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大学教養課程はムダなのか 〜好対照な2人の銀行経営者

大学教養課程はムダなのか 〜医学部の場合
新理系エリート」 〜高専から東大・京大への進学(6)


以前のブログで、医学部の教育課程で6年制をやめて4年制とし、教養課程なんてやめてしまえという議論を扱いました。いやー、もう滅茶苦茶な議論だとあの時思いましたが、最近日経の「私の履歴書」を読んでまた思い出しました。


 1人目は10月掲載の「履歴書」で、住友信託銀行の社長を務めた高橋温(あつし)さんです。高橋温さんは県立盛岡第一高校を卒業して1浪後、1961年に京都大学法学部に合格します。待望の京大入学ですが、いきなりこんなことを述べています。

「自由の学風」を創立から継承してきた京都大学には愛着が深い。1961年春、1浪して法学部に入学した。

京都と京大への思い入れは今も深い(平安神宮で)

京大(旧京都帝国大学)を志した思いの一つに、この大学が戦前直面した「滝川事件」を知り、感銘を受けたことが影響している。

今から90年前の33年、京都帝大の滝川幸辰教授(刑法)の学説が「マルクス主義的であり、国家思想の涵養(かんよう)義務に反する」との理由で、当時の鳩山一郎文相(戦後に首相)が同教授に休職処分を科した。

これに法学部の全教授が「学問研究の自由と大学自治への侵害」として猛反発し、一斉に辞表を提出する事態に発展した。

昨今の京大生が、この歴史を知っているのかどうか。あるいは関心があるかさえもわからない。だが私は戦後学生のひとりとして一連の経緯が心に深く刻まれた。

大学4年間、下宿生活したのは大学至近の吉田郵便局長宅2階の1間だ。当時の京都の下宿は食事がついていないのが普通であったが、近くに学生向けの食堂が沢山(たくさん)あり大した不便は感じなかった。

下宿先には歴代下宿生の名簿が残されており、そこには末川博という名前が記されていた。滝川とともに京大を辞めた教授のひとりであり、のちの立命館大学総長。学問の自由を大切にする学びの都の有り様(よう)をヒシヒシと感じた。

では私自身が京大が培ってきた伝統を体現するような学生だったのかというと、そこは相当に心もとない。

入学から2年間に及んだ教養部のカリキュラムには失望した。私はすぐに専門的な法学の勉強に取り組みたかったのだが、必修だったサッカーや陸上競技などの体育授業、大教室・大人数での一般教養科目の講義はどうにも性に合わず、高校授業の延長線にしか映らなかった。「教養」などと大層に名付けた課程を戦後各大学に設けたのは、占領軍の指導に基づき行われた、大学改革の一環だった。

教養部の講義にはあまり興味を覚えなかった。とはいえクラス分けの結果として、半世紀にわたる友との知己を得たのは幸せだった。

法学部の1、2回生は、英語に次ぐ第二外国語を基準に5クラスに分かれていた。戦前から学問にはドイツ語が多く取り入れられており、とりわけ法学ではその色が濃かった。だから5クラスのうち4つまでがドイツ語と大勢だ。

ところが私が選んだのはフランス語。だから「J(法律)5」。このクラスの略称は今も通用する。

〜以下略

いやもう、びっくり。あからさまに教養課程の教育を否定しています。それに対する私の考えは後述するとして、さてもう一人の銀行経営者は、日銀総裁だった黒田東彦さんです。11月の「履歴書」を担当しましたが、東京教育大学附属駒場高校(今の筑波大附属駒場高校)を卒業して、現役で1963年東京大学教養学部文科一類に合格しています。文一に入学後の駒場の教養学部の生活で、こんなことを述べています。

1963年4月に東京大学教養学部に入学し、ドイツ語既習クラスに入った。高校の時にドイツ語を少し学び、マルクスやポパーの原書を読んでみたいと思ったからだ。

一時は法曹を目指した(法学部でお世話になった碧海純一教授)

担任教授は小宮曠三(こうぞう)教授。夏目漱石の弟子で「三四郎」のモデルになった小宮豊隆教授の子息だ。ゲーテやシラーの文章より、マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」を1学期かけて読ませたり、独紙「フランクフルター・アルゲマイネ」の切り抜きを教材にしたりと、日常で使うドイツ語の理解に力を注いでくれた。

ドイツ語既習クラスは文科1〜3類で合計20人足らずだった。本当にできたのは戦前から独語教育を実施した松本深志高校の卒業生だけだ。

その典型が稲川照芳君だ。外務省に入省し、独語を話す「ドイチェ・シューレ」として活躍してハンガリー大使になった。小宮教授の後押しもあり、ドイツ語既習クラスは駒場祭でデュレンマットの「物理学者たち」を原語で演じた。ほとんど聴衆がいなかったのが残念だったが。

