京都大学数学科卒 〜「大学の数学は難し過ぎて全然意味がわかりません」
京都大学の数学科卒の人が「大学の数学は難し過ぎて全然意味がわかりません」と言っていたのですが、京大生でも難しいと感じるものなのですか?
Quoraに出ていた質問で、以前も取り上げた話題です。
京都大学の数学科卒の人が「大学の数学は難し過ぎて全然意味がわかりません」と言っていたのですが、京大生でも難しいと感じるものなのですか?それともそのような人はごく一部ですか?
最近見てみたら、興味深い回答が新たに寄せられていたので、また取り上げてみることにしました。
Sakaé Fuchino
ベルリン自由大学でDr.rer.natを取得
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Yuta Maruyama、博士号 教育社会学 & 著作権法, 京都大学 (2013)、
Matznaga Hitoshi、 理学修士 数学, 京都産業大学 (1977) ·
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更新日時:1年前
「京大生でも」と書かれていますが,これはむしろトップレベルである (とみなされている) 大学での現象でしょう.トップレベルの大学では,トップレベルの研究者を育成するための教育をすることが許されてい (ると解釈でき)て,そのような教育をする先生が大多数である可能性が高いからです.数学では色々な数学の研究分野を全部合わせても,トップレベルの研究者で,今この瞬間に生きている人 (つまり単に生物として生きているだけでなくて現役でトップレベルの研究を続けている人) は,どう多めに見積もっても全世界で5000人以下でしょう.この全世界で5000人のうちの一人を育成するための講義をほとんどの学生が分からなかったとしても何の不思議もないことです.もちろん,そのような教育が成立するためには,それが許されているかどうかとは別に,そういう講義についてきてくれる学生が何人かはいることが条件になります.そうでないと,講師の一人芝居になってしまうので …
私自身は,日本に移住して以来,(日本では) この「トップレベルの研究者を育成する」ことの許される/できる場所にいなかったのですが,東大で講義をさせてもらったときに,この「トップレベルの研究者を育成する」講義をすることのできる場所が日本でもあることを知って,とても羨ましく思ったものでした.
もちろんそのような講義から落ちこぼれる大多数の人にとっては,そのような教育は,ありがた迷惑ですが,それは,その人たちがトップレベルの大学に入ってしまったことの自己責任,とも言えるのではないでしょうか.
ただし,一言付け足しておくと,そのようなレベルの高い講義が,講義について来られない人にとっても,自分の理解のついていけないような高尚な研究が行われていることを垣間見ることのできる良い機会となる,というような意味での教育効果になるのだったらいいですが,それで不満や劣等感を募らせる学生や卒業生がやたらに増えることは,あまりいいことではないかもしれません: 20世紀の初めには世界最高峰の研究大学だった,ドイツの Göttingen 大学では,多くの落ちこぼれの学生が不満を溜めていて,1930年台に,現代的ポピュリズムの元祖ナチスは,これらの不満や劣等感を抱えた学生をうまく取り込んで,この大学を一気にナチス化してしまった,ということがありました.ヴィーン大学など,他のドイツ語圏のエリート大学の多くでも,同じ時期に同様のことが起こって,これらの,「落ちこぼれ/改め,ナチス党員」学生が,焚書運動やユダヤ人排斥運動などを積極的に推し進めたようです.
これは,不愉快なのであまり考えたくないのですが,もちろん,日本でも, 同じ時期に,このことの猿真似が起こっていたのだと思います.実際,私の研究分野の先達で,この猿真似の片棒を担いだ人の話を知っています.
一方,少なくとも数学に関しては,本物の数学を研究したり教えたりしようとしている限り,学生の能力に合わせて簡単にする,というわけにもいかないので,これはなかなか難しい問題だと思います.
