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全国に7つある「旧帝大」に序列はあるのか1 〜歴史がかなり違う

全国に7つある「旧帝大」に序列はあるのか1 〜歴史がかなり違う
全国に7つある「旧帝大」に序列はあるのか2 〜実現しなかった帝国大学
全国に7つある「旧帝大」に序列はあるのか3 〜で、序列あるの?


本日は首都圏でもかなりの寒さで、まさに受験日和といえましょうか。自分の大学受験は遥か昔となり子供達の受験もとうに終わりましたが、今朝のような曇天の朝は寒さに震えながらもきりきりと緊張していたあの日を思い出せてくれます。息子は大学生協のバイトで受験生の誘導に当たるそうですが、90センチ近い積雪だから大変でしょう。何にしても本日から始まる国立大前期入試では、受験生の皆さんの健闘を祈ります。


 さてプレジデントオンラインの記事はお得意の大学比較で、今回は旧帝大について論じています。

進学校の高校が大学受験の合格者を競うとき、東京大学合格者や東京大学・京都大学合格者の合計が話題になるが、大都市圏以外では、旧帝国大学合格者数が基準にされることが多い。

 たとえば、東北地方を見てみると、人口が多い宮城県を除く青森、岩手、秋田、山形、福島の5県では、東京大学の合格者数は合計36人だが、東北大学の合格者数はその10倍以上の479人に上る(2022年度)。北海度における北海道大学、九州地方における九州大学も似たような傾向がある。

 しかも、山形県の場合だと東京大学合格者は3校からしか出ていないが、東北大学には11校から合格者を輩出している。一握りのトップ層は東京大学や京都大学を目指すものの、一般の生徒たちが目指す「頂点」は東北大学であり、人材流出のダムの役割を果たしているのだ。

首都圏に住んでいると、東大以外の旧帝大はかなり離れた立地で、京大以外はあまり意識に上らない気がします。でも、記事にあるようにあちこちに帝国大学を配置したことは、日本の全体的な人材養成には大いに貢献したのは、間違いないと思います。しかし一番最初にできた帝国大学、すなわち東京帝国大学以外は、結構色々な背景があります。

国内2番目となる京都帝国大学の発足は、第三高等学校から分かれたものだというところが特殊だ。ルーツは1861年設立の長崎養生所という見方も可能だが、普通には1869年に創立された大阪舎密(せいみ)局と同年に開設された洋学校で、これが、開成所、大阪専門学校、大阪中学校、大学分校、第三高等中学校と改称し、1889年に京都に移転、1894年に第三高等学校となり、1897年には京都帝国大学が設立された。

この背景には、尋常中学卒業後の高等中学において、大学予科のような語学中心の部門だけでなく、日本語で専門家を育てる学校をつくる動きがあり、高等中学を専門学校化する道も模索されたことがある。極端に言うと、帝国大学は東京だけにして外国語での講義を主にし、各地の高等中学を大学予備門コースと専門学校で構成しようという狙いだった。

そうなのです。今でこそ東西に並び立つ東大と京大ですが、当初は「京都は高等中学校程度でよかろう」だったのです。しかし、高等教育の拡充を求める声が大きくなり、帝大の増設が進みました。


また、東京帝国大学では、法学部の学生が非常に多くなった。これは、福沢諭吉による慶應大学や大隈重信による早稲田大学の卒業生ばかりが政治家や官僚になり、彼らの政治的影響力が強くなっているのを嫌った伊藤博文らが、帝国大学の卒業生を試験免除で官僚にするなどした事情にもよる。

これは知らなかった。道理で、今も東大文科一類の定員が他の国立大法学部とくらべて多いはずです。


東北帝国大学は、1876年創立の札幌農学校(東京で1872年設立の開拓使仮学校が1875年に移転した札幌学校を前史とする)を東北帝国大学農科大学とするだけで1907年に発足した。1911年に理科大学が設置され、翌年には宮城県立医学所をルーツとする仙台医学専門学校を吸収した。