1〜2年の駒場キャンパスで興味深かったのは大森荘蔵教授の科学史だ。古代ギリシャの原子論から現代の量子力学や生化学まで、科学史を大森哲学で切る。「なぜ赤い花が見えるか」の話は秀逸だ。

現代科学では、赤い光を反射した光が網膜に像を結び、視神経から脳の視覚野に情報が伝わるとする。しかし、目や脳の中に映像らしきものがあるだけで、赤い花がそこにあると説明できない。科学による説明と我々の実感は重なり合うが、それはあくまで別物である。大森哲学は「立ち現れ一元論」だ。

もう一つ、深い興味を抱いた講義が、碧海(あおみ)純一教授による法学概論だった。「法とは何か」「法の定義」「法の解釈」などの基礎的な法知識を教える際に、ラッセルやポパーなどの分析哲学の手法を駆使して快刀乱麻で回答を見いだす。両学者の論理学や哲学は私も勉強したものの、法学の根本問題がそれで鮮やかに解決されることに感激した。

本郷キャンパスの法学部でも、碧海教授の法哲学の講義やゼミに参加した。後に東大教授となる長尾龍一助教授らと、正月に自宅に呼ばれるようになった。法哲学の研究者になれればと思っていたが、碧海教授から助手の誘いはなかった。「黒田君が大蔵省(現財務省)を志望していると聞き、声をかけなかった」と、のちに教授から言われた。

〜後略

黒田さんが東大教養学部で好奇心を発揮して、自然科学にもいろいろな関心を抱いたことがよくわかります。


 よく大学の教養課程は高校授業の延長で意味がないという議論を聞きますが、そうなのかな?高橋温さんの記述で昔の京大の教養では体育が必修だったとわかりますが、息子に聞いたら今の京大では体育は必修でなく選択科目だそうです。息子は高校の部活から継続してスポーツサークルに入ったこともあり、教養で体育はとらなかったと言ってました。本当か!私が卒業した慶応義塾大学では全学部体育が必修でした。これは昔の塾長・小泉信三がスポーツを非常に重視したからで、「スポーツが若者に与える3つの宝」として、「練習は不可能を可能にするという体験を持つこと」「フェアプレー精神の体得」「友を得ること」の3点を挙げています。私にとって慶應での体育は非常に楽しかったです。周年でおこなわれる「通常体育」で剣道したり走ったりも良かったですが、何と言っても「選択体育」でしたね。これも必修ですが、塾体育会が指導する30以上の種目から1つ選び、夏か冬の休暇期間中に履修します。「スキー」は非常に人気が高かったようです。ヨットや水泳もありましたが、私は「ボート」を選びました。戸田の競艇場まで毎日通いましたが、今思い出しても良い思い出です。普通の大学生にはなかなか体験できない特殊なスポーツも知る事が出来て、また体育会の運営も知る事ができます。将来社会人として働く前に得がたい機会を与えてくれたと、今でも慶應に感謝しています。


 しかし、「これぞ大学教養課程の特質」というのは何かと問われたら、文理共通なら私は「語学」を挙げたいです。黒田さんみたいな高校時代にドイツ語を専修した特別な高校生は別ですが、普通は大学に入ってから第2外国語として英語以外の言語を学びます。私はフランス語を選びましたが、今に至るまで大学時代に身につけたフランス語は自分の生活の根幹を成しています。この語学重視の大学教養教育は旧制高校時代以来の伝統で、欧米にはない学修です。要するに明治時代まだ遅れていた日本の大学教育レベルを飛躍させるのに、欧米語で書かれた当時の先端的な教科書を学習することがマストだったからでしょう。じゃあ、大いに発展した今の日本の大学なら基本日本語だけで十分で、ただ研究論文を書ける程度の英語力があれば語学は十分なのでしょうか?ヨーロッパで仕事をするようになると、母国語と英語以外の言語は全然知らないという知識人は稀であると知ることになります。ヨーロッパを中心に世界と渡り合うには、母国語と英語以外に何かもうひとつ違う言語の知識をもち、そこから得る教養を身につけていることは今も非常に重要です。上記の高橋温さんがやたら大学の教養教育を否定するのは、その後の人生で一度も日本を離れて働いた経験がなくて知らないからでしょう。もしそういう経験があったら、大学時代の自分の不明を恥じたと思います。その点黒田さんは国際畑が長く、おそらくそういう語学の重要性もよくわかっているのでないでしょうか。語学に堪能な人を「語学使い」と呼んで口先だけで渡っているかのように馬鹿にするひとが時々いますが、決して軽視すべきでありません。