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坂口志文氏ノーベル賞 〜サプレッサーT細胞の恩讐の彼方に

ポワール


先週のブログで「間もなくノーベルウイーク」と書きながらも、「もう日本人の受賞はないかも」と内心悲観的でした。そこに昨夕速報で「坂口志文氏ノーベル生理学医学賞受賞」とテロップが流れ、嬉しい安堵とともに「ああ、坂口先生ついに受賞されたか」と感慨がありました。


 坂口先生と制御性T細胞の研究は知っておりましたが、免疫学は専門外なのでそれほど深くは理解しておりませんでした。ところが昨年(2024年)年末、群馬県の地方紙「上毛新聞」に花粉症に関する連載記事がありました。私地方に行くと必ずその地の新聞を買う習慣があります。この上毛新聞の花粉症記事では坂口先生の研究紹介に多くの紙面を割いており、地方紙とは思えぬ内容の深さでした。失礼ながら上毛新聞の購読者のほとんどが内容をよく理解できなかったのでないか?慌てて出講先の事務に頼み、この記事連載をすべて送ってもらうようにお願いしました。それらをよく読み、坂口先生の研究への情熱に感嘆しました。


 坂口先生の略歴を「生命誌研究館」のサイトから引きます。

1951年 滋賀県生まれ

1976年

    京都大学医学部医学科 卒業

    京都大学大学院医学研究科 入学

1977年 愛知県がんセンター研究所実験病理部門 研究生

1980年 京都大学医学部免疫研究施設及び附属病院輸血部 医員

1983年

    京都大学医学部 博士号取得

    ジョンズ・ホプキンス大学 客員研究員

1987年 スタンフォード大学 客員研究員

1989年 スクリプス研究所免疫学部 助教授

1992年 新技術事業団「さきがけ21研究」研究員

1995年 東京都老人総合研究所免疫病理部門 部門長

1999年 京都大学再生医科学研究所生体機能調節学分野教授

2007年 京都大学再生医科学研究所 所長

2011年 大阪大学免疫学フロンティア研究センター実験免疫学分野 教授

2013年 大阪大学 特別教授

2016年 同 特任教授

大阪大医学部は千葉大医学部と並び、日本の免疫学研究の二大拠点です。阪大は山村雄一第三内科教授に始まり、岸本忠三(文化勲章受章)、審良(あきら)静男(文化功労者)等錚々たる顔ぶれがずらりと並びます。しかし、坂口志文氏自身はこの系列に並ぶものでなく、京都大学教授から当時阪大総長だった岸本氏の招聘を受けて大阪大学に着任しました。


 坂口先生の研究の中心は上記した「制御性T細胞」(regulatory T cell)で、略して「Tレグ」(Treg)と呼びます。Tレグの機能を簡単に言うと、「免疫の抑制」です。まず坂口先生が免疫に興味を持ったのは京大医学部生の時だそうです。私も学生時代免疫学論文の輪読会に入りましたが、正直申して自分の課題にしたいと思わなかった。利根川進(1987年ノーベル賞受賞)の抗体の遺伝子組換え発見から膨大な進歩があったものの、学問としてかなり完成体に近いと感じられました。「免疫で今後劇的新発見はあまりないのでないか」と若気の至りで大変失礼なことを思っていました。坂口氏は大学院で病理学を専攻しますが、これも驚き。というのは一般的な病理学研究室では病理診断に関係した研究が中心で、多分に臨床的要素が強い。はっきりいって臨床経験の長さが物を言い、理論はあとからついていくという感じでおもしろくない。京大病理はよく知りませんが、似たようなものだったのでしょう。生命誌研究館での坂口先生のインタビューを引きます。

免疫学を知るために病理学研究室を選んだのですが、そこで取り組んでいる研究がどうしても面白いとは思えない。あと4年もここにいるなんてかなわん。もっと心惹かれるテーマはないだろうかと悩んでいた時、医学雑誌のある報告が目に留まりました。愛知県がんセンターの西塚泰章先生たちの論文で、この出会いが僕の研究の礎になったのです。

西塚泰章(やすあき)先生は神戸大・西塚泰美(やすとみ)先生の兄で、兄弟とも京大医学部卒の有名な研究者です。特に泰美先生は細胞内シグナル因子「プロテインキナーゼC(PKC)」の発見で、何度もノーベル生理学・医学賞の候補になりましたが、ついに受賞ならぬまま講演中に脳卒中を起こして帰らぬ人となりました。兄の泰章先生は免疫学で胸腺におけるT細胞分化に注目していました。この部分は内容が難しいのでWedge記事から引きます。

