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伊藤和夫師 〜駿台予備校・受験英語の精髄

ポワール

伊藤和夫スレ


今読売の「時代の証言者」は、数学者・秋山仁(あきやまじん)氏のシリーズになっています。秋山氏は駿台予備校の名物教師でしたが、私は直接にはよく知りません。せいぜいメディアで見る頭にバンダナを巻いたご尊顔くらいです。駿台教師時代のエピソードでも見ようかとwikiの秋山仁のサイト見たら、「駿台在籍にはまったくと言っていいいほど触れてない」。「時代の証言者」では、秋山氏は駿台予備校での教育経験について述べてました。最初は私大文系の数学担当で苦労し、その後人気が出て午前部理一などでも教えたそうですが、その程度であっさりしたものです。あとはミシガン大に留学する機会を得て、グラフ理論に励む様子に移りました。私が駿台に在籍したのは丁度秋山氏が留学して駿台は不在の時期で、だから私は知らないのだな。秋山氏にとって駿台予備校で教えていたのは黒歴史なのか?しかし、駿台、そんなに恥じる場所ではないと思う(学校オーナーの山埼一族が相当に胡散臭いことは知る人ぞ知るだが)。たかが予備校とはいえ、教師の質はそこらの自称進学校レベルとは次元がまったく違います(ました)。単に大学合格すればいいといった小手先のテクニクだけに終始する存在ではなかったです(少なくともあの頃は)。

*註:我々の時代に駿台高等予備校から「駿台予備学校」と改名し、現在に至る


 駿台では伝統的に教師のことを「〜師」と呼ぶのですが、英語の伊藤、数学の野沢、根岸、中田、長岡(亮)の4N(長崎師も入れたら5Nか)、そして古文の桑原の各師は、今の自分からみても「師」と呼ぶにふさわしい先生たちでした。中でも風格があったのが、伊藤和夫師です。秋山仁氏の探索から久しぶりに駿台時代を思い出したので、触れてみます。お茶飲みwikiに略歴が出ていたので、引用します。


    1927年、長野県生まれ。

    1944年、旧制東京府立第五中学校卒業(→都立小石川中等教育学校)

    1944年、旧制第一高等学校入学。

    1953年、新制東京大学文学部西洋哲学科卒業。

        卒業論文はスピノザの「エチカ」。

    1954年、山手英学院専任講師(英語科主任)。

        学生時代から15年勤務。

    1966年4月、奥井潔師の仲介で駿台高等予備校へ移籍。

    1979年、英語科主任講師。

        以後、専任講師として1995年度まで勤務。英語科主任、学校法人駿河台学園理事などを歴任。

    1997年1月21日、御茶ノ水の杏雲堂病院で死去。

我々の世代は高校や予備校で旧制高校の卒業生から習うことが多かったですね。旧制高校なんていうと遥か昔に感じますが、存外我々にとっては身近な存在だったと言えます。年譜をみると我々の時代、戦後の新制大学受験の予備校としての英語科創世記を支えた鈴木長十奥井潔から伊藤和夫の時代に移る時代で、伸び盛りの時期といえるでしょう。


 伊藤師がただものでないのは、彼に関する「研究論文」まで出ていること!(京都大学大学院教育学研究科紀要 第67巻)

A Historical Analysis of English Interpretation Methods for University Entrance Examinations in Japan

キーワード伊藤和夫, 英文解釈法, 受験英語, Kazuo Ito, English interpretation methods, English teaching and learning for university entrance examinations (juken-eigo)

誌名

京都大学大学院教育学研究科紀要

巻67 開始ページ15終了ページ28

抄録本稿

「受験英語」における英文解釈法が歴史的にいかに展開してきたのかを、入試問題や受験生の変化といった英語教育に対する外的要因によって説明することを試みるものである。その際、「受験英語の神様」と呼ばれた英語講師、伊藤和夫による英文解釈法である「構文主義」を中心に分析した。「構文主義」以前に主流だった英文解釈法は、日本語に訳しにくい「熟語」・「公式」の暗記が中心であった。「構文主義」はこれを批判し、英文を体系的に分析する原理と、英文を「直読直解」する視点を提示し、後に「構文主義」は後者を重視するようになった。「構文主義」の登場以後は、これを批判的に継承する様々な方法が現れた。こうした展開全体を通じて、受験生の多様化および入試問題の長文化という外的変化の影響が見られることを指摘した。また、「受験英語」において様々な英文解釈法が生まれる原因として、予備校における講師間の卓越化競争の存在を指摘した。

