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南極遊覧飛行NZ機墜落 〜今井通子氏「履歴書」から

帰ろうと、自分の車に乗り込んだら、駆けつけてきた仲間が窓を叩いた。


「ご両親が乗った南極飛行旅行の飛行機が行方不明だそう。燃料は2時間前に切れた」とのニュース。


まさか。私は意味なくハンドルの左右を両手で叩いた。

今月の日経「私の履歴書」は登山家の今井通子氏です。以前今井氏の肩書きは「登山家・医師」だったと思いますが、今は「登山家」一本となりました。実際履歴書の今までの連載はほとんど登山経験の語りで埋め尽くされ、医師としてのお話はほとんど出て来ません。読みながら「折角医者になった娘がこんな風になってしまって、ご両親ははらはらし通しだったのでないか」と、嘆息していました。


1979年、ニュージーランド航空が企画した南極遊覧飛行で旅客機が墜落した事件は、かすかに記憶が残っています。しかし、これに日本人も関係していたことは知りませんでした。ましてや今井氏の両親や関係するご家族が全員この事故で亡くなったことは、初めて知りました。ネットで検索しましたが、少なくとも近年今井通子氏がこの思い出を他で語っているのは見つかりませんでした。

ニュージーランド航空901便エレバス山墜落事故


1979年11月28日午後12時49分(現地時間)に観光飛行中のニュージーランド航空901便(マクドネル・ダグラス DC-10-30 型機、機体記号: ZK-NZP, 1974年製造)が南極ロス島のエレバス山の山腹斜面に墜落した航空事故。乗客237人・乗員20人合わせて257人全員が死亡した。事故の犠牲者の遺体回収には二重遭難の危険性があるということで断念しかかったが、ニュージーランド人に次ぐ犠牲者数(計24名、医師で登山家でもある今井通子の両親も含まれる)を出した日本の強い圧力により、「オーバーデュー作戦」を遂行し、回収可能な遺体と遺品を全て回収。

この事故での遺体捜索は南極の孤島ということもあって、多大な困難があったようです。

オーバーデュー作戦


TE901便の捜索活動は「オーバーデュー作戦」(Operation Overdue) と名付けられた。事故機の遅れが分かった時点で捜索および救助活動の準備が始まった。残骸が発見された数時間後には専門家やボランティアの捜索隊が集められた。事故現場に近いマクマード基地やスコット基地では、観測や調査活動を全て中止して捜索や事故処理に加わった。


しかし、捜索活動は悪天候により難航した。空からはヘリコプターがホバリングするのが精一杯であったほか、地上からの接近も絶壁やクレバスに阻まれた。生存者の見込みがなくなったことで遺体をそのまま現地に残す可能性が検討されたものの、法的および宗教的観点から直ぐに捜索活動を進めるべきと決まった


捜索隊の第1陣は事故調査委員やニュージーランド警察の救助隊で構成され、11月29日にクライストチャーチを出発して翌日に事故現場に到着した。生存者の可能性がなくなった捜索隊にとって最優先とされたのは、ブラックボックス(コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダー)の回収だった。捜索開始後、数時間でそれぞれが発見されたものの、悪天候のためマクマード基地に届いたのは12月3日だった。現場調査は12月10日まで行われ、コックピットの計器パネルなども回収された。


12月2日に天候が好転したことで翌3日から遺体収容も本格化し、白夜を利用して徹夜で作業が進められた[64][65]。事故現場はマクマード基地の近くであったため同基地のヘリコプター5台を総動員することができた。これにより回収可能な遺体と遺品を全て回収しきることができた[52]。犠牲者の遺体は12月5日までにマクマード基地に仮安置され、翌6日の午前中にオークランド空軍基地に空輸された[66][60]。遺体はすぐにオークランド大学医学部に移送され、同日午後から警察や病理学者ら専門家による検視と身元確認が始まった[67]。身元確認作業を終えたのは1月30日だった[60]。犠牲者のうち44人については、遺体の特定あるいは回収ができなかったと結論づけられた。

