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「モッキンポット師の後始末」 〜このひとがモデルだったのか

井上ひさしの「モッキンポット師の後始末」は、高校時代に読みました。井上ひさしの自伝をある程度反映しているものと言えますが、主人公が上智大学(S大学と表記。上智=Sophia Universityだから)に入学してからモッキンポットという神父と出会い、抱腹絶倒の大学生活を送ったことが記されています。最後は学生のせいで大学を辞することになってしまったモッキンポット神父が気の毒でした。


 その時「このモッキンポット神父にはモデルがいるんだろうな。でも直截に書くと差し障りがあるから、ぼやかしたり何人かの先生を重ね合わせてつくった創作の人物なんだろう。」と思いました。ところがそうでなかったようです。今読売新聞の「時代の証言者」では上智大学学長を務めた石沢良昭氏が連載しています。昨日から上智大学に進学し、フランス語学科でフランス語の修練に明け暮れた話になっています。その中でフランス語学科の教授でもあったポール・リーチ神父との出会いが書かれています。石沢氏は上智大の学生時代、井上ひさしの1学年下だったそうですが、「モッキンポット師の後始末」はこのリーチ神父をモデルとして描かれたと述べていました。そうだったのか!


 明日以降もこのリーチ神父との出会いについて話の続きがありそうですが、フランス語の教授に関しては大変厳しい先生だったようです。本日の「時代の証言者」の引用です。

私が入学した1957年当時、先生は40代半ばでした。ドイツ占領下にあったアルザスで生まれ、第2次大戦では自由フランス軍の従軍司祭として北アフリカに赴任し、独軍と戦った。レジスタンスを率いてフランス第5共和制の初代大統領になったドゴール将軍の信奉者。「ドゴール以外は政治家じゃない」というのが口癖でした。


 神父さんなので指導はとても厳格でした。つばがかかるほど顔を近づけて発音を直されました。試験の合格ライン60点に1点でも届かなければ、容赦なく落第させられました。仏語学科の同級生は当初40人余りいましたが、卒業できたのは半分でした。

 それでも、リーチ先生はいつも陽気で談論風発、親身に相談に乗ってくれるので、みんなが慕っていた。学科の1年先輩井上ひさしさんもその一人でした。3、4年生の合同授業「フランス演劇史」などで、一緒に机を並べてリーチ先生の講義を聴きました。

なるほど。

井上さんは上智大を卒業した後、「モッキンポット師」が主人公のシリーズを発表しました。カトリック学生寮の学生3人組が騒動を起こすたび、お人よしの神父モッキンポット師が尻ぬぐいに奔走する――。そんな底抜けに明るいコメディー小説です。


 神父はS大学仏文科の教授という設定です。Sは「Sophia University(上智大)」の頭文字。神父のモデルはリーチ先生でした。「 天狗 鼻」という顔の特徴やしぐさ、神父の部屋のなかの描写が一致していました。

モッキンポット師も大声で議論して唾をまき散らし、鼻水を盛大な音を立ててかみとか、なんか汚らしい先生ダナと思って読んだ憶えがあります。でもすごい熱血漢の先生です。今時こんな大学教授、いや神父はまずいないでしょう。


 上智大学は井上ひさしの時代の1960年代と違って、今は洗練された雰囲気です。上智大が早慶上智と難関大の扱いになったのは、1970年代後半からです(今は早慶上理で東京理科大も浮上したようですが)。1980年前後、上智大外国語学部は早稲田や慶応の文学部より難しかったです。今はそれほどではないようですが、もうモッキンポット師の時代のような破れかぶれの学生や教師はいないでしょう。


 訂正:
今駿台全国模試の偏差値を調べたら、上智大外国学部を調べたら早稲田や慶応の文学部より依然として上でした。上智大文学部は早慶よりやや下ということです。


「モッキンポット師の後始末」井上ひさし 講談社文庫 1985.1