予備校の教師なのに、研究論文まで出るって前代未聞でしょう?この論文にも書かれていますが、伊藤師英語の真髄は「構文主義」すなわち英文読解の手法を教えることです。今に至るまで、私の英文読解の基礎となっているのは伊藤師の読み方で、とにかく「文章の最初から訳を押していく」です(自分はフランス語学習もこの手法で踏破した)。英文和訳だと、倒置による翻訳もよく使われますが、伊藤師はそれを嫌いました。だってnative speakerは倒置なんてせずに読んだ順に理解していくのだから、日本人だってそうでないはずがないという理屈です。その訳が実に巧みで惚れ惚れとするものでした。ただ、伊藤先生が英語の全てに通じているかというとそうでもなかったです。再びお茶飲みwikiから引きます。

抑揚のまったくない特徴的な喋り方をしていた。

 師の存命中は、大島保彦師がよくまねしていたらしい。

  各クラスに一人は必ず師の物真似が得意な者がいた。「エハァン!」という師の独特な咳払いをいかに上手く適切なところに入れるかが鍵。

 英語の発音は完全な日本人英語であった。師自身も自覚しており、生まれた時代が悪かったといったようなことを著書の中で述懐している。

例えばWhatを「ウォット」と発音していた。

モノマネするほど彼のしゃべり方はおかしかったのかネ?確かに英語はいわゆる型どおりの日本人的棒読みで、発音もうまいとは言えなかった。しかし、伊藤師の学生時代敵性語だった英語を発音まで学ぶ機会はなかったでしょう。実地の英会話は別に自分で勉強すればいいのであって、自分はそっちは得意だったのでそんなことどうでもよかった。ただただ、精密に構文解析する技法が謎解きみたいでおもしろかったです。しかし、晩年は少し寂しかったようです。

雑談はほぼ挟まず、抑揚に乏しく終始淡々と授業を進める。

ので眠気を誘いやすい。

 また、授業内容も英文解釈教室他の著書と重複する。

 ヒデ師が言うには「授業はクソつまんなかった」そう。

 晩年は後期ともなると教室には空席が目立った。

まあ鈴木長十、奥井潔とも晩年の授業はあまりおもしろいとは言えず惰性を感じたので、同じようなことが伊藤先生にもあったかもしれません。また1990年代ともなると、受験英語の潮流も大きく変わり、長大な文章を速読し多数の質問に答える形式の入試も早慶、上智あたりで増えました。伊藤流の短くても手が込んだ精緻な英文を読み込む形式の東大型入試問題は時代遅れになったのかもしれません。ちょうどモームやハクスレーといった20世紀初頭のイギリス人随筆家の伊藤先生が得意とする文章が入試出題で廃れてきた時代です。


 伊藤先生が授業で使った文章はどれも東大入試で使われた文ですが、解説はそういった入試レベルの質問を超えていました。17世紀前半のイギリス人科学者フランシス・ベーコンについて論じた文章の解説では、「観察や実験で得た知見から帰納的手法で真理を引き出す」を解説してくれました。自然科学の研究では「仮説」を立てて実験をおこない、その仮説が果たして正しいかどうかを検証していきます。もし実験結果がそれに合わなければ、仮説をまた立て直していく。そういう繰り返しが近代の科学なのだと、伊藤先生は述べていました。高校レベルの理科の実験では、こういう仮説検証の理論は触れられません。また「真理とは多面体みたいなもので、光の当て方次第で見え方が異なってくる。そういう見える像の切り取りが科学の本質である」とも述べておられました。これまさに大学物理で習う量子力学の基本の考えです。明らかに大学レベル以上の科学哲学の考え方で、当時の僕には新鮮でした。


 伊藤先生は旧制第一高校の出身ですが、受験時の試験科目に英語がなかったのです。和歌山大学名誉教授の江利川春雄氏のサイトから引用します。

意外なことに、受験英語界の巨星となる伊藤自身は英語の受験勉強を経験していない。

伊藤が一高に入学した1944(昭和19)年は太平洋戦争末期で、敵国語である英語が入試から排除されてしまったからだ。

そのため、伊藤は学生時代には山崎貞や小野圭次郎などの著名な受験参考書をほとんど使っていない。

既存の参考書の影響を受けなかったことが、『新英文解釈体系』に始まる独創的な英語学習書を生んだ一因かもしれない。

そう自らは受験英語を経験してないのに、受験英語の神様になったのです。


記述者不明ですが、こんなブログもありました。

続・伊藤和夫はいかに英語を学んだか

2010-05-29 01:00:00

テーマ:コラム・雑感

1947年に伊藤氏は旧制一高から東大文学部哲学科に入学します。

いうまでもなく、旧制一高から東大に行くことは当時の超エリートコースでした。

今のエリートコースというと、たとえば開成高校や灘高校から東大に行くようなイメージがあるかもしれませんが、当時の教育制度を考えると、実際はそれをはるかに凌駕しています。

