていた伝来の短刀「菊池千本槍[やり]」を手渡した。


 こんなエピソードが残っている。その夜、少し酔った松尾中佐は「今夜はおふくろと一緒に寝るかな」と言って母まつ枝さんの懐にもぐり込んだ。「よしよし今夜は私が抱いて寝ましょう」。懐かしい息子のぬくもりを感じながら、まつ枝さんは必死に涙をこらえていたという。これが親子の最後の夜となった。

松尾中佐はこの時25歳だったでしょう。今のうちの息子とさして変わらない年ですが、男子は成人しても母親に対しては意外と子どもっぽい態度をとるものです。

3艇の特殊潜航艇がシドニー湾に侵入したのは5月31日。うち1艇が発射した魚雷がオーストラリア海軍の宿泊用艦船の近くで爆発し、オーストラリアの兵士ら21人が死亡した。しかし、松尾艇は爆雷攻撃を受けて航行不能になり、松尾中佐は部下と艇内で拳銃自決を遂げた。ほかの1艇は防潜網に絡まり、身動きができずに自爆した。


 2カ月半後、松尾家に一通の封書が届く。「濠州シドニー方面に於て御奮戦中、五月三十一日名誉の戦死を遂げられ候」。海軍省からの戦死内報だった。大本営発表でシドニー湾攻撃を知ったあの時の、胸をよぎった不安が的中した。「やっぱりそうだったか」。そう言うと、父鶴彦さんは押し黙った。


 戦死した隊員らは真珠湾攻撃同様、2階級特進となった。松尾中佐も大尉から昇進。まつ枝さんは、軍神となった息子の一周忌に母の心情を歌にのせた。


 「君が為 散れと育てし 花なれど 嵐のあとの 庭さびしけれ」(本田清悟)

「お国のために」子どもの出征を祝っても、本心から「万歳!」と言えた親はそうはいなかったのでないでしょうか?ここに書かれた1942年の日本海軍シドニー湾攻撃はオーストラリアまで及んだ日本軍の数少ない戦争です。確かこの時出撃した潜水艇は全員帰還できなかったはずなのは憶えていました。wikiから引きます。

特殊潜航艇によるシドニー港攻撃の経過


1942年4月27日に伊21・伊29(シドニー湾攻撃では搭載水上偵察機による飛行偵察任務に主に携わることが予定されていた[6]。)、同年4月末に珊瑚海で敵機動部隊を邀撃するため出動していた伊22・伊24・伊27・伊28が敵を捕捉できず、帰路に伊28が敵潜水艦により撃沈されたが残りは5月15日にトラック島に入港していた[6]。5月18日朝に伊22・伊24・伊27が潜航艇を搭載してトラック諸島チューク島を出港した。出港当日の夕方、伊24搭載艇が爆発事故を起こし乗員が死傷したため、同艦はトラック諸島に引き返し、乗員を伴中尉らと交替させて5月20日に再度出港した。5月30日に、伊22、伊24、伊27の3隻はシドニー沖に到着した。


1942年5月31日16時21分、伊22搭載艇が発進。続いて28分に伊27搭載艇が、40分に伊24搭載艇が発進した。伊27搭載艇はシドニー港入り口で防潜網に絡まり、22時30分ごろ自爆した。


次に伊24搭載艇が港内に向かい、侵入に成功した。伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を発射した。魚雷は2本とも外れ、その内1本は岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の兵員宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死し、また、その隣に係留されていたオランダ潜水艦「K IX」も爆発の衝撃で損傷したとする説がある。ただし、これらは英文資料にもあるとされるものの主に日本側で主張される戦果である[7]。後年にBBCのJ・グリーソン、作家のT・ウォルドロンが調査で聞いた限りでは、渡し船1隻が損傷を受けたことが確認されただけだったという[8]。攻撃隊隊長の佐々木半九も、戦闘直後の拿捕船で押収した新聞や戦後のモリソンの著書によるとしてフェリーボート1隻が沈んで乗員に死傷者が出たことを述べているだけである[9]。


伊22搭載艇はたびたび駆逐艦に発見され爆雷攻撃を受ける。やがて日付も廻ったところでシカゴを発見、雷撃を行うが魚雷が出ず、体当たりを敢行するがこれも失敗、断続的に爆雷攻撃を受け結局自爆したとされる[7][注釈 2]。おそらく爆雷攻撃のため保護枠が変形し魚雷発射管を塞ぎ、魚雷発射不能となったとみられる[10]。


なお、特殊潜航艇を発進させた潜水艦は6月3日まで帰投を待っていた。 

松尾艇は艇前方を岸壁にぶつけたことで魚雷発射管が故障したため攻撃出来ず、艇を米重巡シカゴへ体当たりさせることで魚雷を爆発させようと図ったが、小接触におわり叶わなかった[1]。その後、松尾は部下の都竹正雄二等兵曹(戦死後海軍兵曹長)とともに拳銃で自決した。戦死後その後、オーストラリア海軍により中馬艇と松尾艇は引き上げられ、1942年(昭和17年)6月9日、シドニー近郊のロックウッド・クリマトリア斎場にて遺体は海軍葬をもって葬られた。シドニー市内では彼ら敵国の軍人を丁重に弔うことに反対の声も大きかったが、オーストラリア海軍司令官・ジェラード・ミュアヘッド=グールド(英語版)少将は部下に対し、以下の様に演説した。    「私は敵国軍人を、海軍葬の礼をもって弔うことに反対する諸君に聞きたい。 勇敢な軍人に対して名誉ある儀礼をつくすことが、なぜいけないのか。 勇気は一民族の私有物でもなければ伝統でもない。 これら日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰も認めるべきであり、一様に讃えるべきものである。 このような鉄の棺桶に乗って死地に赴くのには、相当の勇気が要る。 これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って祖国に捧げるオーストラリア人が、果たして何人いるであろうか」[2]。遺骨は駐オーストラリア公使・河相達夫に託され、戦時交換船の「鎌倉丸」により日本へ帰国した。 

この当時も戦後もオーストラリア人の日本軍に対する憎悪は非常に強かったと聞きます。グールド少将の決断は非常に勇気が要ったはずで、なんともすごい軍人がいたものだと思います。


戦後の1965年(昭和40年)7月、80歳となった母・まつ枝のもとをオーストラリア連邦戦争記念館館長のマッグレース夫妻が訪ね、豪州訪問を持ちかけた。1968年(昭和43年)4月、まつ枝はオーストラリアを訪れた。シドニーでは海軍が出迎え、市内では大歓迎を受けた。19代オーストラリア首相のジョン・ゴートン(英語版)、バート・ケリー(英語版)海相と会談。また、引き揚げられた「特潜」が展示されている戦争記念館に到着すると、マッグレース館長より松尾が所持していた千人針が返還された。まつ枝は1980年(昭和55年)に95歳で死去した[3]。

この時の訪問で母・まつ枝は大歓迎を受けたのは、敵ながら勇敢であっぱれな軍人の母親ということだったのでしょうか。しかし、母親の胸中はいかばかりか。自分が歓迎されることよりも息子が無事帰還してくれた方がよほど嬉しかったと思います。この攻撃でオーストラリア側にも多大な人命が失われたことを考えると、二度とこのような戦争をしてはならないという思いで訪問したのでないかと想像します。

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