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東北大のテニュアトラック問題 〜東北大だけの問題でない

国際卓越研究大学(2) 〜なぜ東北大学なのか
「名ばかりテニュアトラック」への言い分 〜「東大話法」か 東北大
東北大のテニュアトラック問題 〜東北大だけの問題でない
東北大、研究資金の申請で虚偽疑惑 〜ヤフコメは何と言うか


東洋経済の記事です。東洋経済は昨年の東北大テニュアトラック問題の取材で、小谷もと子氏の木で鼻を括ったような答弁に相当腹を据えかねていると思われます。今回はその続篇と言えるべき内容です。

卓越大内定の東北大、研究資金の申請で虚偽疑惑、「名ばかりテニュアトラック」で卓越研究員採択


政府が若手研究者の安定雇用促進を目的に実施する「卓越研究員事業」に、東北大学が要件を満たさない雇用制度で2019年度と2020年度に申し込み、研究支援の補助金を得ていた疑いが極めて濃いことが東洋経済による取材で分かった。

テニュアトラックとは、研究機関が若手研究者を将来的に無期雇用になれるチャンス付きの有期雇用で受け入れる制度をいう。


 まずは3~5年程度の有期雇用でスタートするが、その期間内に、”もれなく””公正な”審査を受ける機会を与える必要がある。そして、審査に合格すれば「テニュア」と呼ばれる無期雇用のポストに昇格させる。


 あらかじめテニュアトラックの採用人数と同じ数のテニュアのポストは確保しておき、合否は相対評価ではなく絶対評価で決める。つまり、若手研究者本人が結果さえ出せば必ずテニュアになれるというスキームで、アカデミアの世界では国際的に認知されている。当然、文部科学省もそのように明確に定義している。


〜中略


 東北大学が2018年度に創設し、2020年度まで学際科学フロンティア研究所で実施していた「東北大学テニュアトラック制度」が、本来のテニュアトラックではない問題については、2023年秋に東洋経済オンライン『卓越大内定・東北大が「名ばかりテニュアトラック」』で報じた。


制度の趣旨とかけ離れた実態について、東北大学の小谷元子理事は、「東北大学テニュアトラック制度はテニュアトラック制度ではないので、誤解のないようにしていただきたい」などと弁明。東北大学の制度は、名称にテニュアトラックという言葉を使っているが、「本来の制度とは別物の独自のもので、元から研究者にはテニュア審査の機会を与えるとは約束していない」などと説明していた(『東北大、「名ばかりテニュアトラック」への言い分』)。

あの小谷氏の「東北大学のテニュアトラックは普通のテニュアトラックとは異なるものである」のぶっ飛び回答には、読んだ大概のひとは呆れたと思います。「牽強付会」とはまさにこういうことといったこじつけ答弁でした。

2019年度と2020年度分に関して雇用条件の欄などに「東北大学テニュアトラック制度に基づく雇用」「学際研を活用した『東北大学版テニュアトラック制度』により卓越研究員を採用する」などの記載があった。


 そのため、東北大学に対して、「卓越研究員事業の申請書にある東北大学テニュアトラック制度は、本来のテニュアトラック制度ではないため、卓越研究員事業の採択要件を満たしていないのではないか」と質問したところ、「文科省の示す要件に基づき申請を行い、審査の結果、採択されている」(広報室)と文書で回答があった。


 2019年度や2020年度と、小谷理事が東洋経済のインタビューに応じた2023年秋では、同じ東北大学テニュアトラック制度でも中身が違うとでもいうのだろうか。

ここまでの東北大学の主張を時系列に整理すると以下のようになる。

(註 元文のままだと読みづらいので少し改編した)


・(2019年の文科省のヒヤリングに対する説明)

「東北大学テニュアトラック制度は、あらかじめテニュアポストを確保している本来のテニュアトラック制度である」


・(2023年秋の東洋経済の取材に対する回答)

「東北大学テニュアトラック制度はテニュアトラック制度ではない。あらかじめテニュアポストを用意していない」


・(2024年(今回)の東洋経済の指摘を受けた文科省・髙見室長への説明)

「東北大学テニュアトラック制度の研究者でも、卓越研究員事業に申請したものは、本来のテニュアトラックである」


 つまり、東北大学テニュアトラック制度はテニュアトラック制度ではないが、例外的に一部、本来のテニュアトラックでの雇用が存在していたことになる。

東北大学は自分たちがつくったテニュアトラック制度にも関わらずその制度説明が二転三転しており、非常に苦しいです。

しかし、東北大学のこうした説明を真に受けることはできない。


 東北大学は当時の卓越研究員事業の申請書に、テニュアトラックで採用された若手研究者が審査を経てテニュアのポストに昇格できる条件について「優れた業績を有すると認められた場合」という本人への評価のみにとどまらず、「かつメンター部局(理学部や工学部など受け入れ先の学部)の採用計画に合致する場合」と記していたからだ。この申請書の記述内容からみても、東北大学が卓越研究員事業に申請したポストはやはり、あらかじめテニュアポストを用意していない名ばかりテニュアトラックだったように映る。

