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東京医科歯科大学(5) 〜戦後の新制大学設立

東京医科歯科大学(1)〜この大学ができるまで
東京医科歯科大学(2)〜東京高等歯科医学校(旧制)
東京医科歯科大学(3)〜医専の成立過程
東京医科歯科大学(4)〜M君のこと
鹿島海軍航空隊跡地 〜医科歯科大霞ヶ浦分院にも転用された


このシリーズは随分時間が空いてしまいました。第二次大戦後の学制改革を調べるのに相当時間がかかったためです。特にGHQのサムス准将は日本の医療改革の一環として、医科大学の再編にも重要な貢献をしておりますが、実に複雑な動きがありました。サムス准将(Crawford F. Sams)に関しては別項も設けて触れていきたいと思います。


 第二次大戦後アメリカ軍を中心とするGHQは学制改革にも乗り出します。日本の軍国主義の原因は教育体制にありということで、特に旧制高校や帝大は軍国エリート養成の根源として標的になります。そして初等教育から高等教育に至る大規模な教育体制の変更となりました。新制大学に関しては、旧制大学以外に旧制高校や予科相当の高等専門学校や専門学校、さらに旧制中学相当だった師範学校まですべて「新制大学」に組み込まれていきました。


 旧制高校や大学予科はもともと高等予備教育担当だったので、旧制大学との合体はそう問題なかったと思います。しかし、それ以外の学校の大学昇格には相当な困難がありました。というのもGHQが重視した高等予備教育はこれらの学校になかったからです。東大は旧制高校とだけ(一高や東京高校)、京大は三高とだけ合併しましたが、他の帝国大学(北海道大、東北大、名古屋大、大阪大、九州大)は旧制専門学校なども併合して新制大学になりました。旧制単科大学では、岡山大や新潟大、金沢大、千葉大、熊本大、長崎大などの旧六医科大学もこの道を選び総合大学に移行しました。しかし、その中で師範学校も併合して教育学部とした点が旧帝国大学と異なります。これらの大学の師範学校から移行した教育学部は主に小中学校の教員を養成する学部で、「教育学」という学問研究をするために設置された旧帝大系の教育学部とはあらゆる面で異なっていました(*)。師範学校はさすがに帝大との合併は学問レベルが違いすぎて難しく、旧帝大があった都道府県の師範学校は「学芸大学」という名称で独立の新制大学になりました北海道・宮城・東京・愛知・京都・大阪・福岡にある単科の教育大学(当時は学芸大学)がこうして成立しました。学芸とはliberal arts and sciencesの直訳でアメリカの4年制教養学部単科のcollegeをイメージしたのでしょうが、大学院進学を前提としたcollegeを小学校教員養成の師範学校が模倣するのは如何にも無理がありました。今でもその名称を残すのは東京学芸大学ですが、他の「学芸大学」はその後すべて「教育大学」に名称変更しました。東京学芸大学だけなぜ残ったのかというと、東京高等師範などから新制大学に移行した東京教育大学が先にあったからです(東京教育大はのち筑波大学に移行)。師範学校の教員は新制大学教員審査に合格しない者も少なくなく、代わりに旧制中学の優秀な教員が採用されたようです。新制大学に移行できなかった師範学校の教員はその後どうしたのでしょうか。中には悲観して自殺した者もいたと聞きます。これと似た現象は国公立大の附属医療系専門学校や短大が4年制大学に格上げになった2000年代にもありました。特に看護学科では4年制大学移行への教員審査に通らず、退職した教員も少なからずいたようです。この時も、悲観して自殺した教員がいました(訂正あり:2024年2月3日)。


 さて東京医学歯学専門学校でも問題となったのは高等予備教育課程で、1945年には早くも予科設置に動き出します。これには東京医学歯学専門学校の医学科存続にGHQのリッジレー少佐(D. B. Ridgely)が反対だったこともあるようで、格上げに焦ったのでしょう(医専の新制大学医学部への転換は後述)。また特に歯学科について旧制高校からの志願者がいない可能性も当時の長尾校長が危惧しており、歯学科に進学する学生確保も目論んでいたようです。そのため敗戦直後の1945年年末、早くも予科の設置申請をおこない許可されました(旧制専門学校のままで)。東京医学歯学専門学校の予科が設置された場所は、東京から遙か彼方の茨城県稲敷郡安中村(あんじゅうむら)(現在の美浦(みほ)村)大山でした。ここは特攻隊養成もおこなった日本海軍の鹿島航空隊基地の跡地で、それを利用しました。当時この予科は全寮制だったようですが(そりゃそうだ、田舎すぎて通いなんて絶対に無理)、長尾校長はそれもアメリカの伝統ある寄宿舎付きのcollegeみたいで良いことだと思ったようです。この予科は新制大学に移行して医学進学課程という扱いになりますが、千葉大学の学部編成と複雑な関係があります。それはこの予科が高等予備教育課程がなかった千葉大学に一部拝借される型になったためです。この件は次項で触れます。東京医科歯科大学は1958年に自前の教養課程を新たに市川市国府台に設置して、ようやく新制大学として完全に自立します。なお茨城県稲敷郡の予科があった土地にはその後医科歯科大医学部附属病院の分院がつくられましたが(東京医科歯科大学霞ヶ浦分院)、後年廃止されました(あまりに不便すぎる)。今は更地となって地元に移管され、「大山湖畔公園」となりました


 前のパートで述べたように、第二次大戦直後全国には軍医養成のための医専や臨時医専が相当数ありました。これらは明治時代から大正時代にあった医専で、その後旧制医科大学に昇格した旧六(千葉、新潟、金沢、岡山、長崎、熊本)や私立3医大(慶應義塾大、日本医大、慈恵会医科大)とは、まったく異なります。医科歯科に関していうと、まず1944年に東京高等歯科医学校に医学科ができて歯学100人医学100人の定員となりました。さらに歯科医に対して2年の教育で医師資格を与える編入科(80名定員)もつくられました。こういった大幅に多い学生数に対して、東京医学歯学専門学校の学校や病院の設備、教員の質や数は貧弱でした。全国の医専は、GHQの指示でA級校とB級校に選別されました。A級校は旧制大学医学部に移行する、すなわち存続を認められましたが、B級校は廃止の運命でした。先ほどの話は東京医学歯学専門学校の医学科がA級校になれるかどうかの瀬戸際だったことを暗示しています。結局A級校に残留し新制の東京医科歯科大医学部および歯学部となりました。医科歯科はこの時大学医学部に昇格した他の国立7大学医学部とともに、旧帝大、旧六医大につぐ「新八」(新制国立8大学医学部)と呼ばれるクラスになります(現在の医科歯科、弘前、群馬、信州、鳥取、広島、徳島、鹿児島の各大医学部)。


*サムス准将の回想によると、帝国大学の医学部と旧制医科大学の間でも設備や教育・研究体制に格差があったと述べており、旧制医科大学は帝国大学よりレベルが一段低かったと書いています。旧制医科大学は旧制大学令で帝大と同じ格付けとされてはいましたが、内情はそうでなかったようです。