〜中略

北海道帝国大学の前身は東北帝国大学と同じく札幌農学校で、東北帝国大学農科大学と称された時代を経て1918年に北海道帝国大学となり、翌年に医学部を設置した。

 なるほど。だから第二次大戦前、東北帝国大学に農学部がなく、北海道帝国大学に農学部があった訳がわかりました。しかし、ヤフコメにこんなのがありました。

cap********


>>東北帝国大学は、1876年創立の札幌農学校を東北帝国大学農科大学とするだけで1907年に発足した。


札幌農学校が、1907年に新設された東北帝国大学に包括されたんです。創立された時点では仙台に大学の実態はなかったけれども、理科大学の教授候補者を当時最先端だったヨーロッパに留学させて準備していた。彼らが帰国し1911年に理科大学が開学、その後、魯迅が在籍していたことで有名な仙台医専(これは江戸時代の藩校に源流があるという説もある)が医科大学に昇格。仙台高工を一時専門部として包括するも工学部設置の際に敷地を奪って分離(戦後再吸収)。農科大学は創基年代は古いもののあくまで格下の分校で、東北帝大の工学部設置と同時期に北海道帝国大学として分離独立している。というわけで今の東北大学は札幌農学校とは無関係。
東北大の起源を札幌農学校とするのは無理筋すぎる。

え、無理すぎないですよ?あなたの主張の方が牽強付会です。東北大学にきちんと、この辺の経緯が記されています。

東北大学は、明治40(1907)年6月22日に「東北帝国大学」の名前で誕生しました。

発足当時の東北帝大は、明治9年(1876)にスタートした「札幌農学校」を大学に昇格させた「農科大学」と、仙台の地に新しく造られた「理科大学」という二つの大学からなっていました。

同年9月から早速講義が始まった農科大学に比べ、理科大学の方は敷地・校舎・人事などまったくゼロからの出発であり、実際に開講するまで約4年の歳月がかかりました。そして明治44(1911)年9月、26名の学生が入学し、大学としての本格的な活動がはじまります。

東北帝大が工学部や理学部で戦前から立派な業績を出したのは認めますが、他大を貶めるとはこれ品格なし。


別なサイトですが、こういう記載もあって、なるほど賊軍の地、東北は明治時代教育に関しても虐げられていたのですね。

1876年創立の札幌農学校は明治維新政府が設立した北海道開拓の為の給費の高等教育機関でした。単に農学を講義するだけで無く数学、土木、生物、植物、英文学など、総合的な高等教育が実施された我が国最初の高等教育学位授与機関です。


その頃、賊軍の伊達藩は戊辰戦争でボロ負けしてペンペン草が生えていました。


1907年に創立された東北帝国大学は、創立当時に仙台には何も無く、東北帝国農科大学として札幌に集中的に投資されました。当時は戊辰戦争から間もない時期で、賊軍である伊達藩がある東北地方から帝大の要求があったので名ばかりの東北帝国大学は設立予算を地元に出させて、実際には国は札幌に投資。また鉱毒事件でイメージダウンした古河財閥の東北帝国大学への寄付は札幌へ回して、古河講堂として今も北大構内に現存しています。

そうか、古河講堂がなぜ北大にあるのか、初めて訳を知りました。


話はプレジデントに戻ります。

九州帝国大学は、1911年に創立された。まず、1月に古河財閥の支援を受けて工科大学を設置し、4月に京都帝国大学福岡医科大学(1867年設立の黒田藩賛生館の流れをくむ県立福岡病院が前身)を移管して加え、9月から工科大学の講義がスタートした。なお、設置に当たっては、長崎や熊本も誘致していた。

よく言われるのですが、明治時代まで九州の中心都市は、長崎や熊本であって福岡は決して大きいとは言えなかったです。ここでも古河財閥が顔を出していますが、古河は単に足尾鉱毒事件のことだけで罪滅ぼしをしていたとも思えないです。やはり殖産のために高等教育が欠かせないという意識があったのでないでしょうか。


