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昔の京大医学部受験生のブログ(2)

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昔の京大医学部受験生のブログ(4)〜私の感想
「数痴と受験数学」


医学部だけでなく、難関大学の受験では数学の成否が合否を分けると言っても過言でないでしょう。少なくとも数学が全然できなかったけど合格したという話は、よほど数学の出題が難問揃いの時しか聞きません。東大や京大の入試でも、過去に稀なケースとしてあったくらいでしょう。何と言っても数学は1問あたりの配点が大きく、ほとんどの場合「全か無か」の採点になります。「数痴」にとってまことに苦しい流れなのが、大学受験です(「数痴と受験数学」参照)。その点「(有)伯商会」さんは受験数学の才能があったようで、羨ましい限りです。しかし、それでも京大入試がただ者ではないことがよくわかる記述です。また「仮面浪人」の苦労もよくわかります。私も経験したので。


さて、曇って静岡県立大学薬学部に入学して、生活はだいぶ変わりました。この大学は地方の新設大という事で(ルーツは古いですが)、実績が全て、すなわち薬剤師国家試験の合格率が全てなのです。というわけで、一年から専門ががんがん入って、授業は出席重視。朝9時の一限に間に合うように家を7時には出て、そして家に帰るのは六時過ぎ。薬学の専門知識として覚えることも多く、大学だけでかなり大変な生活が始まりました。


当初から仮面浪人、すなわち薬学部の勉強と並行して京大医学部受験も狙おうと思っていた私は当然のように私は入学してすぐに受験勉強のほうも再開させました。それにしても、大学だけでもう大変、家に帰るとくたくた、それでも夜から深夜にかけて受験勉強、2時には寝て、翌日は6時に起きて、大学にいく、そんな忙しい生活が始まりました。さすがに入学当初はぶすくれてました。京大医学部にチャレンジしてた俺が何でこんなところにいなけりゃならないんだなんて思ったことも多々ありました。でもまあ、そんなこと人に言ったら明らかに嫌なやつですし、そもそも県立大を第一希望で入った学生にとっては私の入学動機などは失礼極まりないものです。時々話に聞きますが、中期日程など医学部不合格者が集まる大学では医学部落ちのこうした妙なプライドの持ち主が、第一希望で入学した学生と衝突すると言う話もよく聞きます。当然ですが、仮面浪人者というのはあくまでも邪道を行く者であり、一般学生にとっては失礼極まりない存在であるというのは仮面浪人を決意した人は考えておく必要があると思います。私自身は医学部再受験など全く口には出さず、表面上はちょっと内気な薬学部生という訳で、まじめに大学生活を過ごしていました。


その年はさすがに今までの教訓から、数学で失敗しても他科目、まあ英語と国語は安定してましたから、特に理科で十分埋め合わせがつくよう、特に理科を重点的に勉強していました。理科はやればやっただけ成績上がるというわけで、Z会やら、市販の問題集やら、地道に潰しつつ、休日には模試を受けつつ仮面浪人生活を過ごしてゆきました。忙しい生活でしたが、人間どんな状況にも慣れていくもんだな、と自分の適応力にちょっと感心したりしていたのもこの時期です。

そしてそんな生活に慣れるにしたがって、私の考え方もだいぶ軟化してきました。入学当初はやはり医学部落ちの劣等感と、それが裏返った妙なプライドを抱えていた私ですが、この大学のクラスメイトとも仲良くなり、ここもいい大学だなあと、そんな風に思うようになりました。もしかしたらここを卒業する事になるかもしれないということもあり、県立大での勉強に手を抜くことはめったにありませんでしたし(まあ、普通の大学生並に)、友達とも再受験の事こそ言いませんでしたが普通に楽しく付き合ってました。今考えてもこの大学は静岡という気風そのままの、暮らしやすく居心地のいい大学だったと思います。それに加えて、実際に考えもしなかった大学に籍を置いて人間関係も出来てみると、自分の今までの考え方はやはり偏差値に毒されていたんだな、ということにも気づいてきました。地方の小さな大学ですが、学生や教授陣のレベルにはかなり高いものがあると思いましたし、今まで「京大医学部」しか見えていなかった私の視野が以下に狭かったかと言う事にも気づかされました。おそらく傍から見たら私は「授業が終るとすぐ帰っちゃうけどいろいろ要領よくこなしている地味なやつ」くらいの印象だったと思います。私にとって県立大時代は何事にも変えがたい「経験」を得た貴重な、そして愛すべき1年間だったと今でも思います。


