gillespoire

日常考えたことを書きます

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

STAP細胞騒動から10年 〜笹井芳樹氏

STAP細胞騒動から10年 〜STAP細胞とはなにか?
STAP細胞騒動から10年 〜笹井芳樹氏
STAP細胞騒動から10年 〜理研の最終報告書
STAP細胞騒動から10年 〜「あの日」と寂聴
STAP細胞騒動から10年、研究不正は倍増


笹井氏は愛知県の県立旭丘高校を卒業して1980年現役で京大医学部に合格しました。同じ京大で理学部出身の岡田節人先生という著名な発生生物学者がいますが、笹井氏は岡田先生に影響されて発生学に興味を持ったと記しています。医学部在籍中に有名な医化学第一講座に出入りして実験をおこない、同講座の早石修教授の定年退官に際して笹井氏が在校生代表として謝辞を述べています。その回想を後年笹井氏がおこなっています。(「京都大学医化学教室創設百周年記念誌」より)

医 学 生 時 代 の 医 化 学 教 室


笹 井 芳 樹   

 私は医学生時代に4年間(1982~86)医化学第一講座の研究室で研究・実験のまさに「いろは」からいただきました。その間直接ご指導いただいた当時の高井助教授や早石先生をはじめとする医化学第一講座の諸先生方,諸先輩方には,本当にお世話になり感謝の念を言い尽くせぬものがあります。あのころの思い出は今もこころに驚くほど鮮明に残っております。私たちの学年は早石先生のご定年前最後のご講義をいただいたクラスでもあり,最終講義では在校生を代表してお礼を申し上げたのがつい昨日のように思い出されます。(自分が講義をするようになって如何に早石先生や沼先生のご講義が素晴らしかったかをいやと言うほど感じております。ビデオで撮ってあったら勉強させていただきたいぐらいです。)

 当時の医化学教室では第一講座,第二講座間の交流が密であり,生化学から分子生物学まで第一線の「本物」を肌で触れることができました。学生の私にとってその空気の中で学ばせていただいたことが何よりの財産となり,その後の研究者としての進路決定やテーマの選択を含めて多くの影響を受けました。また個性豊かな先生方に囲まれ,「基礎医学の研究は自分の個性をそれぞれ生かしてやってゆくことができるんだ」という安心感と刺激を受けたようにも思います。

 当時生化学も分子生物学もすでに「方法論」となっており,早石先生も沼先生もやり方は違ってもお二人とも生物現象の根本的理解をめざして研究を進めておられ,新しい時代の息吹を感じました。そのことは早石先生の御後任で赴任された本庶先生のご研究からも強く思わされ,そのこともあり「一度医療を通して人間・生命の本質を感じる中で研究を選びたい」と思うようになりました。そして2年間第一線の救急病院(神戸中央市民病院)で内科研修を受けました。その間に神経研究の必要性と興味を覚え,大学院は迷わず中西重忠先生の門を叩きました。その後 UCLA 留学から中西研助教授時代に初期発生の研究を進め,現在は発生を通しての神経系の多様性の問題に取り組んでおります。将来的には動物行動が遺伝子にどのように刻まれるかを知りたいと思っております。

 医化学で学んだアカデミズムを何とか今度は次世代に伝えてゆきたいと奮闘しております。それは決して昔の医化学のまねをしてゆくことではなく,その時代時代のなかで「妥協のない本質を目指した研究」のために教官も院生も一緒になって努力してゆくことのなかにあるのでは思っております。諸先輩方には今後ともよろしくご教示のほどよろしくお願い申し上げます。(1982.6~1986.6 京都大学再生医科学研究所 再生統御学 教授) 

きわめて真面目なそして優秀な笹井氏の性格がよくわかる文章です。早石先生、そして沼先生は京大医化学教室を代表する有名な基礎医学者たちです。wikiの記載を見ます。

1986年3月に京都大学医学部を卒業し、「一度医療を通して人間・生命の本質を感じる中で研究を選びたい」ということから同年6月より2年間の研修を受ける[45]。「これからの医学に必要なことを肌で感じたい」という気持ちがあり、研修先は大学病院ではなく神戸市立中央市民病院[46][47]を選ぶ。研修中には、運動機能に障害を持つ筋萎縮性側索硬化症や脊髄小脳変性症などの患者も担当している[48]。


