gillespoire

日常考えたことを書きます

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

千葉大の学長選考3 〜学長候補たちと「白い巨塔」のモデル

千葉大の学長選考1 〜大学の学長はどう決めるべきなのか?
千葉大の学長選考2 〜千葉大文学部の反応と学費値上げ
千葉大の学長選考4 〜国立大学の受益者は誰なのか


千葉大の学長選で、教職員(教員だけでなく職員も入っていた)意向聴取で第1位となった山田賢氏はどういう方でしょうか。はっきりした略歴がなかなかわからないですが、2023年9月に開催された「千葉DX推進プログラム」で一端が掲載されていました。

山田賢 千葉大学副学長(教育・産学連携)・人文科学研究院 教授

北海道大学文学部卒業、名古屋大学大学院文学研究科修了。北海道大学文学部助手、千葉大学文学部助教授を経て現在、千葉大学人文科学研究院教授。その間、千葉大学文学部長、理事(広報・情報担当)等を経て、現在副学長(教育・産学連携担当)。専門は中国史、東アジア比較史、著書に『移住民の秩序』(名古屋大学出版会、1995年)、『中国の秘密結社』(講談社、1998年)、など。

北大文学部を卒業して、近代中国史を専門としています。山田氏が研究する中国の秘密結社というと白蓮教が有名ですが、白蓮教の流れは中国王朝の変遷に何度も影響しています。歴史学上なかなかおもしろい視点ですし、これからも似たような集団が中国に登場する予感ががしますね。いずれにしても、山田氏は自身の研究だけでなく、大学全体の運営にも関わってきました。しかし、以下の他の2候補と比べると地味な印象です。


 第2位となった横手孝太郎氏はどういう経歴なのでしょうか。

千葉大学大学院医学研究院 内分泌代謝・血液・老年内科学 教授 

千葉大学医学部附属病院長/千葉大学副学長



1988年、千葉大学医学部医学科卒業、同第二内科入局。東京都老人医療センター医員、ルードウィック癌研究所(スウェーデン)客員研究員などを経て

2009年より千葉大学大学院医学研究院 細胞治療内科学講座教授、千葉大学医学部附属病院 糖尿病・代謝・内分泌内科 科長。2011年、千葉大学医学部附属病院 副病院長 併任。

2015年、千葉大学大学院医学研究院 副研究院長併任。

2019年、研究領域名変更に伴い、内分泌代謝・血液・老年内科学教授。2020年、千葉大学医学部附属病院 病院長、千葉大学 副学長。

となっています。研究の課題は内分泌学で、特に肥満と成人病の関係です。医学部の常ですが、肩書きが多いです。

日本動脈硬化学会 認定動脈硬化専門医・理事・ガイドライン作成委員会副委員長など

日本臨床分子医学会 理事

日本老年医学会 理事

日本糖尿病学会 学術評議員

日本肥満学会 認定肥満症専門医・理事

日本内科学会 評議員

日本内分泌学会 評議員

日本糖尿病合併症学会 理事

日本肥満症治療学会 監事

日本臨床栄養学会 理事

日本分子生物学会 会員

米国糖尿病学会 会員

ECFMG Certificate (No. 419-336-3) 取得

最後のECFMGはアメリカで臨床医として働く時に必要な資格で、英語で医学試験をおこないます。


 三番手だった松原久裕氏は横手氏と同じ医学部出身で、2学年下です。

千葉大学 大学院医学研究院 先端応用外科学 教授
千葉大学 医学部附属病院 副病院長


1984年03月 千葉大学医学部卒業
1984年06月 医員(研修医)(千葉大学医学部附属病院第2外科)(1985年3月31日まで)
1991年03月 千葉大学大学院医学研究科博士課程(外科系)修了
1996年08月 文部教官 千葉大学助手医学部附属病院(第2外科)
2000年01月 文部省在外研究員(University of California, San Diego及びJohns Hopkins University外科)(2000年10月31日まで)
2002年07月 文部科学教官千葉大学講師大学院医学研究院(先端応用外科学)
2003年06月 文部科学省研究振興局 学術調査官兼任(2006年7月31日まで)
2007年10月 国立大学法人千葉大学教授大学院医学研究院(先端応用外科学)
2013年04月 千葉大学医学部附属病院 副病院長
2014年05月 独立行政法人日本学術振興会 学術システム研究センター専門研究員(2017年3月31日まで)
2021年4月より大学院医学研究院長・医学部長。