そして夏も過ぎて、秋になり、大学では様々な実習が始まりました。この実習というやつが曲者で、ひどいときは夜8時頃までかかり、とにかく時間的拘束が大きいという、私にとってはかなりのピンチな代物でした。しかも11月は受験生にとっては特定大模試のシーズン、私にとってこの11月は再受験生活の中でも最も忙しい月となりました。大学は平日5日、ひどいときは夜8時過ぎまで実験室にこもって実験、帰宅したらその日の内にレポートを仕上げなければなりませんから、とりあえずそれを書き上げてから受験勉強。4つの土日と、勤労感謝の日はほぼ全て河合のOP、駿台の実戦、代ゼミのプレなど計7つの模試で埋め尽くされるというまさに寝るまもないほど忙しい1ヶ月が始まりました。しかも、大学の専門「分析化学」の中間テストまであるというおまけ付き、ちなみにこの月に受けたのは、京大OP、京大プレ、京大実戦、東大OP、名大OP、東北大OP、阪大OPでした。いくつかの模試は日程がかぶっていたため、静岡、浜松で模試の日程が異なることを利用して、休日は時には静岡へ、次は浜松へと県内を動き回っての受験、さすがに12月に突入した時には「自分で自分を誉めてやりたい」くらいの脱力感に襲われました。しかし、忙しいながらも地道な勉強の成果がここに出てようやく開花し、東大OPが理ⅢB判定、阪大OPで医学部がB判定だった他は、すべて医学部A判を出す事が出来、京大実戦では医学部11位、東北大OPでは英語で1位をとり、名大OPもトップ20入り、京大プレテストでも英語3位を取り、ようやく自分の実力がピークに向かってるなあという実感が出てきたのでした。地道に対策を立てていた京大対応型模試でいい結果を出す事が出来、さらに全く対策を立てていない他の模試でもそこそこの結果を出せた事で、これからのセンター、そして二次試験に対して「今年はいける!」という自信も出てきました。


しかしそれでもさすがに焦燥感はありました。自分自身が県立大という仮の進路に立ち、もし今年の受験に最悪2連敗したら俺はまたここで1年を過ごさなければならない、俺はその時また今のように勉強できるのだろうか、そんな不安を常に感じ続けていました。医学部受験に限らず、大学受験に100%という事はありえない、当然のこの事実をどれほど恐れていたことでしょうか。私は決して県立大が嫌なのではありませんでしたが、少なくとも県立大は京大ではないし、医学部でもありません。仮にも今年また失敗したら私はまたここで京大コンプレックスを抱えながら過ごす事になる、そんな苦しい生活は嫌だ、いつもいつもそんな不安がふとした瞬間に俺を襲い、軽いノイローゼ気味になった事もありました。自分の将来がはっきりしないという不安、そして迫ってくる受験への不安に押しつぶされそうな毎日が続きましたが、私自身はそんな不安を積極的に人にぶつけるタイプではありません。むしろ自分の中に押し込めて処理をしてゆくタイプの人間です。そんなときに、私を気遣いながらも普段どおりに応援してくれた家族や高校時代の友人は私にとって大きな助けとなりました。数々の不安と葛藤を受け流しつつ、街には木枯らしが吹くようになり、静岡特有の冷たい冬の訪れを感じるようになりました。


年が変わり、3度目のセンターの時期がやってきました。その年はセンターの対策も万全にした結果か、点数は800点満点中721点、取り立てて高得点ではないですが(この年のボーダーくらい)、ビハインドにはならない点です。2月、大学の試験も終了、薬学の専門にドイツ語と一般教養と全て規定の単位を習得した実感も得て、今度こそ油断することなく、前期に向けラストスパートを始めたのでした。大学が春休みに入った2月、今まで俺がやりこんできた模試やら問題やらを復習し、もう俺に京大医学部を受けるのに足りない知識はない、絶対大丈夫だ、去年のように油断は全くないし、とにかくこの1年はほんとに勉強した、あとは本番あるのみだ、と、自分を励ましながらあっという間に2月後半がやってきました。