京大の大学院に進み、研究者の道を本格的に歩み出した坂口は、ある日、医学誌で愛知県がんセンターの西塚泰章(やすあき)教授たちの論文「免疫細胞をつくる胸腺を摘出したマウスの実験」を目にした。胸腺で作られるT細胞には、異物を排斥する司令塔のヘルパーT細胞と攻撃するキラーT細胞があり、理屈ではそれらを取り除いてしまえば免疫反応は起きなくなってしまうはずだ。しかし、なぜか結果は逆で、免役反応が過度に表れてさまざまな臓器への攻撃を始めるというものだった。もしかしたら取り除かれたT細胞の中には、攻撃だけではなくブレーキをかける未知の細胞も含まれているのではないか。覗(のぞ)き込んだ深淵に何かがチラッと見えた。


 坂口はすぐさま大学院を中退し、愛知県がんセンターの研究生になった。心が動くものがあったらまっしぐら。求めるものに頑固で動きは軽やかな研究者としての姿勢がうかがわれるエピソードである。

坂口先生がすぐ京大の大学院を中退して無給の研究生になったのはすごいですが、これは医師免許を持っていたからこそでしょう。医師資格があれば短時間で見入りのいいバイトはいくらでもあり、実際坂口先生も愛知がんセンター時代そうでした。生命科学を専門としたいひとはできれば医学部に入って医師免許を取ることを勧めます。完全なPhDだとうまくいかなった時本当に路頭に迷うことになり、実際私も実例を何度も見ているので。

 

 さて話は戻ります。坂口先生はここで「免疫を抑える免疫細胞」の糸口を掴みますが、ここで最大の問題となったのが表題にした「サプレッサーT細胞」です。GoogleAIさんから引きます。

サプレッサーT細胞とは


かつて提唱されていた、免疫反応を終了させる働きを持つT細胞の概念でした。特定の抗原が体内からなくなったら、ヘルパーT細胞やキラーT細胞の働きを抑え、免疫反応を終息させる役割を持つとされていました。しかし、分子生物学的に特定の細胞が存在しないことが分かり、現在はその概念は否定されています。

自分の学生時代、免疫学の教科書に出ていて獲得免役を促進するヘルパーT細胞と対になるような概念の細胞でした。この概念を提唱したのが、千葉大医学部の多田富雄教授でした。日本免疫学会のサイトから引用します。

1966年、米コロラド州・デンバーの小児喘息研究所にいた石坂公成・照子夫妻が「免疫グロブリンE(IgE)」を発見した。この時、背中を貸してその画期的な成果に貢献したのが多田先生。余談だが、IgE抗体検出のために行われたPCA反応の背中の写真は、石坂先生が天皇陛下にご進講された際に、披露された。IgE発見は日本免疫学発展の礎となったが、これをもって免疫化学は終焉し、T細胞や、B細胞などによる細胞免疫学が台頭することを多田先生は予見していた。


 そのメルクマールが、1971年の第一回国際免疫学会において、「T細胞の中に、免疫反応を抑える『サプレッサーT細胞』が存在し、胸腺摘出により免疫抑制が解除され、逆にT細胞移入により抗体産生を抑制できた」と発表したことだった。世界で初めて「T細胞には免疫制御機能がある」という概念の提唱だった。


 当時、抗体産生するB細胞などに働きかけて免疫反応を起こす「ヘルパーT細胞」が注目されていた。しかし、免疫反応は時間の経過とともに終息する。それは積極的に免疫反応を抑制する細胞が存在するからに違いないという、鋭い眼識だった。免疫を抑制する細胞がいないと間違って発生した自分を攻撃する細胞による自己免疫疾患が起こりうる。これを回避する仕組みが必要、いわばフェールセーフ (Fail safe) 機構という概念であり、免疫寛容という仕組みでもあった。

 免役は生体防御に絶対必要ですが、行き過ぎると自己免役疾患などが起こってよくない(第一炎症反応が続くと組織が傷つく)。そのブレーキ役がサプレッサーT細胞というわけで、概念としては現在でも通じます。この「サプレッサーT細胞」説をひっさげて一躍有名になった多田先生は母校千葉大医学部に戻り、1974年免疫学部門の教授となります。余談ですが、この多田教授就任には田中角栄が関係しています。これには当時多田先生に大学院生として師事していた谷口克(まさる)氏が絡んでいます。ここは谷口先生自身が答えたインタビューを引きます。

