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昔の京大医学部受験生のブログ(1)

昔の京大医学部受験生のブログ(2)
昔の京大医学部受験生のブログ(3)
昔の京大医学部受験生のブログ(4)〜私の感想


子どもが大学受験まっただ中だった頃に見つけたある元受験生のブログですが、もう運営が終了してしまったYahoo!ブログにありました(2019年12月終了)。書かれたのはおそらく2000年代前半でないかと思うので、今から20年くらい前の受験記となります。当時国公立大の入試はすでに前期・後期の分離分割入試になっておりましたが、東大・京大を始めとして多くの有力大でも全学部で後期の募集がありました。この方は最終的に後期募集の京大医学部入試で合格しています。京大が医学部保健学科(今の人間健康科学科)以外のすべての学部で後期募集を停止したのは、2007年度入試(2007年実施)です(保健学科も2008年を最後に停止)。今とは入試環境がかなり異なりますが、そこに書かれた懸命な努力の軌跡はすごいものです。本当は「(有)伯商会」というHNで書かれた方に転載をお断りしないといけないのですが、今となっては何処のどなたなのかも全くわかりません。申し訳ないですが今の医学部受験生にも大いに参考になるということで、お断りなく掲載する非礼をお許しください。長いので、何回かに分けて転載します。


私の医学部再受験・仮面浪人記


私は静岡県内のサッカーでそこそこ有名な高校を卒業後、一年間浪人するも前後期で志望大学に不合格、純粋二浪を恐れ、中期合格した静岡県立大学薬学部にそのまま進学、その年は仮面浪人で再受験に挑みましたが前期で医学部不合格、後期で合格した京都大学薬学部に進学、医学部をあきらめきれずにこの年再び仮面浪人・再受験に挑み、翌年京都大学医学部医学科に前期不合格なるも、なんと後期合格し、現在に至っています。実質的には3浪で医学部入学した事になります。


地方の中堅公立進学校出身者の私にとって、京都大学医学部に行こうなんて思った高二の春、思えばそれが全ての回り道の始まりでした。そもそも何で京大医学部に行きたくなったのか、まずはこれについて語らなければなりません。私は幼い日の病院通い経験、そしてその後の色々な経験が重なり、中学時代に医師を目指そうと本格的に決意したのでした。そしてそのためには当然のように医学部に行かなければなりません。それならば十分地方医大で構わないでしょう。私の住んでいた静岡県だったら、浜松医科大学という立派な医大があります。家族も、そして周りの人たちも当然のように私が浜松医大を狙うと思っていたようですし、高校1年生までは私も普通に浜松医科大を第一希望としていました。。


ただ、私は大学生活に関して一つの夢がありました。大学ではいろいろな人と知り合い、医学だけではなくいろいろ面白い経験をしたいなあと思っていたのです。当初は浜松医大希望だったものの、できれば医学部生以外にも様々な人と出会える総合大学に進みたいと思っていました。そこで、もし私が学力を度外視したらどんな大学に行きたいんだろう、そんなことを考えたのです。その時私の頭に浮かんだのが京都大学でした。日本最多のノーベル賞受賞者を輩出、旧帝トップクラスでありながら東大とは対照的な自由の学風、そして京都という立地、そして間違いなく出会える優れた、そして濃い学生たち、これこそ私にとって最も魅力的な大学に思われました。今になってよく言われるのが何で東大理Ⅲにしなかったのか、という事ですが、これはただ単に私がアンチ東京主義だからであるという理由だけです。権力中枢に登りつめるよりは、一野党として自分の好きなことをやりたいというのが医学に限らず私の趣向です。話を戻しますが、しかしどう考えても現実を見てみると私の夢と現実との間にはもちろん難易度というハイパーな壁があります。私の高校から過去京大医学部へ進学した人は過去数十年存在しなかったようだし、そもそも存在したのかどうかさえ定かではありません。1年に数人、東大、京大の医学部以外に入れば万万歳の田舎高校の学生が、灘、東大寺学園、洛南、洛星などの私立中高一貫スーパーエリート高の上澄みの吹き溜まりとまで言われる京大医学部を目指す、というのはかなりの冒険、といおうか、ほとんど無謀です。しかし、私も若さ、というか無知ゆえの開き直りというのでしょうか、当事通っていた塾の先生から勧められた事もあり、高二の時、本格的に京大医学部チャレンジを決意しました。当時は私にその後降りかかる数々の試練など知る由もなく、まだまだ現実の見えない淡い夢想に包まれていただけでした。