こちらは肩書きがさらにすごいです。

日本外科学会:次々期会頭 代議員

日本医療安全調査機構:医療事故調査・支援事業運営委員会委員 再発防止委員会委員長

日本食道学会:理事長

NPO法人国際食道疾患会議:副理事長

公益財団法人中山がん研究所:理事

日本肥満症治療学会:副理事長 外科部会長

日本癌病態治療研究会:理事長

国際外科学会日本部会:理事

日本消化器癌発生学会:理事 評議員

日本バイオセラピィ学会:理事 評議員

日本コンピュータ外科学会:理事 評議員

日本神経内分泌腫瘍研究会:理事

日本消化器外科学会:評議員 評議員選出委員会委員

日本臨床外科学会:常任幹事 評議員 利益相反委員会委員長

がん集学的治療研究財団:臨床研究開発・推進委員会幹事会幹事

日本癌治療学会:代議員 関連学会連絡委員会委員 領域横断的癌取扱い規約検討委員会委員

日本胸部外科学会:学術集会委員会委員

日本消化器病学会:関東支部幹事

日本癌学会、日本胃癌学会、日本腹部救急医学会、日本Acute Care Surgery学会、小切開・鏡視外科学会、日本消化管学会 以上 評議員/代議員

大腸癌研究会、手術手技研究会、日本癌局所療法研究会、癌免疫外科研究会、胃外科・術後障害研究会、臓器不全患者に対する外科・管理研究会、以上 世話人 千葉県がん診療連携協議会:委員 地域連携クリティカルパス・臓器別腫瘍専門部会部会長

胃がん部会委員長

松原氏が千葉大第2外科の出身で思い出したのは、昔千葉大第2外科教授を務めた、中山恒明(なかやまこうめい)氏です。

中山 恒明(なかやま こうめい、1910年9月25日 - 2005年6月20日)は、日本の外科医、外科医学者。


食道癌の世界的権威であり、食道外科で独自の手術法を確立したことで知られる。2011年に制定された千葉大学大学院医学研究院・医学部のシンボルマークにある「begin.continue」は中山語録が由来。アメリカのLIFE誌に邦人としては最も早い時期に掲載され、世界的な外科医として広く知られている。

中山恒明氏は食道外科の権威として、私が学生のころもその名は轟いていましたが、最近知ったのは山埼豊子の有名な小説「白い巨塔」のモデルだと言われていることです。「白い巨塔」の舞台は「国立浪速大学」ですから、当然大阪大学医学部のことかと思っていました。中山恒明氏の教授就任は、東大閥を押しのけてで、その点が「白い巨塔」の財前五郎と似ています。

教授就任の背景

昭和22年、1947年、36歳で第二外科教授となった。千葉医大生え抜きとして初めての教授就任であった。千葉医大はその前身の千葉医専の時代から、典型的な東大医学部の植民地であった。主任教授はすべて東大医学部出身者で占められていた。

これは知らなかった。戦前の千葉医科大学は旧六(旧制六医科大学)のひとつとして歴史があり、戦後すぐの時代でも内部で昇任してきた教授も結構いたのかと思っていました。


 「白い巨塔」の浪速大学でも東都大学(実質東京大学ですが)出身の東教授が、次期教授候補として鼻息の荒さを隠さない浪速大学医学部生え抜きの財前助教授を不快に思うところから始まっていました。

食道噴門癌の手術を得意とする国立浪速大学第一外科助教授・財前五郎は、次期教授を狙う野心に燃える男である。一方、財前の同窓である第一内科助教授・里見脩二は患者を第一に考える研究一筋の男。