1974年、多田先生のために千葉大に免疫学研究部門が設置され、初代教授に就任した。この裏には、当時の田中角栄首相が免疫学の重要性を理解してくれたことがある。当時、大学院生だった私は長岡出身ということで、同郷の田中首相の後援会である越山会を通じて、多田先生と東京・目白にある首相の私邸にお願いに上がった。多田先生が免疫学の重要性を説くと、田中首相は「よっしゃ」と言って願いをかなえてくれた。 

田中角栄、政治家としては功罪半ばと僕は思っていますが、政治的勘は尋常でなかったと感じます。しかし、一介の学生の陳情に「よっしゃ!」でいきなり国立大に員外教授をつくってしまうのは凄い!なお谷口先生は多田先生が東大医学部免疫学教授就任で異動した後、千葉大免疫学部門を率い、日本の免疫学の一大研究拠点を形成しました(2024年逝去)。千葉大はこの「サプレッサーT細胞」の研究で隆盛を極めましたが、次第に暗雲が広がります。というのは、このサプレッサーT細胞(Ts)の機能的分子とされた「I-J分子」が、現実には「存在しない」ことが明白になったからです。多田富雄先生ご自身が述懐した記述が日本免疫学会誌(2003年)にあるので、引用します。

T s の異端審問

1990年代になると突然suppressor age は幕を閉じた.現象論だけが賑殷をきわめ,当時やっと可能になった分子的解析が欠けていたことによる.特にI-Jや抗原特異性の謎があった.過激な議論に「T s は存在しない」というのがあった.陰湿な異端審問的な論調に,私はある国際誌で"eppre si muovo!"(それでも地球は動く)というエディトリアルを書いたことがある.ガリレオガリレイの言葉である.私の恩師岡林篤教授(註:千葉大病理学教授)は,「自分の眼で見た物だけを信じよ.ゆめゆめ疑うことなかれ」と口癖のように言われたのを実行したまでだ.

残念ながら、多田先生が依拠していた数々のサプレッサーT細胞の証拠は「実験の誤り」となり、否定されました。決定的だったのは上記のI-J分子の遺伝子の存在が1990年代のゲノム解析の進歩で否定されたことです。同号の愛媛大・浅野喜博教授の文章です。

このしばらく後で,きわめてショッキングな報告が為されました.1981年,もともと I-J 分子の存在を示唆した系統のマウスの遺伝子を比べても,予想された位置に遺伝子配列の違いがないことが明らかにされたのです.この頃から,それまでのサプレッサーT細胞研究の隆盛は跡形もなくなりました.1983年,セントルイスで IrGene ワークショップ が開催され,久しぶりで多田先生にお目に掛かったのですが,非常にお疲れの様子だったのを憶えています.このワークショップのポスターにはH-2 領域の I-J 亜領域が半分欠けている図が用いられ,時勢をきわめて象徴的に表していました.それまでサプレッサーT細胞の解析に関わっていた研究者たちは I-J分子の存在が疑問視されると,たちまちサプレッサーT細胞の研究から離れ,サプレッサーT細胞の存在すら疑問視するようになり,さらに,サプレッサーということばを口にすることさえタブーになったのです.サプレッサー研究の冬の時代の到来です.

自分の母校でも、この時期免疫学教室の先生から「サプレッサーT細胞は存在しないんだ」と教科書記載を否定する発言を聞きました。多田富雄先生は「サプレッサーT細胞の発見」の業績で、1977年に東大医学部免疫学教室の教授に抜擢されました。東大医学部でも本郷の教授は鉄門倶楽部(東大医学部の同窓会)の牙城でした。東京帝国大学医学部から新制東大医学部になっても東大医学部卒以外の者が教授になったことはなかったのです。多田先生はその慣習を打破し、初めて東大卒以外の教授として千葉大から招かれました。当時東大医学部の教授選考は公募でなかったこともあってものすごく話題になり、新聞紙面でもこの異例人事が報道されていました。しかし、抜擢理由の「サプレッサーT細胞」説が反古となった1980年代以降、立場が苦しかったと思います。1980年代後半のフランスの大学教授の東大多田研の訪問では、「陰鬱な空気に包まれており、多田教授以外の研究メンバーは発言がまったくなかった」と印象が記されています。多田先生は医学研究以外にも能楽など趣味への造詣が深く、随筆執筆や医療・科学を題材にした新作能の創作もしました。著書に『免疫の意味論』(1993年)、『生命の意味論』(1997年)、『独酌余滴』(1999年)などがあり、どれも興味深い内容です。 しかし、2001年脳卒中で倒れたあとリハビリで驚異的回復はしたものの、研究については失意のうちに2010年世を去りました。


