gillespoire

日常考えたことを書きます

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

東京医科歯科大学(1)〜この大学ができるまで

東京医科歯科大学(2)
東京医科歯科大学(3)
東京医科歯科大学(4)
東京医科歯科大学(5) 〜戦後の新制大学設立


通称「医科歯科」ですが、受験生特に医学部を狙うような理科系上位受験生では有名です。しかし一般人では知らないひとも多いです、というかそちらが大多数でしょう。医学部でも歯学部でも、日本医大、東京医大、日本歯科大、東京歯科大とまぎらわしい私立大学が沢山あって、医科歯科が国立大という認識すらないひとも身近にいました。明らかに名前で損をしています。その医科歯科も2年後には東京工業大と合併して新しい大学になるそうで、いずれのその名も過去のものとなります。
 医科歯科で医学部は大学受験では大変に高い偏差値を誇っており、国立大医学部受験で東大理3を断念したら次は医科歯科という流れが首都圏ではあるようです。また研修医マッチングでも常に全国1位か2位といった人気の高い病院です。何と言っても立地がいいです。狭い敷地ですが、御茶ノ水駅すぐ側の湯島で秋葉原にも歩いて数分です。東京駅からのアクセスも良く、まさに東京ど真ん中です。もしもこの大学が東京以外の地方都市にあったら、ここまで人気が集中することはなかったでしょう。しかし医学界で医科歯科はどういう位置付けかというと、微妙かなというのが率直な印象です。この大学について私が考えることを歴史的な経緯に触れながら記しますが、随分長い文になりました。単にこの大学のことだけでなく、周辺の状況も理解しないとなかなか理解できないと考えたからです。辛抱してお付き合いいただける方は多くないかも知れませんが、大事な記録になるかもと思っています。なお引用も付すべきでしたが、その辺はネットでお調べいただけるでしょうか。誇張やウソはありません。ただし、中には確かにネットでその記載を確認し記録したのですが、その後元が消されてしまったものもあります。


 まず医科歯科の立地である湯島をみていきましょう。ここは、色々な教育機関の変遷があります。江戸時代にはすでに隣の湯島聖堂と関連して林家の昌平坂学問所となり、儒学ですが当時から教育の中心でした。明治になると政府によってこの昌平黌に1872年文部省が設置されます。その直後に小学校教員養成校として「師範学校」もここに設立されましたが、後に(1886年)旧制中学教員を養成する東京高等師範学校となります。昌平黌という学問所の方はその後開成所、医学所と一緒に帝国大学の源流となり、本郷に移転します。東大文学部の源流でしょうか。また1875年には師範学校の女子部である女子師範学校も設立されました。その後東京女子高等師範となり、高等女学校や女子師範の教員養成にあたりました。1923年関東大震災で被害を受けたあと、文京区大塚に東京高等師範とともに移転しました。東京女子高等師範は戦後新制大学になった時「お茶ノ水女子大」となりましたが、旧地であった御茶ノ水から命名されたわけです。ちなみに「御茶ノ水」という地名は今は湯島とは神田川の反対になる駿河台にあった高林寺から来ています。この寺に湧き出た水がお茶に良かったからです。湯島や御茶ノ水は江戸時代初期まで一続きの神田山の麓でした。しかし江戸城下に淡水を供給する必要から作られた神田上水を引き込むために、神田山を切り通しして水路がつくられました。この人工河川が神田川で、御茶ノ水と湯島は隔てられました。「湯島」の地名由来は謎が多いです。もしかすると御茶ノ水と同じ水にちなんだものですかね。今でこそ「お茶の水女子大」は名門女子大として知られていますが、同じような経緯で成立した奈良女子大と違って、かなりユニークなネーミングです。