1983年の御巣鷹山日航機墜落事故で知ったのですが、欧米の人たちは遺体回収にそれほど執心でないようです。「どうしても見つからなければ、それでもよい」という態度だったと記憶します。オーバーデュー(over due 期限切れ)と名付けたこの作戦には、そういう感じ方も反映していると感じました。

私が海外登山に行くようになり、欧州アルプスのハイキングツアーに誘ったのがきっかけだ。翌年からはスイス在住の加藤滝男氏(アイガー北壁の隊長)にガイドを依頼しトレッキングもするようになった。一般の観光客が行かないような、ワイン造りの小さな村にまで、足を延ばす。「今度南極に行くのよ」とは聞いていた。


きょうだいがみんな実家に集まった。後から来た妹が「お父さんとお母さんのお爪が残っているかもよ」とせわしなく爪切り探しをしたのを覚えている。妹は夫の両親もこのツアーに参加していた。

今でも南極まで一般人が行くのは大変です。ともに医師だった今井氏のご両親だからこそできたことと思います。

私の夫ダンプさん(高橋和之)と、医師で米国留学中に病理学も学んだ私の弟、やはり留学経験のある私の山仲間の3人が、現地に向かった。夫婦2組4人のうち、最後に見つかったのは父だった。「お父さんは自然の中にいたいのかもね」と半ば諦めかけたころのことだった。

葬儀を終えた。「お姉さん、式典中眠っていたでしょう」。妹から言われた。それほど忙しかった。その後、私は亡霊のようになった。俗に言う燃え尽き症候群だったのかも。

欧州旅行に連れ出さなければよかった。休日、母の昼寝の時間に娘と実家に行き、眠たがる母を遊園地に誘わなければよかった。よかれと思って親にしていたことが、次々悔い事として頭に浮かんでくる。

今井氏の悲痛な胸の内が語られています。そもそも、今井氏のご両親は登山家・高橋和之氏と通子氏の結婚に、猛反対でした。「娘がますます危険な道に進んでしまう!」と思った事は、想像に難くありません。

実家の近所で火事があったとき、いち早く夫が駆けつけて以来、当初は結婚に反対していた両親が彼を頼りにしていた。母が「これで私は肩の荷が下りたわ。うちには大きな台風と小さな台風がいたから大変だったのよ」と暗に大きな台風(私)の心配は任せると言ったこともある。


素直に眼科医になった弟妹と違い、泌尿器科医になった私は、しかし、父のなくなる1年前、父の前立腺肥大症の手術をしている。

母は同期の解剖学の教授から「(私が)泌尿器科教室に入局してくれてよかった」と言われたと話していた。その泌尿器科の教授もまた母の同期で、3人は仲が良かった。


従って私はそのとき、父母両者にとってしょうがない娘ではなく、ちょっとは役立った娘だったかも、と思うことにもした。

心配を掛け通しだった不肖の娘、今井通子氏の痛切な思いを感じますが、それでも少しは親孝行もできたと信じることにしたようです。


 私は今まで登山を何度もしましたが、今はしないときっぱり決めています。それは秩父山系で、ゴルジュを下った時に怖い経験をしたからです。ゴルジュとはフランス語でgorge(喉)から来ており、川が急流を下る際、岩盤をくり抜いて出来たトンネル状の構造をいいます。普通は沢登りの要領で上に向かいますが、この時は計画者の判断で下りでした。岩が水に濡れて苔むした感じになっており、つるつるして危険この上ない。危うく滑り落ちそうになりましたが、何とか下りきりました。その時思ったのは「遊びでこんな経験するのに価値を感じない。第一これで頭打って死んだら家族はどうなる?」でした。


 今井通子氏が82歳となる今日まで無事長生きできたのは、ご両親そして妹さんのご主人のご両親が天国から加護してくれてきたからかもしれませんね。でも、今井通子氏が事故の一報を聞き、「意味なくハンドルの左右を両手で叩いた」時の気持ちは痛いほどわかります。心配しながらも愛情をずっと注いできてくれた両親との別れが、一瞬にして来たと直感したのでしょう。登山で数々の危険な目に遭いながら生きてきた今井通子氏は、「本当はその運命を神は自分に与えて、代わりに両親たちを救ってほしかった」と思ったのでないでしょうか。


月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。


(松尾芭蕉「奥の細道」序文)