食道噴門癌の若き権威として高い知名度を誇る財前の許には、全国から患者が集まってくる。その多くは、著名な有力者やその紹介の特診患者など、金を貢いでくる成功者たちであった。

その卓越した技量と実績に裏打ちされた自信と、野心家であくが強い性格の持ち主である財前を快く思わない第一外科教授・東貞蔵は何かにつけて財前に苦言を呈する。

食道外科という設定が、まさに中山氏と同じです。しかし、ある事件で、中山氏は千葉大教授を辞して東京女子医大に移りました。岡山大学大学院保健学研究科 副研究科長 教授の齋藤 信也氏のブログから引用します。

年配の医師、特に外科医にとっては「中山恒明」という名前は、食道外科の先駆者として特別なものである。かの「白い巨塔」の財前五郎のモデルの一人とも言われている人物である。


この中山先生が千葉大学教授時代に、ニセの診断書を書いたことで、同大学をクビ(正確には自主退職)になり、東京女子医大に移ったというスキャンダルを覚えている人も少なくなった。その際に、東京女子医大の消化器病センターに引き連れていった彼の弟子たちが、我が国の食道外科や肝胆膵外科をけん引したことを考えれば、「災い転じて福となす」といったところであろうか。


千葉大ニセ診断書事件

さてそのニセ診断書事件の顛末である。


中山医師は、食道がんで死亡した患者の内縁の妻から、死亡診断時刻を遅らせてくれるよう依頼され、実際の死亡時刻よりも18時間遅い死亡時刻を記した虚偽の診断書を発行した。当の(内縁の)妻はそのタイムラグを利用して、婚姻届けと子供の認知届を提出した。これは当時5億円ともいわれた遺産相続に大きな影響を与えるものであり、不審に気付いた警察の捜査により、ニセの死亡診断書事件が発覚したものである。


いやはや何とも言えぬ事件であるが、これが単なる町医者ではなく、非常に高名な医学部の教授がニセの診断書を発行したということで、大きなセンセーションを巻き起こしたのである。

確かに死亡診断書に事実と異なる記載をしたのは不正ですが、これはその「内妻」にうまく欺された結果とも見え、中山氏は図らずもそれに加担してしまったようにも見えます。しかし、この事件は伏線があったようです。ちょっと長くなりますが、別のブログ「つぶやき通信」にこの辺の経緯が、くわしく記されています。1964年10月7日といえば、東京五輪開催の直前です。

昭和39年、1964年10月7日、千葉市亥鼻町にある千葉大学医学部には異様な雰囲気が満ちていた。この医学部の看板男と自他ともにも許す第二外科(中山外科)の主任教授、中山恒明博士が遂に辞表を提出するというニュースが伝わったからである。


 「いや、ゆうべ提出したんじゃないか?」


 「そうじゃない、昨夜は中山外科の大西医局長を通じて、口頭で辞意を表明しただけだろう」


 「ちがうよ、中山さんは直接、学長に辞表を提出したんだけど、滝沢医学部長がなぜ俺を通さないと怒ってムクれて、中山さんが直接、謝罪に来るまでは正式に受け取らないと言って学部長室で頑張っていたという話だ」


 「中山さん、出てくるかどうかな、今朝、暗いうちからもモータボートを飛ばして海に出たままかえっていないと云うじゃないか」


 外来患者の診察や治療を終えた若い医師たちは、医局や研究室でヒソヒソ話していた。教授たちは白衣を背広に着替え、緊張した顔で会議室にはいっていった。


 今年、1964年1月、突然表面化した「ニセ死亡診断書事件」がここまで発展したのである。その内容については後述だが、4月はじめ、この事件の関係者が警視庁から検察庁に書類送検されてから、世間ではもう無関心になった事件だったが、それが9月下旬になってまた、ぶり返してきたのである。


 警視庁の取調べ中は、関係者は皆、任意出頭、身柄は拘束なしだったが、9月29日早朝、東京地検特捜部は中山外科の前の医局長、鋤柄秀一講師58歳を逮捕、また10月5日には山本勝美助教授38歳、矢沢知海講師38歳の二人も逮捕したのである。東京五輪報道に湧く新聞紙面デコのニュースを伝える一部分だけが暗い影を投げかけていた。