子どもが京大理学部に在籍していた時、高校時代結構数学が好きだったので、解析学に関する初級講座を取ったそうです。解析学は要するに微積分の延長ですが、私が知ってる理論はεーδ論法とかデデキント切断とか、ごく初歩の話です。従って子どもがどういう理論を習っていたのかまったくわかりませんが、結構難しかったとのこと。クラスは40人くらいだったそうですが、京大理学部は理学科といって、普通の大学理学部と違って学部時代は物理とか生物といった専門の学科に分かれていません(昔は京大も「数学科」とか「物理学科」と専門制だった)。従って今の京大理学部に開設される各講座にはいろいろなバックグラウンドを持つ学生が交じりあっています。この「解析学」クラス中に飛び抜けて出来る学生が2人いたそうですが、あまり熱心に受講せず欠席も多かったそうです。ところが演習の日にやって来ると、前に出て競うように証明を書いていったそうです。子どもにはその書いてある証明内容がなかなかわからなかったそうです。そして期末試験。多くの学生が60点台のぎりぎり可の中、この2人は100点満点だったそうです。打ちのめされたこどもが言ったのは、「自分は今まで数学が得意だとずっと思ってきたけど、ここ(京大)に来てただの凡人だとわかった」という感想でした。これが大学の数学授業の実相でしょう。一流大学の理学部数学科は世界に通じる研究者を養成するために開かれており、高校の先生養成のためではない。そうなると100人いたら1人いるかいないかの数学研究者向きの学生に照準を合わせるしかないのでしょう。Sakaé Fuchino氏が述べることはまことに正しいと思います。ですが、そういう厳しい世界を知るのは得がたい経験でないでしょうか?「世の中では上には上がいる」は、真剣に勝負を挑んだ者のみがわかることで、「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」(By NHK「チコちゃんに叱られる!)レベルの怠け者は一生わかりません。これは中学受験や大学受験にも共通することです。
しかし、その結果として「負け犬」になった学生たちのルサンチマンはそんなにも凄かったのか!その怨み、妬みがナチスを第一党に押し上げ、恐ろしいホロコーストの原動力になったと知ると考えてしまいます。私などそういう優秀なひとと会った時、眩しいというかある種のすがすがしさすら感じたものです。「すごい!」と思うだけでした。そうならない人はおそらく「自分にはこれがある」という自信が持てなかったのでしょう。どんな人間でも完全無欠はないです。優劣はあるにせよ一長一短で、自分の特性を活かせればいいのですが。そういえば、ナチスの首魁アドルフ・ヒトラーは若い頃絵の道を志したにもかかわらず、ウィーン美術アカデミーの試験に2度落ち、その夢を諦めざるを得なかったのでしたね。その挫折は後の政治家としての人生、そして世界史に大きな影響を与えたとも言われています。直接的には、以下のArtwords記載の「退廃芸術」決めつけが有名です。
退廃芸術 Entartete Kunst(独)
更新日
2024年03月11日
1937年、ナチズムの文化政策として国民啓蒙・宣伝省大臣ゲッベルスの主導により国内32カ所の公立美術館から、「劣悪」かつ「非ドイツ的」という理由で押収したモダン・アート作品に国家が付与した名称。その数16,000点ともいわれており、さらに選別された約650点が同年7月19日よりミュンヘンで開かれた「退廃芸術」展において展示された。この展覧会の目的は、ナチが政権を獲得する33年までの数十年間に「文化崩壊」を招いたとされる展示作の「退廃を推進する力によって追い求められた世界観的、政治的、人種的、道徳的目的と企図」を「健全な判断を持った民衆」に向けて明らかにするというものであった。そこで弾圧の対象となった様式は、表現主義、ダダイズム、新即物主義、抽象絵画など、ほとんどすべてのモダンの芸術である。例えば、ユダヤ人作家だけが集められた部屋にはM・シャガール、「ドイツ女性への嘲弄」と書かれた区画にはE・L・キルヒナーやM・エルンスト、ヒトラーの芸術観が壁一面に引用された先にはK・シュヴィッタース、「共産主義的バウハウスの教師」と名指された場所にはW・カンディンスキーの絵画が展示された。また、同展と対比させるかたちで、会場からさほど遠くないハウス・デア・ドイチェン・クンストにおいて「純正芸術」とナチが評価した作品を展示する「大ドイツ美術」展が1日早く開会している。「退廃芸術」展は後に精神疾患患者の作品を加えるなど展示作や演出方法を変化させながら41年までドイツとオーストリアを巡回し300万人の観客を動員した。押収された作品は、展示以外にも党の資金づくりのために国外に売却されたり、ベルリンで一部が焼却されてもいる。「退廃芸術」の烙印を押された芸術家のうちエルスントやM・ベックマンなど国外逃亡に成功した者もあったが、国内にとどまった作家は厳しく活動制限され、またユダヤ人画家のO・フロイントリッヒやF・ヌスバウムらは強制収容所に送られそこで最期を迎えた。
これ読むと、ヒトラーがやったことってトランプが今やってることとそっくり!また嫌な暗黒時代が訪れそうで、暗澹とします。
なおyahoo知恵袋にも同じ質問がされていて、以下の回答がありました。
xxe********さん
2021/5/11 3:02
> 京大生でも難しいと感じるものなのですか?