まあ、高三までは胸にひめたる野望といったところでしたが、さすがに進路指導の季節にもなると、秘密にしておく訳にも行かなくなり、恐る恐る周りに公開しましたが…周囲の評価は真っ二つに分かれました。クラスメイト、担任の先生を始め、なぜか数学科の先生方は確実に浪人覚悟の私のチャレンジを応援してくれましたが、、はっきりと反対される先生方ももちろんおられました。特に当時の教頭先生には廊下であからさまに、「君、医学部も全国にいっぱいあるだろう。わかるかね。」なんていわれる始末です。まあ確かに今振り返ってみても実力なんて全然伴ってませんでしたから無理もないって言えば無理もありませんでしたが、クラスメイトに「俺は俺は京大医学部に行くぞー」なんて宣言してしまった以上、もはや考え直すなんてわけにもいきません。模試の判定が最悪でも、現役はここから伸びるんだ、などとうそぶき、前期で京大医学部を受験して当然不合格という結果に終わりました。数学はそこそこ出来たのですが、勉強量が伴っていなかった理科が全然出来ていなかったのが大きな原因でしょう。後期は浜松医大を受けましたが、面接入試にひっかかるはずもなく、不合格。まあ一浪くらい普通でしょう、なんて思いで浪人生活に突入したわけでした。医学部受験というのがいかに泥沼化してゆくかということをこれから私は思い知ってゆく事になります。


浪人一年目、それなりに勉強しました。生活は思いっきり夜型でしたが、現役時代からお世話になった予備校に通いつつ、家でも勉強しつつ、日々は過ぎていったのでした。思えば現役時代は理論で固まりすぎてました。勉強はこうやるもんだ、こうすれば伸びるんだ、そんな理論ばっかりに凝り固まって、肝心の勉強量が少なかった、そんな気がします。理論は大切ですが、手を動かすことも必要です。まあ、そんな当たり前のことにも気づかなかった、と言おうか、そんな現実に背を向けてしまった現役時代はまだまだ未熟だったと思います。

そんな地道な勉強の成果も実って、夏の京大実戦で初めてA判定を出しました。まあ、数学がめちゃくちゃできただけで(確か200点中180点くらい)他は大した事なかったんですが。でも今考えてみれば、この得点パターン、良くも悪くも私のそれからの運命を大きく左右してゆくことになります。特に難易度の高い京大入試数学はあくまでもバクチ科目というのが定説のようです。これで安心してしまったのがいけなかった…。秋の模試では多少成績が下がったんですが、まだまだ夏の好成績の余韻に浸っていて、大した危機感は感じなかったわけです。今考えるとこれを典型的な油断というのですが…。しかしまあ気にしない、俺はA判定出したんだ、などとまだ根拠のない自信に浸りつつ秋から冬は過ぎていったのでした。

そして訪れた1月、センターが難化し701点となかなか振るいませんでしたがそんなこと気にもせず前期で医学部、後期で理学部、そして、純粋浪人は一浪までという親との約束に基づき、最悪の場合を想定して中期で静岡県立大学の薬学部を受験、さあ、勝負の前期日程でしたが、大幅難化した数学でこけてしまいました。私の場合、数学が突出して好成績な事で、全体を引き上げるみたいなことがありましたから、数学でこけると相当厳しいというわけです。そんな訳で、前期は不合格、後期の理学部でしたが、今度は理科が全然解けない、数学も並程度しかできない、という訳で後期も不合格。


これで完全にプライド崩壊、これにはだいぶ凹みました。医学部どころか理学部に落とされたのはほんとにショックでした。俺は今まで何やってたんだろうとほんと真剣に思い悩みました。今振り返ってみれば、この一浪時代は突出できる数学の勉強に重点を置きすぎ、当然安定を狙うべき理科をおざなりにしてしまっていた気がします。ようするに、現役時代と比べて自分の問題点が何も変わっていない、と。入学試験は公平なものです。ただ勉強した気になっていたやつは落ち、本当に勉強していたやつは合格する、当然の結末です。実際今振り返っても最も能率の悪かった1年でした。自分が自分自身をいかに甘やかしていたか、純粋浪人といういわば特権の上であぐらをかいていたか、掲示板から京都駅までぽつぽつ歩いて帰る最中、そんなことばかりが頭を巡り、自分自身が本当に甘い、弱い人間だと思いました。医学部を目指す以上、俺はもっと自分に対して厳しくならなきゃならない、そうでなけりゃ医者になる資格などない、再びまた長い長い1年を始めるにあたり、これは俺にとっての教訓だったんだ、落ちて勉強したんだと必死に自分を納得させ、静岡に帰る新幹線に乗り込みました。また1年後に来るであろう京都、清水寺の楼塔が夕日に輝いていました。


ところで、中期に受けた静岡県立大学薬学部は受かってました。純粋浪人は一浪までといった親でしたが、もし自分が再び京都を目指したいならもう1年は純粋浪人してもよい、とは言ってくれました。しかし、2浪、医学部受験の厳しさを痛感し、今後いつ医学部に入れるか全く先が見えません。確かに再び京都を目指す、と決意したものの、不合格で弱気になっていた私には、とりあえず入れる国公立大学があるというのは一つの救いではありました。2浪に対する世間体、自分自身のプライド、色々な事を考え、結局静岡県立大入学を決めました。自分の目標進路が遠くなるのを覚悟の上でした。