 教室の主要スタッフ3人が逮捕され、主任教授の中山恒明の辞任も噂されていた。6日夕刻から7日正午頃まで、あれこれ流言、憶測が飛び交い、中山恒明氏は7日午後1時半からの教授会で5分遅れで出席し、正式に辞表を提出し、滝沢医学部長がこれを受け取った。

なぜ医学部長の滝沢氏はすんなり中山氏の辞表を受け取らなかったのか?またなぜ一度終息しかかったこの事件が蒸し返されたのか?「つぶやき通信」から引用します。

中山恒明は明治43年、1910年、東京神田の内科医の家に生まれた。旧制新潟高校から千葉医大に進み、昭和9年、1934年に卒業、直ちに故瀬尾貞信教授の門下に入り、外科医としてスタートした。瀬尾教授は生涯独身で通し、生活の全てを外科学の研究と治療に注いだ変わり者であり、弟子たちへの教育も厳しかった。一度でも失敗をすると数ヶ月は一切、声をかけてくれなかった。このため瀬尾教室に入ろうとする新米医師はごく少なかった。中山恒明はそこにはいり、10年あまりの徒弟生活を送った。


 昭和16年、1941年、中山恒明は瀬尾教室の助教授に昇進した。そのころ瀬尾教授の指導で完成したのが「動脈注射療法」であった。注射でリューマチなどを治療の際に、従来の静脈への注射では薬は一旦心臓に戻り、全身に散ってしまうから治療部位へとどく量は限られる。それを患部に直接到達の動脈に注射すれば濃いままで到達できるというアイデアである。


 この療法は薬の乏しかった戦時下では効果はあって全国の、また占領地の病院で採用された。だが戦後、豊富に薬が出回ってくると廃れていった。だが戦時下では優れた研究とみなされ、昭和19年、瀬尾氏に朝日賞が授与された。中山恒明が手がけた研究のまずは成果だった。


 昭和22年、1947年、亡くなった瀬尾教授の後をついで中山恒明が教授に就任した。千葉医大出としては初の臨床の教授となった。千葉医大は前身の千葉医専時代から東大医学部の植民地として知られていた。主任教授は全員東大医学部出身者だった。その植民地状態から徐々に母校から教授になっていくという、いわば民族主義の動きは全国の旧医大でもじわじわ広がった。

民族自決の先陣を切って、中山氏は弱冠36歳で千葉大教授になりましたが、無理もしたようです。

だから中山恒明は矢継ぎ早に新たな研究を繰り出した。「頸動脈毬切除による気管支喘息の治療」、「中山式胃切除術」、「アイソトープ使用による消化器癌早期診断」、「中山式胸部前胃吻合術」、「食道癌における放射線療法」、「中部食道癌三分割手術法」など。


 「学会に発表前にマスコミに流す」、「中山の云うことは本当のことでも大ボラに聞こえる」などと陰口を叩かれながらでも、ますます気炎を上げ続けた。


 売名家の声も多い。中山恒明の業績は、学会から評価されるものと、まったくデタラメとしてこき下ろされるものがある。前者は主に食道や胃の手術の改良である。「中山式胃切除術」はその例であり、胃がん手術では切り取った後、腸と縫い合わせる場合が多いが、胃も腸も腹腔内でブラブラしていて縫合が破れ、腹膜炎を起こしやすい。それを防ぐために位置を固定している膵臓に胃を縫い付けてから腸とつなぐ。その成功率は比較的高く、広く普及しているとされる。


 食道癌手術の後の「胸壁前胃吻合術」も中山恒明の傑作であり、食道の、胸腔内を通る部分に癌ができた場合、胸を切開して癌を切除するが、その後では食道と食道の縫合が不可能であり、普通、食道を胃まで引っ張って縫い合わせる。がこれでは縫合が破れたら食物が胸腔内に出て死亡する事が多い。胃を無理に引っ張り上げずに、胸部の外側、つまり胸の皮膚のすぐ下にトンネルを作って、胃と食道をつなぎ合わせる。こうすれ縫合が切れても皮膚だけをまた切って繋げばいい。