笹井は研修を通して神経の難病に治療法や特効薬がないことを認識し、脳[48]や神経系[45]に興味を持つ。臨床医としての研究に限界を感じたこともあり[48]、基礎研究を志して1988年に京都大学大学院医学研究科へ入学。中西重忠の下で研究に取り組み[45]、複雑でありながら極めて精密に構築されている脳の不思議に魅了される[48]。1993年に、京都大学博士(医学)を取得する

1993年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) 医学部客員研究員の機会を得る。渡米時にはパスポートを盗まれて苦境に立つが、無事に再発行を受けることができ、エドワード・デロバティス(英語版)の元で1996年まで研究を行う

 初めて笹井氏の存在を知ったのは、CellやDevelopmentの論文です。その頃笹井氏はUCLAのEddy De Robertisのところで研究をおこなっていました。De Robertisは南米ウルグアイ出身アルゼンチンで学位取得という異色の出自ですが、イギリスのジョン・ガードンのラボでカエルを用いた発生生物学を学びました(ガードンは2017年ノーベル生理学医学賞を山中伸弥氏と共同受賞した)。笹井氏はEddyがUCLAで持った研究室に留学し、そこでおこなわれていた胚操作による古典的な発生生物学に分子生物学的な実験方法を重ねて、次々と画期的な仕事をおこなっていました。師のEddyのセミナー講演を何度か聞きましたが、笹井氏を「Yoshi」と呼び、彼の出したデータを紹介しながら絶賛していたのを思い出します。Eddyのラボには何人かの日本人研究者が留学していますが、Eddyが手放しで褒め称えたのは笹井氏だけだったと聞きます。

笹井はハンス・シュペーマンが発見した形成体(オーガナイザー、シュペーマン形成体とも言う)から分泌される「神経誘導因子」の分子実体とその作用機構の研究に取り組む[13]。


笹井はわずか一月程でコーディン遺伝子を作るクローンを発見し、さらにこのコーディンがシュペーマン形成体から分泌される発生シグナル物質であること、神経以外の他の細胞へ分化するのを抑制するシグナルを出すことを発見した。シュペーマン形成体は1924年に発見されて以降、その作用の仕組みが明らかになっていなかったが、笹井によって解決された[13]。このコーディンの発見は、神経発生学の入門書でも取り上げられている[51]。

このchordinの同定は本当に影響が大きく、京大の研究者としては細胞接着因子cadherinを同定した理学部の竹市雅俊教授の業績に並ぶものだと思います。De Robertisが研究支援財団として有名なHoward Huges Medical Institute (HHMI)から長期に渡って莫大な助成金を得られたのも、笹井氏の貢献があったからといっていいでしょう。笹井氏は3年間の留学を経て帰国し、京大に戻ります。

1998年頃から、自己組織化研究を本格化させ、10年程かけて自己組織化の実験系の確立に取り組む[28]。なお、この間、2000年理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター (CDB:Center for Developmental Biology) において、グループディレクターを兼任し、2003年には専任となった[46][47]。この過程で、2005年には高橋政代とES細胞による網膜の分化誘導に成功し、2006年にはES細胞から視床下部前駆細胞を分化誘導させることに成功[7]。マウスES細胞から外胚葉へ分化誘導する遺伝子XFDL156を発見し、2008年のセル誌に発表した[52]。


また、2007年にはES細胞の大量培養法の開発や、神経系細胞の効率的な作成を発表[52]。ES細胞の培養方法においてバラバラにしたヒトES細胞の死が問題になるが、笹井のチームはRhoキナーゼ (ROCK) というリン酸化酵素の活性化が原因であることを発見。Rhoキナーゼ阻害剤 (ROCK-Inhibitor[53]) を培養液に添加することにより、ES細胞を大量培養することに成功している[7](従来1%の生存確率が27%に向上[53])。


さらに2011年4月7日付の英科学誌『ネイチャー』にマウスのES細胞から網膜全体を作ることに成功したことを発表。ES細胞から網膜を立体的に作ったのは世界初の試みであり[54][25]、「この分野を一変させた」と高く評価されている[13][注釈 3]。また、2012年には様々なホルモンを分泌する脳下垂体についても、立体的な形成に成功する[7]。これら一連の研究により、2009年から2012年にかけて文部科学大臣表彰[55]、大阪科学賞[46]、井上学術賞[56]、塚原仲晃記念賞[57]、山崎貞一賞、武田医学賞[29]などを立て続けに受賞した(節「受賞歴」も参照)。

