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日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(6)〜慶應医学部生理学教室の源流(5)

l日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(1)〜京都大医学部 藤浪鑑(あきら)先生
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(2)〜慶應医学部生理学教室の源流(1)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(3)〜慶應医学部生理学教室の源流(2)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(4)〜慶應医学部生理学教室の源流(3)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(5)〜慶應医学部生理学教室の源流(4)
石川日出鶴丸・加藤元一・田崎一二異聞 〜九大・大村裕教授
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか2(1)〜理研CBS(BSI)の功罪


さてここまで慶應医学部生理学について、加藤元一先生のエピソードが中心となってしまいましたが、杉先生はもう一人重要な人物を取り上げています。それが
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(4)〜慶應医学部生理学教室の源流(3)
で述べた、加藤先生のモスクワ講演に随行した弟子のひとり田崎一二(いちじ)です。


 脊椎動物のニューロン軸索はグリア細胞が形成するミエリン鞘に覆われています。リン脂質に富んだグリア細胞の細胞膜突起というか板状構造がバウムクーヘンみたいに軸索にぐるぐる巻き付いていて、一種の電気的絶縁体になっています。そしてところどころにランビエ絞輪と呼ばれるミエリン鞘が巻き付かず軸索細胞膜が露出している隙間が少しあります。この絶縁被覆と隙間がどういう役割をするのかを解明したのが、田崎一二先生なのです。


 ニューロン内の電気的信号の伝わりはよく電線の電流に例えられますが、正確でありません。膜電位と呼ばれる細胞膜内外の電位差が逆転する現象(活動電位)が連続ドミノ倒しみたいに送られるもので、「イオン電流」と記述されます。この電位変化は細胞膜上のイオンチャネルの開閉で起こり、通常はカチオン(陽イオン)チャネルです。当然ながらこの活動電位は細胞膜が露出したところでしか起こりません。出入りするカチオンは細胞膜近傍に存在するものだからです。またイオンチャネルの開閉は電位依存性で、周囲の電位変化を検知して始まります。説明が細かくなりすぎるのでここら辺までとしますが、要するにイオン電流はランビエ絞輪でのみ起こり、その伝導はミエリン鞘外側の液体を伝わる電位変化で起こるということです。ランビエ絞輪からランビエ絞輪を伝わって飛び飛びに起こる活動電位の伝導を「跳躍伝導」と言いますが、これを証明したのが田崎一二先生なのです。


 今の生理学教科書では、神経伝導の基本中の基本としてこの跳躍伝導が出ていますがすごい発見です。というのはミエリン鞘が絶縁体として機能してない無髄神経線維とくらべて、それが機能している通常の有髄神経線維は伝導速度が約10倍速いからです。このため有髄神経線維で構成される神経系を持つ脊椎動物は、素早い神経反射や運動ができます。動物進化の上でも画期的な進歩と言えます。


 田崎一二は1910年福島県白河に生まれ、県立白河中学を経て慶應義塾大学医学部に入学し1934年に卒業しています。ただちに生理学教室に助手として入職し、加藤先生の門下に入ります。前述したソ連・モスクワでパブロフが主催した1935年の第15回万国生理学会議で、加藤元一の不減衰説を証明する単一神経線維の剥出による実験は田崎がおこなったと出ています。加藤元一は1934年に出版した本の中で、研究室の久保と小野が行った実験を紹介し、ランビエ絞輪では活動電位が発生しやすく、それ以外では発生しにくいことを報告していました。田崎は、さらに活動電位がランビエ絞輪にのみ発生し、絞輪から絞輪へと跳び跳びに伝わっていく仕組みを明らかにしました。杉先生によると田崎は「髄鞘乾燥法」という手法でこの跳躍伝導を証明したと出ています。想像するに髄鞘表面を乾燥すれば電位変化は隣のランビエ絞輪には伝わらなくなるはずで、それによってイオン電流の伝播原理を発見したのでしょう。この跳躍伝導の発見は1939年で、大学卒業後わずか5年足らずで29歳の時です。そしてその論文は1944年に和文刊行での「神経繊維の生理学」として発表されています。ところが杉先生によると、日本国内でこれがまったく評価されず、ある生理学教授に至っては「唾棄すべき研究」と公然と批判したと出ています。うーむ、誰かな?これは調べてもわかりませんでしたが、遺恨がありそうな京都帝大医学部あたりは怪しそうですね。こういった批判には、神経生理学の大御所イギリスのハクスレーが田崎の仮説に懐疑的だったことがあるのかもしれません。


 とにかく世界的に跳躍伝導を認知させるには欧文科学雑誌に発表するしかないですが、当時は第二次世界大戦のまっただ中です。敵国のアメリカやイギリスは不可能で、あとは同盟国のドイツしかありません。ところがナチスドイツは独ソ不可侵条約を1941年に破棄してソ連と激しい戦争を繰り広げていました。絶体絶命の状況ですが、なんと田崎夫人がドイツの雑誌に夫君の論文原稿を郵送したのです。そしてその論文は戦争中のベルリンに届き、受理されていたのです!一体どうやって届いたのかと考えますが、シベリア鉄道経由では独ソ戦最前線を渡れず、不可能です。おそらくですが、ドイツ海軍の潜水艦「Uボート」でないでしょうか?Uボートは南アフリカ喜望峰経由で、日本占領下のシンガポールを中継して戦中の日本に来たと言われています。いずれにしても、凄まじい状況の中論文が回送された事実に今の日本の研究者はどう思うでしょうか?


 苦労してこれだけ偉大な発見と証明をした田崎一二先生なのですが、残念なことにこの論文発表前後に師の加藤元一先生と対立するようになります。その理由がはっきりしないのですが、結果として慶應医学部の講師を辞することになります。1945年の第二次世界大戦の敗戦後、田崎はロックフェラー財団から支援を受けイギリスとスイスでの研究活動をし、1951年に渡米します。1953年からは、アメリカ国立衛生研究所(NIH)およびその関連研究機関で神経科学の研究者として活躍し、その後もなんと!2008年まで研究を続けたと出ています。しかしながらついにノーベル賞の受賞は叶いませんでした。前述の藤浪鑑先生は死去したので仕方ありませんが、田崎一二の受賞はあってしかるべきでなかったと杉先生は述べています。僕もそう思います。ノーベル賞の受賞は科学的確からしさがまず第一ですが、それだけでは決まりません。ノーベル賞受賞にふさわしい研究業績は実際の受賞の10倍以上あると私は感じますが、最終決定には有力研究者の推薦など多分に政治的に駆け引きがあります。すでに国際的な名声を確立していた加藤元一との対立は、少なからず田崎の受賞機運に影響したように感じます。慶應医学部の生理学の講義でも、田崎一二先生の業績に触れられた記憶があまりありません。もしかするとイカの巨大神経軸索の伝導の講義で触れられたかもしれませんが、はっきり記憶の中に残ってないのが残念です。少なくとも跳躍伝導のところで、田崎先生の話が出た憶えがありません。


 田崎一二は奥様とともにアメリカ国籍を獲得し、アメリカ人としてその後活躍します。日本からも多数の研究者をNIHの研究室に受け入れたようですが、残念ながら慶應医学部の関係者の名前を聞きません。またその後も度々日本に帰国して学会発表をおこなったようですが、寡聞にして慶應に寄ったという話も聞きません。生理学教室の関係者に聞けば、この間の事情は今後もう少しよくわかるかもしれません。


日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか 杉晴夫著 光文社新書 2022.04