伊藤氏は「中学校でろくに英語をやらなかった」述べていますが、なぜそんなエリートコースに乗れたかというと、じつは入学試験に英語がなかったからです(翌年は入試自体がありませんでした)。

じつは伊藤氏自身は「受験英語」を体験していません。このことはのちの伊藤氏の活動に決定的なほどの意味があります。

伊藤氏の授業でかつて「大学に入ったら、英語で食べていきたい人は1万ページを目標に読むといい」と言っていたそうです。普通のペーパーバックだと30~40冊くらいの分量はしょうか。

みずからの体験からそれくらいを読めば大学を出てからもなんとかやっていけるくらいの英語力がつくと感じたのでしょう。

東大での伊藤氏について、前回引用したミヨシ氏は「おそらく彼は(東大)哲学科が生んだ最も優秀な学生の一人だった」と述べています。当然、大学に残り学者の道を選ぶつもりだったのでしょうが、悪性の結核を患ってしまい「ほとんど死にかけて」(ミヨシ氏)しまったそうです。


ただ、当時、進駐軍で働いていたミヨシ氏が抗生物質を横流ししてもらうなどして看病した甲斐もあって、危機を脱することができました。

大学生の伊藤氏は、授業にはまじめには出席せず、卓越した英語力で外務省の翻訳のアルバイトに明け暮れ、生活費を稼ぎ出していました。

また、アルバイトで塾講師をやったことで、英語を教えることのおもしろさに目覚めました。そして、体力の不安から大学に残るのをあきらめ、予備校講師の道を選びます。

そんなふうにして、予備校講師・伊藤和夫が誕生します。

旧制一高は今の東大教養学部に移行しましたが、はっきり言って一高の難しさは今の東大に入るより遥かに上だったのは、色々な証言から間違いありません。日本が戦争に負け、戦前の教育制度が根本から壊されてしまったので、伊藤先生は予備校などで教えていましたが、本来は旧制高校それも一高の教師こそがふさわしい人物だったと思います。我々が駿台で伊藤師から教わったのは、まさに戦前の旧制高校の授業だったのでないかと、今にして思います。得がたい経験だったと、改めて思います。


 しかし、伊藤先生にはお茶目な一面もありました。教壇に立って「昔の僕は痩せていたのに、最近はこうやって立つと、お腹がぽこーんと突き出てしまう。いくら努力しても治らない。これが中年になるということかな。」とぼやいておりました。確かにお腹が出ておりましたよ、師匠。丁度髪の毛も白髪が増えてきたころで、40代前半くらいでしたかね。こういうこともあったので、伊藤先生が怖いとか思ったことはなかったです。ただ質問に行くと結構厳しかったです。

 こんな紹介が2ちゃんねるにありました。

伊藤和夫という人


伊藤和夫師は趣味が囲碁ぐらいしかない上、独身で子供もおられなかった。 駿河台学園理事の報酬、駿台の指定教材として一定数毎年購入される著作、 一般受験生の購入で毎年数億の収入があったというが・・・。おそらく予備校講師でこんなに稼いだ人はいない。絶頂期の東進の女性古文講師が年俸3千万、 駿台は他の予備校とは違って年俸制ではないが71の入不二氏で1500万ぐらいで、 山口大助手で年収が1/3になったと聞いた。現在の代ゼミの有名英語講師が会社役員として節税後に受け取った所得は3500-4000万と推定されている。


はでなことは嫌いだが子供っぽいところ(純心)があった。数学者の 秋山仁さんとよく飲みに行った新宿歌舞伎町の奥の飲み屋があったが、信頼できる人にしか心を許さないところがあった。駿台に引っ張ってきた 故・奥井潔東洋大名誉教授(駿台非常勤講師)ら少数の優秀な講師と仲が良く まじめで勘の鋭い生徒を好んでいた。思慮の浅い質問を嫌う点は教師という よりは生真面目な作家的な印象。酒を飲んでご機嫌だとと箸で茶碗を叩き喜ぶが 会議などで機嫌が悪くボルテージが上がると机をドンドン叩いて怒る。 意外と喜怒哀楽は激しいが生真面目ゆえの行動。運転手つきの黒塗りの車で 駿台の地下駐車場に入りエレベーターには警備員がつき、大臣なみの扱いであった。 本人はどう思っていたのか?