この間、笹井氏は順調な出世をしていきます。理化学研究所 発生・再生科学総合研究センターは理研が関西の拠点としてポートアイランドに築いた新規研究所で、京大理学部の竹市雅俊教授を中心にグループ構成が決められていきました。


1996年6月 - 京都大学医学部助教授(生体情報科学講座)
1998年5月 - 京都大学再生医科学研究所教授(再生統御学部門 再生誘導研究分野)
2000年5月 - 理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター細胞分化・器官発生研究グループ ・グループディレクター兼任
2003年7月 - 同、専任
2010年 - 理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター器官発生研究グループ グループディレクター
2013年4月 - 理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター 副センター長


しかし、このCDBに来てから、笹井氏にとって思いも掛けない事態が起こりました。それは2006年の山中伸弥氏によるiPS細胞の確立です。従来全能性がある培養幹細胞はES細胞だけでした。ES細胞は、胞胚期の内部細胞塊という元々全能性がある初期胚の組織から取られており、その性質をそのまま受け継いだ自然の全能性幹細胞です。問題はES細胞をとるときに胚を壊す必要があることで、ヒトに応用するのは倫理的側面から困難がありました。ところがiPS細胞の成功で、体細胞ならほぼ何でも初期化(=全能性細胞の樹立)することが遺伝子導入で可能になりり、ヒトへの応用の障壁がなくなりました。CDBは日本語でこそ「発生・再生科学総合研究センター」ですが、英語ではCenter For Developmental Biologyすなわち「発生生物学研究所」です。再生すなわちRegenerative Scienceはありません。実際CDBでの研究内容もセンター長の竹市雅俊氏を中心とする発生生物学が中心でした。京大・再生医科学研究所の山中伸弥氏はiPS細胞の樹立成功で、一躍再生医科学の寵児となりました。そして2012年にはノーベル生理学医学賞を上記のジョン・ガードン氏と一緒に受賞しました。笹井氏はCDBでは数少ない再生科学系でしたが、ES細胞を用いた研究でした、山中氏のiPS細胞の成功で、世の関心は一挙に京大・再生医科学研究所に向かい、笹井氏がCDBの存立に強い危機感を抱いたことは想像に難くありません。実際政府へのSTAP細胞の売り込みで笹井氏が用意したと言われる書類イラストでは、iPS細胞に対してSTAP細胞の優位性を強調したものでした。iPS細胞の遺伝子導入が「」に例えられ、まるで牛車で引かせるように細胞が無理矢理万能性に向かわされています。(NHKスペシャル「調査報告 STAP細胞 不正の深層 」より)


ところが、STAP細胞は弱酸性条件という「魔法の杖」で一瞬にして万能性を持つように描かれています。

ここで擬人化された細胞が手に持っているのはY字構造からみて抗体のことかな?つまりTリンパ球でなくBリンパ球?よくわからんが、分化した細胞が初期化されると言いたいのでしょう。これまさか笹井氏自身が描いたイラストとは思いませんが、彼はこれをもって政府の会議で説明している以上その記載を容認していたはずです。山中の因子を牛に例えて「のろい変化」と表現するのは、笹井氏が「万能幹細胞研究で遅れをとっている」と相当強い焦りがあったからでしょう。



しかし、2月以降Nature論文の実験に関する疑義が表面化し、STAP細胞の存在自体が疑われていきます。3月におこなわれた笹井氏の上原賞受賞も、東京の財団本部に来てすぐ帰ったと言われます。上原賞は大正製薬の上原財団が主催する日本の民間財団の賞としてもっとも大きなもので、受賞時には講演をすると同時に懇親会で日本の著名な研究者達との交流もあるというのに。