関東大震災や世界恐慌などが起きた後、大阪と名古屋で地元の寄付によって帝国大学が設置されることになる。

そう、遅れてできた阪大と名大は震災や世界的な経済危機があって、割を食ったと言えます。


 今回の記載では、外地にあった京城帝大と台北帝大についても記しているのが、重要です。

京城帝国大学(1924年設立)は、朝鮮総督府の管轄で最初に予科が、ついで法文学部と医学部が置かれた。文政学部、理農学部でスタートした台北帝国大学(1928年創立)も台湾総督府の管轄で、終戦後そのまま国立台湾大学になった。京城帝国大学は京城大学と改称したものの、1946年に米軍により廃止されたため、現在のソウル大学は施設等を継承しているだけで連続性はないと自称している。


■韓国・台湾における帝国大学の評価


 こうした外地における帝国大学などについて、主に保守派は「日本の外地統治が欧米のような植民地からの収奪でなく、地元の発展を願ったものだ」と指摘するが、韓国人などからはいろいろと反論がある。


 たしかに、総督府監督下の日本語で教える学校は現地支配に役立つし、学生数も当初は日本人のほうが多かった。しかし、韓国の場合で言えば、近代的な初等中等教育の発展が内地より半世紀近く遅れて始まったため、帝国大学の教育についていける学生がはじめは少なかったのだから致し方なかった。


 終戦後、日本の無条件降伏と、米占領軍や中華民国政府が邦人の引き揚げを強要したことによって日本人教官が引き継ぎなしに退去したのは残念なことだったし、幼少期から日本語で教育を受けていた学生は突然、習熟しない言語で学ぶという犠牲を強いられた(そのため、戦後しばらくは日本語文献が広く使われていた)。

ここの記載は間違っています。京城帝大に関しては戦後すぐに日本人の教員は撤退しましたが、台北帝大は戦後も台湾大学に日本人教員が残留しています。台湾とくらべて韓国の日本に対する反感は根強く、ソウル大学校の継承性なしについては仕方ないところもあります。


 ところで、外地にあった京城帝大、台北帝大、そして北海道帝大の3つは、内地に住む日本人学生には残念ながら人気がなかったのです。遠隔の地で仕方ないことですが、旧制高校の卒業生だけで大学定員を満たすことができないので、それぞれに予科ができました。


別な記載で台北帝大についてこんなのがありました。

大学(台北帝大)は作ってみたものの、厄介な問題が起こった。学生が全然集まらないのである。

帝国大学というブランドを引っさげたら学生など勝手に集まってくる。そんな「武士の商売」で開校したのだろうが、蓋を開けてみるとそうは問屋がおろさない。


「そんな辺境の田舎大学、誰が行くか!」


と高校生たちにことごとくにスルーされ、完全に当てが外れてしまったのである。


さらに台北帝大は、同じ台湾総督府立として「姉妹校」だった旧制台北高校の受け皿、つまり、事実上の「台北帝国大学付属高等学校」である台北高校の卒業生をすべて「付属大学」へ、というレールを総督府は敷いたつもりであった。が、台高生たちには、


「ただの大学に興味ありません!」


と早々にアウトオブ眼中宣言されてしまう。今の学生目線で考えても、海の物とも山の物ともつかない新設大学と東大京大、どっちに入学したい?と聞かれると、後者の方がいいだろう。

〜中略


昭和11年(1936)、台北帝大に念願の医学部が新設された。

ここに本島人学生が殺到することとなり、昭和15年(1940)のデータでは本島人の割合が25.6%にまで上がっている(83/323人)。

医学部に集中はしているものの1、当時の帝大生の4人に1人は本島人という計算となるのである。

ううむ、医学部の威光畏るべし。なお台北帝大医学部には森鴎外の長男、森於菟が解剖学教授として赴任しています。戦後も1947年まで台湾大学医学院教授を務めて医学部長となってから、帰国しています。