 1985年とちょうどまさにサプレッサーT細胞説が轟沈する中、坂口先生は同じ発想の細胞で研究を出していきます。生命誌研究館の本人の述懐です。

仮説を追い続けること数年、これまでのような胸腺切除を行わずに、免疫細胞の操作だけでマウスに自己免疫性炎症を再現することに成功しました。この成果を、自信をもって論文にして世に出しました。


ところが思わぬ不運に見舞われました。世間では、抑制性T細胞の実体を誰も確認できず、皆が次々と手を引いていきました。抑制性T細胞の仮説が崩れ始めたのです。自信作の論文が出た1985年はちょうどその時期で、僕の研究もその割を食ってしまったのです。僕が追っているのは抑制性T細胞とは全く別物だと言ったところで、世間がそう見てくれるはずもありません。「免疫反応を抑える細胞」という考え方そのものを受け付けない空気ができ、僕の研究成果は誰にも注目してもらえませんでした。


もし日本にいたら、僕の研究の芽はつぶれてしまっていたでしょう。日本では、ある教授の下でまず助手になり、下積み時代を経て教授になるという段階を踏まなければなりませんから、本流を外れてしまった仮説を追い続けることなんてできません。ありがたいことに、学位を取ってすぐアメリカに留学し、奨学金を引き当てるという幸運に恵まれたのです。大牧場の未亡人が設立したルシル・P・マーキー生物医学賞というユニークな奨学制度です。毎年16人の若手研究者を選び、8年ものあいだ給料と研究費を支給するという、当時最も羽振りのいい奨学金でした。審査員の1人が、ひょっとすると大きな研究に発展するのではないかと判断してくれたようです。おもろいことを言う若い研究者には、たとえ歩留まりが悪くてもチャンスを与えてみる。アメリカのサイエンスの強みです。同じ年に奨学金をもらった研究者は、今ロックフェラー大学やハーバード大学の教授になっていますよ。


その一方で、アメリカでも大半の免疫学者は、抑制性T細胞など無かったものとして次へ進んでいました。僕らの研究は明らかに世間とは外れた動きと捉えられ、「今さらどうしてそんなことをやっているんだ」という目で見られることもありましたね。誰からも注目されない「冬の時代」の始まりでした。

僕の考え方は違いました。どんな人でも、正常な自己を攻撃する免疫細胞を持っている。それを抑制する細胞が同時に存在しているから何も起こらないだけだ。そこは譲れません。放射線やウイルスは、抑制する細胞の方を壊すことで自己免疫疾患を起こすに違いない。マウスに化学薬品やウイルスを投与して自己免疫疾患を作り出し、その一つ一つが抑制能を持つCD4 T細胞と関係があることを示していきました。8年ほどかけて少しずつ、ちゃんとした雑誌に発表しましたよ。それでも、なかなか受け入れてもらえませんでしたけれど。

ここで再び幸運に恵まれました。イーサン・シェバック(注2)という免疫学界の大物が、僕の研究を支持してくれるようになったのです。NIHにいたシェバックは、サイクロスポリンAという免疫抑制剤を精力的に研究しており、それを扱った僕の論文をたまたま見たのです。彼は学会でも有名な抑制性T細胞嫌いで、自身が編集長をしている「米国免疫学会誌」に投稿された抑制性T細胞の論文は全て落とすと言われていました。その彼が研究室の女性のポスドクに「未だに胡散臭いこと言う連中がいるから、本当かどうか確かめるように」と、僕たちの論文の追試を指示したのです。すると意外にも彼女が、本当に自己免疫性の炎症を再現できるという結果を持ってきた。これを期に彼は周りが驚くほど変わっていきました。面白いものですね。シェバックが言うなら本当かもしれないと思う人が出てきて、空気が変わっていったのです。

坂口先生は自分が発見した「免疫を抑制するT細胞」を「制御性T細胞」(Tレグ)と命名して、従来のサプレッサーT細胞と区別し、さらにその細胞表面分子マーカーとしてCD25を同定しました。しかし、CD25とて完全にTレグを識別する因子ではなく、移行的でした。ここで「IPEX症候群」という稀な先天性疾患にたどり着きます。IPEX症候群はX染色体連鎖の伴性劣性遺伝の自己免疫疾患ですが、その原因遺伝子として2001年FOX-P3という転写調節因子が同定されました。Foxはもともとショウジョウバエの頭部形態突然変異forkheadから命名された遺伝子です。ハエでは形態形成に関与しますが、その脊椎動物のホモログは遺伝子ファミリーを形成し、発生分化の広範なシグナル因子として活動します。坂口先生は「この