そのように感じることも稀ではないと思います。
大学がどこかに関わらず、大学以上で学ぶ数学科の数学と、大学受験を目的に学ぶ高校数学には、以下のような違いがあります。(本来数学科の立場からは違いがあってはいけないと思いますが)
大学受験のための数学は、結局は頻出事項を抑えた上で、それをどこまで計算として応用できるかを追求するのが(高校の定期テストや大学入試で)評価される場合が多いのに対して、数学科の大学数学では、数学的対象をどのように定義するか、それを直感としてどう結びつけるか。そこから導ける論理的な性質(定理)は何か。その定理のステートメントが意味することを感覚的に自分の中に落とし込めるか。これらの繰り返しになります。
公式の意味を蔑ろにして、数学を学んできた人にとっては、珍紛漢紛(註 →珍文漢文の間違い)と感じるのも無理はないかと思います。
言ってることは何となくわかる気もするが、あまりよくわからん。数学者だナ!
pon********さん
2021/5/11 2:14
数学科で勉強する数学にはいくつか落とし穴になる地点があり、京大に限らず「全然意味がわかりません」と言っている方は、おそらくそれらの落とし穴の1つ目か2つ目に落ちたものと思われます。
その2つはおそらく、
1.高校の微積得意だった→大学の微積の最初のイプシロンデルタ論法で撃沈
2.高校のベクトルと行列簡単だった→線形代数の最初のベクトル空間の定義で(?_?)のまま話が進む
その後も
・群論→いきなり「群」とか言い出したけどこれは何??
・体論→拡大の種類が多すぎる問題。そしてたまに超人的な「こんなの絶対思いつかんよ」レベルの証明の定理がある。
・ルベーグ積分からの関数解析→ただただ苦難の道。話が長い。
・多様体→そもそもこれは何その2
と、これでもかと落とし穴が登場します。
(※個人の感想です。)
でも、最初の2つを乗り越えればけっこう勢いが付きますので、意外と楽しめると思いますよ!
そうだったの?わしもガロアの「群論」一応わかるぞ。じゃあ結構良いところまで来てたジャン!再びQuoraの回答から。
Yasuhiro Niji
京都大学で理学部を専攻
執筆者は997件の回答を行い、247.3万回閲覧されています
4年前京大の理学部の数学の授業は、はっきり言って難しかったです。数学者を養成するための授業なのでレベルは高いです。数学者なんて必要な人数は限られていますから、芸術、スポーツ、囲碁・将棋の世界と同じです。世の中には、藤井聡太棋聖のように5歳で『駒落ち定跡』の本を完全に理解した人間もいるので、そういう人間を対象に授業をしているというだけのことで、多くの学生が理解できるようにしようとは考えていないのです。だから、授業が意味不明であっても卒業はできるのです。会社で必要になる数学ぐらいであれば、独習できると思うので、そういう授業のやり方もありかなと思います。
やはりそうなのネ!「重いコンダ〜ラ〜、しれんのみ〜ち〜をぉ〜。ゆくがぁァ〜!おとこのぉ!どこんんじょおぉ〜」は止めた方がよろしい。「成せばなる」は昭和の発想です。数学と音楽は似たところがあって、一部の天才しか先端を創造していくことができず、凡人は無理に執着しない方がいいところ。違うのは音楽は凡人も楽しめるけど、数学は凡人には宇宙の涯てみたいな点(嗤)
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