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石川日出鶴丸・加藤元一・田崎一二異聞 〜九大・大村裕名誉教授

日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(6)〜慶應医学部生理学教室の源流(5)


 さらに調べたら、こんな記事を見つけました。今までの記載と違うところもありますが、詳細な記載もあるので、転載します。
*追記
ネット検索で見つけた記事で最初出典がどこなのかわかりませんでした。調べた結果、以下の出典だったので、記載します。


日本生理学会雑誌 第71巻44〜49ページ「RECORDS」2009

我が国の神経生理学の黎明期

九州大学医学部名誉教授 大村 裕


日本の神経生理学の発展に特筆すべき事項が起きたのは,1923 年(大正 12 年)第 2 回日本生理学会が開催された九州帝国大学医学部生理学兼生化学講義室であった.


〜中略


前述の特筆すべき事項とはすなわち,神経線維の興奮伝導に関する当時の定説を覆す「不減衰伝導学説」の提唱である.慶応大学医学部生理学の加藤元一先生による不減衰伝導説についての口演が終了した時,間髪を入れずに質問討議に立ったの は 京都帝国大学医学部生理学教授,石川日出鶴丸先生であった.いわく,「今の加藤教授の結論をすべて反駁してみせる.私に 20 分いただきたい」そのとき座長は「プログラムの進行にそのような時間の余裕はない.反駁は大変興味があるので来年の学会に持ち越しては」と宣言した.こうして始まったのが,慶応大による「不減衰伝導説」と京都大の「減衰伝導説」に関する神経生理学の一大論争であり,この論争はその後 1932年まで継続した.両者の実験はガマの坐骨神経が用いられたが,それはカエルに比し機械的に強く,また材料として容易に得られる安価さがあったからである.私が大学院の学生の頃,時々生理学教室のコンフェレンス兼食堂で昼食を共にされた板垣政參名誉教授が「この隣の講堂で,あの有名な論争が始まったのですよ」とよく言われていた


〜中略


翌年から両教室とも生理学会で論争を続けたが,どちらもデモ実験を学会場で行った.この間慶応大では,教室員の実験のディスカッションは,教授室でこも被りの酒樽からの酒を酌み交わしながらのものであった.一方,京大ではディスカッションが外部に漏れるのを恐れて料亭で行われたという.しかし,実験事実は徐々に慶応側に有利に傾いていった


〜中略


1927 年(昭和 2 年)2月には,加藤先生は不減衰伝導に関する研究で帝国学士院賞を受賞された.石川先生側は,3 月これに抗議する公開質問状を学士院長宛に送った.京都側の主張は,「元気のよいガマを使い,丁寧に摘出した神経筋標本を用いて,濃度の低い麻酔薬を作用させると京大の主張通りの結果になる.一方弱ったガマを用い,乱暴な操作で摘出した標本で,濃度の高い麻酔薬を作用させると慶応側の言うようになる傾向がある」というものである



〜中略


1931 年の日本生理学会で,東大の橋田邦彦先生は両者を批判する発言をされた.すなわち,「どちらの実験も神経束を用いてのものであり,伝導速度の異なる神経線維群の集合で,それでは正しい結論を得ることは難しいのではないか.単一神経線維を用いて,ランビエー絞輪の興奮性を実験すれば結論が得られるのではなかろうか」すかさず慶応大生理の林髞助教授が立ち上がって発言した.「橋田先生の言われることは夢であり,不可能である.夢は科学ではない」しかし単一神経線維を用いる構想は加藤先生も夢想されていて,それは 1929 年(昭和 4 年)ボストンにおける第 13 回国際生理学会からの帰途の船中のことであったようである.すなわち単一神経線維による実験で不減衰説が証明できないだろうかというものである.そして 1930 ―1931 年,ついに清水,釜谷,大邸医専から研究に来ていた郭在禧博士らによって神経束から単一神経線維の分離に成功した


〜中略


単一神経線維の成功は,その後ランビエー絞輪から直接活動電位を記録することによる神経興奮の基本原理の解明へと続いていく.ランビエー絞輪を直接刺激して,ランビエー絞輪の活動電位(上向きの三角形のふれ)を記録したものである.すなわち,1934 年(昭和 9 年)慶応大医学部卒業の田崎一二博士(元アメリカ・NIHシニア研究部長)は,加藤教授の下でこの研究を行い,(中略)発表した.ランビエー絞輪で発生した活動電位は 5 個先のランビエー絞輪を興奮させるに十分な大きさをもっている.いわゆるランビエー絞輪の跳躍伝導として世界に広く知られている.加藤先生の不減衰伝導説とそれに続く単一神経線維による神経興奮性の研究業績は世界に認められた.1935 年,条件反射で有名な I. P. Pavlov(1849 ―1936,1940 年に消化の生理学でノーベル賞受賞)によって国際生理学会がモスクワで開催された時,加藤先生は単一神経線維の実験のデモを行うため,170 匹のガマとともに一週間のシベリア鉄道の旅を行った.教授は毎朝太陽に向かい,ガマが死なないように祈ったという有名な話がある.Pavlov 会長は,ノーベル賞候補として加藤を推薦したことを告げた.単一神経線維興奮のデモは新入研究生の田崎一二が行った

〜後略(全文をご覧になりたい方は出典をあたっていただけるでしょうか))