FOX-P3こそが、Tレグの分化調節因子(=マスター遺伝子)でないか」とひらめきます。そしてマウスの実験などを通じて、みごとにそれを実証しました。こうしてTレグは「実体がある免疫抑制能を有するT細胞」として確立されたのです。2003年アメリカの一流科学誌「Science」に坂口グループは競争相手の機先を制して、この論文を発表しました。この結果が花開き、この度の坂口志文先生のノーベル生理学医学賞受賞へと繋がりました。最後に坂口先生の生命誌研究館インタビュー内容で締めます。

ここへ至るまでには、色々な幸運に恵まれました。大事なところで僕の研究を評価し、手を差し伸べてくれた人に本当に感謝しています。近頃は研究にも資金が必要になってきており、サイエンスを志す若い人には厳しい状況ですね。面白い研究の芽を見つけて拾い上げること、また少し育った研究には更に手厚いサポートをすること。研究者を育てるにはこの2つが必要だと思っています。


1つのことを本当に理解するのは、何かを読んですぐにできるというものではありません。まずは頭の中に入れた知識がしかるべき所に定着する時間、さらにはそれをうまく使えるようになる時間が必要です。40歳までに自らの仮説を証明したいと考えて始めた研究でしたが、はるかに長い時間がかかってしまいました。「何事にも時間がかかる」、これが自身の人生から得た教訓です。


どんな分野の学問であれ、より一般性の高い理論は美しい。僕はそう思っていますし、研究を始めたころからそれを目指してきました。自分の仕事をより大きなピクチャーの中に位置づけていくことが研究者には不可欠だと思いますね。その過程で自分と他の人の考え方を比較し、何をどこまで説明できたのか、不十分なところはどこかを絶えず考え抜くのです。


今は技術が進歩していますから、例えば個人の持つ全てのゲノムを解読することも、一週間もあればできてしまいます。基礎か応用かに関わりなく、ヒトを使った良いサイエンスができる時代になったのです。これは半分冗談で言うのですが、人はマウスとは違って、自分で生活して言葉も話してくれる。とても情報の多い生きものです。これから目指すのは、「ヒトの免疫学」の完成です。既にでき上がった学問の中で、最先端の技術を使って前進する研究もありますが、免疫学は未だに「露天掘り」ができる学問です。まだまだ面白い現象がたくさん見つかり、さらにそれを煎じ詰めていくときわめて重要な生物学的問いになっていくのです。この学問は、まだ始まったばかりです。


最後にまた余談ですが、今回の受賞ニュースでようやく坂口志文先生のお名前来歴がわかりました。「しもん」とは変わった名前だとずっと思っていましたが、受賞お祝いでお兄さんの坂口偉作さんがインタビューに応じていました。元高校の先生だそうですが、「しもん」に「いさく」?これどう考えても「シモン」と「イサク」でしょう!両方とも聖書に出てくる人物の名前じゃないですか!いったい名付けた親はどういうひと?と思うと、生命誌研究館に出ておりました。

名前の由来をよく尋ねられるのですが、あまり深い意味はありません。「名前は人と区別するためにあるのだから、他には無い名前を付けるんだぞ」と、祖父が父に言ったようです。父は京都学派で哲学を学んだ人間で、家には本がたくさんありましたから、聖書を放り投げて開いたところにあった名前をつけたのかもしれません。戦争から帰った父は京都大学に戻りたかったのでしょうが、終戦直後は多くの先生が京大を離れざるを得ない状況で、それも叶わず。故郷の滋賀県長浜町で長く高校教師をしていました。

お父さんの坂口正司さんは京都帝国大学(現京都大)文学部哲学科を卒業。日中戦争、太平洋戦争を通じて陸軍に徴兵されると、得意のフランス語を生かし、連絡将校を務めたそうです。帰還後の戦後は高校教員として過ごされました(坂口志文先生が県立長浜北高校に進学した時は、同校の校長を務めていた)。うーむ、さすが京都大学。ノーベル賞の血脈は脈々と受け継がれているようです。


*「よっしゃ!」で多田富雄先生を教授にした田中角栄ですが、これはその後三木内閣で政府官房長官を務めた千葉県選出の自民党代議士井出一太郎と関係するだろうと思います。というのは、井出一太郎の弟・井出源四郎が、千葉大医学部長、その後学長を務めていたからです。

日常考えたことを書きます