3月11日には「なぜ、こんな負の連鎖になるのか、悲しくなってくる」と新聞記者に吐露し[76][77]、竹市雅俊センター長には副センター長の職を辞したい旨を伝えていたが、調査中のため辞職は認められなかった[78][79]。精神的ストレスのため心療内科を受診し、持病の「急性増悪の併発」*も重なり[80]、同月から1ヶ月ほど休職(傷病休職)して入院していた。退院後の4月16日には記者会見を開き、謝罪を行った[81]。会見前には「できるだけ率直にお話ししたいが、理研の立場の範囲だと思う」と述べ、会見には普段あまり付けない理研のバッジを胸にして臨んだ[82][83]。


*註 持病の「急性増悪」は医学的にみておかしい記載・意味不明


会見では「STAPは最も合理性のある仮説」として科学的説明を行い、ハーバードとの関係や研究の変遷について事実関係を明らかにしたが、責任逃れと批判されることにもなった[84]。笹井の管理責任は厳しく指摘され[37][38]、6月12日には理研改革委員会から「笹井氏の責任は重大」として幹部退任を提言されるなど[注釈 6]、笹井への批判は強まっていた[85][86][37][19][注釈 7]。研究予算の使途など疑惑は深まり、6月30日には科学的な疑義を対象とする新たな調査が始まることになる[87]。

同年7月25日には(笹井氏は)研究の議論も成立しない状態に陥り、研究員から報告を受けたセンター長の竹市雅俊は健康管理室に相談、笹井を医師に受診させることを勧められていた[79]。丹羽仁史や小保方晴子の検証実験が注目される中、7月27日にはSTAP事件の特集がテレビ放映され、笹井についても大きく取り上げられ[32]、8月4日の理研の声明でも新たな調査結果に伴って、共著者の処分が大きく変わることが言及されていた[95]。


8月5日午前8時40分頃、神戸市中央区にある理化学研究所発生・再生科学総合研究センター (CDB) と通路でつながった先端医療センターの研究棟[注釈 8]の4階と5階の間の踊り場で、手すりにくくりつけたひも状のもので首吊りになった状態で発見され、医師が死亡を確認[10][11][97][注釈 9]。同日午前11時3分、警察に通報後に搬送された搬送先の神戸市立医療センター中央市民病院で正式に死亡が確認された[10][11][97]。兵庫県警察は自殺とみており[10][11][97]、現場のカバンの中や、秘書の机、自宅に複数の遺書が残されていた[注釈 10][100][99][98]。52歳没。理研と家族で対応を検討し始めていた矢先の出来事であった


この事件後、生前笹井氏が懸念していた通り、理研CDB全体に対する風当たりは急速に強くなりました。2014年11月のM3のニュースです。CDBは解体こそ免れたものの解体的出直しといってよく、その構成は大きく縮退しました。

STAP細胞についての研究不正に伴い、理化学研究所は11月14日、不正のあった理研発生・再生科学総合研究センター(CDB)について、研究室を40から20に半減し、職員を439人から329人に減らした上で、「多細胞システム形成研究センター」と名称を改めることを発表した(発表内容は、理研のホームページ)。組織改編は11月21日付。センター長は、来年3月をめどに決める。英語名は、Center for Developmental Biologyのままで、組織改編前と変更しない。


 CDBユニットリーダーで、不正の確認された小保方晴子氏については、理研の研究不正再発防止改革推進本部内の検証実験チームにおける「研究員」という肩書となる。処遇の変更については、理研広報は「個人情報であり、答えられない」としている。


 新組織の「多細胞システム形成研究センター」には、(1)細胞環境応答研究プログラム、(2)器官創生研究プログラム、(3)幹細胞臓器再生研究プログラム、(4)発生・数理科学研究プログラムの4つに加え、世界で初めて自己由来のiPS細胞の移植手術を実施した高橋政代氏らの「網膜再生医療研究開発プロジェクト」が紐づく。理研広報は「応用を見据えた、目的志向の基礎研究に特化した」としている。英語名については、「1つの受精卵から多細胞体の生物を形成する過程を研究する」という研究目的に照らし合わせて、「Developmental」の単語を残すこととしたという。


 新組織に入らなかった110人は、理研の生命システム研究センターやライフサイエンス技術基盤研究センターなどに全員が移り、「雇用は維持された」(理研広報)という。センター長については、既に選考委員会が検討を始めている。決定までの間、生命システム研究センター長の柳田敏雄氏が、職務を代行する。