 だが酷評される術も多い。頸動脈毬を切り取れば気管支喘息が治るという説は戦後、中山恒明が発表し、話題をまいた、だが事実か疑問視され、理論の裏付けもなく消えてしまった。またアイソトープのリン32を使っての食道癌、胃がんの早期診断も追試してもだれもうまくいかず、葬りさられた。


 頸動脈毬切除術が叩かれても「あれはまあ、人騒がせだった」

と放言した。


 「千葉大なんか小さいでしょう、なんでもオーバーに云わない

と、みんな東大に取られちゃうじゃないか


 その心意気は良しとしても、中山恒明氏の言動が、「銀ラッパ」とあだ名され、「ほら吹き中山」、「売名家中山」の評価を受ける結果になったのは否めない。


 昭和28年度ころからはしきりに海外にでかけ始めた。個人で加盟できる「国際外科学会」の支部を日本に設置したり、外国の病院で手術をやり、多くの外国人を千葉大に招いて手術を見学させている。


 その一方で、日本の癌学会のお歴々が唾棄しているSICについても中山氏は講師を派遣したり、調査もさせた。こうした行状が東大閥で固める癌学会と対立を招き、1963年12月には、日本癌学会から別れての「日本がん治療学会」を設立させた。中山氏はその二代目の会長となった。

SICとはフランス語でSociété Internationale de Chirurgie で、英語ではInternational Society of Surgery (ISS)、日本では公称「万国外科学会」といいます。ここでは字義通り「国際外科学会」と書かれています。


 中山恒明氏はひとによっては医学に没頭した高潔無比の性格だったといいますが、ここの記載を読む限りどうもそうばかりではない、野心家の側面もあったと感じます。


 ここで、いよいよ因縁の東大医学部との対立が始まります。

「ここでガン学会の重鎮の吉田富三氏と対立した。吉田氏と東大同期の病理学者、滝沢延治郎氏は今春から千葉大医学部長に就任したのが中山氏には不幸の始まりだった。日本医師会長の選挙で、中山氏が吉田氏と対立する武見太郎氏を応援したことが間接的に今回の事件摘発に影響した


 「千葉大医学部八十五年史」にはこうある


 「昭和39年に日本がん治療学会会長として千葉で学会を開催する予定であり、昭和40年には日本外科学会会長として東京での開催を予定している。また三年後には国際外科学会の日本開催が予定されて、・・・・教授職は繁忙がつづくであろう、昭和42年3月には中山外科教室の20周年にあたり、世界に轟く名声を上げた教室の業績が纏められるであろう」


 それがたった一枚の死亡診断書で崩壊したのである。


 千葉大学長の谷川久治氏はこう述べている


「たしかに中山くんは外科医として立派な業績を挙げてる。独自の創意工夫による手術は人によっては神業という。私としては大学の看板を失うのだから残念である。しかし人間としての中山くんは批判の余地がある。アクが強い、名誉欲が強い、物欲も強い、こうした欲望は頭から否定はできないが、監督者としては困ることもある。中山くんに出すぎた言動は慎むように注意してきたが、結局彼は国家公務員の枠から外れた人間だった

中山氏を批判した学長の谷川久治氏ですが、公衆衛生を専門とする基礎医学の研究者です。千葉医大卒で昭和26年(1951年)、中山氏に遅れること4年で教授になっています。そして昭和37年(1962年)千葉大(千葉医大)出身の初めての学長となっています(それまでの学長はすべて東京帝大医学部出身)。滝沢延治郎氏と違っていわば身内の発言ですから、その批判は公正でしょう。


 なお武見太郎は慶應医学部出身で、吉田富三氏に選挙で勝った後日本医師会会長として長く君臨し、「ケンカ太郎」として絶大な権力をもって政府とも対峙しました。ちなみに2024年2月現在岸田内閣で厚労相を務める武見敬三氏は、武見太郎の三男です。