ほー、秋山仁氏と伊藤先生は気が合ったのか。これは知らなかった、ちょっとびっくり!


 伊藤先生は今の英語早期教育に批判的だったのですね。こんな言行がXにあります。

「高校から大学受験の段階で日本語も満足に使えない多数の学生を放置して、小学校から英語を教えて子どもの『ゆとり』を奪うなど愚の愚である」(伊藤和夫『予備校の英語』)

これ、本当にそう思う。英語教育は必要だけど、その前にまず日本語でしょう。国語教育なくして外国語教育なしは、深く同意します。小学生に英語なんて必要ない。時間の無駄!


 伊藤先生は大腸癌で、1997年1月21日、御茶ノ水の杏雲堂病院で死去しました。享年69。今からみると随分早い死でした。杏雲堂病院は東大医学部の関連病院なので、伊藤先生を看取った医師はかつての教え子だったのでないでしょうか。


最期について幾つかのブログからエピソードを抜粋します。

伝説では、亡くなられる2~3日前まで病院のベッドで癌に苦しみながら、それでも参考書の執筆を継続されていたそうである。死が近づいたころ、愛弟子の入不二師が「死をどう感じられますか」と尋ねたところ「死は、凝固だと思う」とお答えになったそうだ。

 亡くなられる前日には、ナースの皆さんなど病院(お茶の水・杏雲堂病院)のスタッフを病床に集められ、丁重にそれまでのお礼と挨拶をされたという。

1月21日未明、当直の担当看護婦に「私はもう逝きます。大変お世話になり本当にありがとう。」衰弱と呼吸困難の中で丁寧に礼を述べ、数時間後に旅立った。 激情ともクールとも言われた伊藤の最後の言葉は極めて素直なものだった。 白い髪を大事に撫でてもらい、愛用のメガネを実妹にかけてもらう伊藤の姿に、 杏雲堂病院地下1階の霊安室を訪れた職員はじめ、いい大人たちが心から涙した。 逝去から6年後の昨年七回忌を終えた伊藤からは「そろそろ僕を忘れ去ること」という 卑屈とも言える言葉がそろそろとび出しそうだ。しかし伊藤を著作でしか知らない 受験生たちに今もこうして名前を挙げてもらえることは嬉しいだろう。あるいは無神論者に近い伊藤はもはや土に還元された、ただそれだけの「モノ」になったかもしれない。

蛇足ながら、終生独身を通した伊藤の逝去後に残された十数億円もの預金は、妹との連名で、看護学校の奨学金として赤十字に寄付された。伊藤の人柄が偲ばれる。

最後の奨学金は今もありました。

日本赤十字看護大学伊藤・有馬記念基金

学生奨学金 年額 200,000円以内(給付)

給付対象期間は当該年度限りとし、年度ごとに申請できる。所定の願書に基づき、経済的理由により修学困難な学生より選考し、授業料の一部として給付する。奨学金受給後、大学が指定する期日までに所定の書式により「報告書」を提出することが義務付けられる。 採用人数は、数十名程度(大学院含) 。


学生外国留学奨励金 年額 100,000円以内(給付)

給付対象期間は当該年度限りとし、年度ごとに申請できる。所定の願書に基づき、経済的理由により修学困難な学生より選考し、留学費用の一部として給付する。原則として留学前に給付する。留学終了後2ヶ月以内に所定の書式により「留学報告書」を提出することが義務付けられる。採用人数は、若干名(大学院含)。

なんとも言えない、単なる予備校教師ではない、まさに地上に降りた崇高な聖人みたいにすら思えます。でも、僕の予備校時代の友人に伊藤先生のことを話しても、「伊藤和夫?ああそういう教師もいたよな。」で終わり。軽く済まされてしまいました。でも最近になっても、色々なブログで繰り返し伊藤和夫のことが語られています、主に予備校教師の方々ですが、伊藤先生はわかるひとにはわかる「忘れ得ぬ人」だと感じます。「予備校なんて受験が終わったら所詮どーでもいいのよ」なんてうそぶく人は、自分の人生と直に向き合ってない。結局「どーでもいい人生」で終わるんじゃないかな。



伊藤和夫スレ

日常考えたことを書きます