研究者の雇用問題に詳しい一般社団法人「科学・政策と社会研究室」の榎木英介代表は、「東北大学の主張は詭弁、後付け、言い訳にしか見えない。これが国際卓越研究大学になる大学なのかと唖然とする。こうしたやり方を許せば研究の世界でのモラルハザード(道徳観や倫理観の欠如)につながる。東北大学には組織体として問題があり、国際卓越研究大学に値するものではない」と指摘する。

榎木氏が仰る通りです。


 ただし、私が知る限り、こういった「名ばかりテニュアトラック制度」は東北大学ばかりではなかったようです。1例を挙げると、名古屋大学のテニュアトラック制度もまったく同じような推移となり、大半の教員が任期終了時テニュアポストを得ること無く名古屋大学を去ったそうです。


 また、慶應義塾大学でも「咸臨丸プロジェクト」と称して始まったテニュアトラック制度で同じような顛末がありました。現在は慶應医学部の神経内科教授となった中原仁氏は医師向けサイトでその実態を暴露しています。

30歳の時には、文部科学省の補助金で始まったテニュアトラック制度に乗って特任講師になり、自分の研究チームを持ちました。

当時、文部科学省が、「テニュア」(大学等における教職員の終身雇用資格)の前に5年間評価期間を設ける「テニュアトラック制」に補助金を出すことになり、慶應もそれに手を挙げました。僕は10人いる一期生の一人として、2008年12月から慶應の「咸臨丸プロジェクト」で特任講師を務めていました。

 文部科学省への申請書類では10人のうち上位5人を「テニュア」にする計画でした。中間審査と最終審査があって、10人中、僕はたしか2位で、当然テニュアになるはずでした。

2012年秋にテニュア最終審査があって合格、「来春から准教授」と聞いていたのですが、その前年(註2012年)の12月の教授会でひっくり返された。テニュア予算がないとのことで、事実上、内定取り消しになったのです。

実際には「そんな金はない」ということで、トップの1人だけが「テニュア」になって、残る9人は全員がクビになってしまったのです。多くが元いた教室に戻ったのですが、私が出身の解剖学教室では定員の枠が空いていなかった。実は「テニュア最終審査」の直前にある研究所から誘いがあったのですが、「テニュア」になる件があり断ってしまいました。何とか復活できないかと思ったけれど、ダメだった。

これ、ほとんど詐欺というか詐欺そのものです。中原氏はそのまま失業して路頭に迷うはずでしたが、ここで救いの手が差し伸べられました。

中原:臨床研修の2年間はすごく苦しかった。終わったときに記憶しているのは、「休みがほとんどなかった」ことと、「銀行口座の残金が10万円くらいしかなかった」こと。けれども学ぶべきものがたくさんあって、今の臨床研修ではやらせてもらえないような、挿管とかカテとかもたくさん経験した。せっかく獲得した技術を失ってしまうのは惜しい気がした。しかし、病院に所属して当直までを担当すると、研究が進まない。だから研究の傍ら、訪問診療を手伝わせてもらうことにしました。


 なので、それなりの臨床技術は維持していましたし、患者を診ることに不安はなかった。子どももいたし、無職というわけにいかない。正直「どこでもいいから、働ける病院を探さなければ」と考えた。けれども、当時は内科認定医も、神経内科専門医も持っていなかったので、いい年になって大学の臨床教室に戻るのは不可能だと思っていました。


 そんなときに、僕の前任教授である鈴木則宏先生からこう言われたのです(註 鈴木則宏氏は当時慶應医学部神経内科の教授だった)。


 「中原、お前、人生やり直せ


 「講師から、助教に降りろ。それさえお前がのむのだったら、神経内科で採用する。あとは俺が何とかしてやる」


 鈴木先生は、僕が卒後2年目の時に北里大から慶應大の神経内科教授に就任され、その時に挨拶はしていました。その後、私は基礎にいたので「つかず離れず」の関係でした。鈴木先生は教授会に出席していたから僕がクビになったことは分かっていたのです。


司会:それで神経内科に戻り、臨床を再開された。

結局中原氏は神経内科学教室の助教となり、辛くも路頭に迷う運命を回避しました。

講師から助教になったので、給料もものすごく下がった(笑)。

しかし、そうはいっても中原氏は医師免許があったからこそ助かったといえます。まったく特別な免許がないただのポスドクだったら、失職→無職となったでしょう。運が良くて予備校の先生、運が悪ければ実家で引きこもりしかないです。話は逸れますが、今医学部に優秀な学生がどんどん行ってしまうのは勿体ない、理工系に優秀な人材がもっと行ってほしいという声をよく聞きます。しかし、研究に進んだ優秀な理工系研究者には、大学にいる限り「失職」というリスクが常につきまといます。これじゃあ、医学部に行くなという方が無理でしょう。一般人はこういう研究者の過酷な実態をまったく知らず、普通のサラリーマン人生と同じだと思っている節があります。


 上記のように中原氏は臨床の助教になれたものの、その後の道も決して平坦なものでなかったです。年齢的に遅くなってから臨床の道に復帰したため、大変な苦労をしたことが語られていますが、その部分は割愛します。