そして満を持して私は上京。三条に宿を取り、何度目かになる大学見学、そして翌日、ついに前期試験当日となりました。歩いて医学部キャンパスに向かうと、キャンパス内には、去年、そして一昨年のように、有名進学校の一団だと思われる集団や、いかにも頭がきれそうな受験生が最後のチェックにいそしんでいます。昔の私だったら、こんな所に田舎高校の俺が、と畏縮してしまったものですが、今年は1年間、ほんとに死ぬ気で勉強し、結果も出してきた事もあり、実力、勉強量については絶対誰にも負けない、そんな自信さえ抱くことが出来ました。去年の俺と比べて実力、そして強さに関して、比較にならないくらい成長したはずだ、それは全てこの日のためなんだ、と自分に言い聞かせ、試験場である基礎第一講堂に入室、いよいよ試験が始まりました。午前の国語は及第、合格点以上は取れた自信がありました。そして午後の数学です。京大数学は難問が多く、得点差が最も大きく出る科目ですが、私は一番得意な数学で一気に自信をつけたい所でした。そして試験開始、しかし…第1問目から全く解けません。そして第2問目に行っても解けなかった第1問が気になってまったく考えていない、第3問、4問、解答用紙はパラパラめくってはいるものの、はっと気がつくと何も考えていない、そんな自分を発見し、また問題に見入る、しかし解けない、全然解けなくて頭が真っ白、試験終了時間が近づくと頭の中は「もうだめだ、これで不合格」というプレッシャーで埋め尽くされ、結局パニクったまま2時間半が経過、試験は終了しました。頭が真っ白になりました。まさに頭が真っ白、自分がまさにそういう状況を経験する事になるとは思いませんでした。高得点者の争いとなる京大医学部の場合、数学で大失敗するともはや他の科目が満点でももう合格の可能性は全くありません。思考が停止したままホテルに帰り、ベッドに倒れこみました。人生で衝動的に自殺したくなったのはこの時が最初で最後です。


私はこれまでの県立大での壮絶な掛け持ち生活をやりぬき、結果を出してきた事でかなりの自信を持っていました。努力は報われるはずだ、そして俺はこれだけ努力したのだから絶対受かるはずだ、と。俺のこれまでの努力、そして医者になりたいという夢、京大で大学生活を送りたいと言う3年越しの夢、それが数学2時間半の間に完全に突き崩されてしまい、立ち直れないほどのショックでした。この世界に神はいないのか、努力しても所詮報われないのか、そんな思いでいっぱいで、ただただホテルのベッドで泣きました。二日目、死んだ気力を何とか奮い起こし、無気力のまま英語と理科を受け、その年の私の医学部受験は終わりました。新幹線の窓から去り行く京都の情景も私には何の情緒も感じられませんでした。結果は不合格でした。


後期ですが、京大医学部後期は定員10人に京大医学部前期落ちに加え、東大理Ⅲ落ちや阪大医学部落ちが集結する全国最難関、受かるはずがないということで、私は京大の薬学部を設定していました。前期落ちたのだから後期に向けて勉強しなければならない、当然の事ですが、しばらくは、私がもし仮に受かったとしても医学部に行くためには最低また1年受験勉強をしなければならない、というあまりにも重い事実のため、何の気力も湧いてこない状態でした。再受験1年の長さ、これは去年1年間私が県立大で仮面浪人をしてよく知っています。廃人同然だった私でしたが、この時実家近くのファミリーレストランで深夜に親と話し合った事をよく覚えています。また来年受ければいいじゃないか、自分でやる気があるなら来年また医学部を受ける事は全然構わない、でもとりあえずは後期試験に全力を注がないとこの1年間の努力がもったいないよ、と母親に励まされました。自分のベストは尽くさねばならない、もう前期のことは忘れて、たった数日でしたが私の後期に向けてのチャレンジが始まりました。そもそも後期京大薬学部、そのときの私にとって、京大に行くのだったらもう残りはそこしかありません。忘れようとはしましたが、前期のショックを引きずりながらも何とかテンションを立て直し、3月中旬、再び京都に向かいました。


試験場は薬学部記念講堂、もはや京大入試に恐怖を感じていた私でしたが、開き直ったのが功を奏したのか、パーフェクト、とは言えませんが全体的には医学部引っかかるかな、くらいの出来です。しかし前期の事もあるので、もう打ちのめされるのは嫌だ、となるべく期待せずに合格発表を待ちました。なるべく期待せずに、とは言ってももはや私が京大にいける唯一の可能性、合格発表までがどれだけ長かったことでしょうか。そして合格発表の日、レタックスが届き、半ば県立大でもう1年過ごす覚悟を決めて開封し、番号を見てみると、…14番、あった!。なんと合格していました。たった10人の中に入れたことには自分自身びっくりしましたし、文字通り飛び跳ねて喜びました。神は俺を見捨てはしなかった(私は無神論者ですが…)少なくとも救いの手はくれた、とレタックスを見て涙が出てきたのを覚えています。今まで俺が落ち続けてきた京都大学、薬学部とはいえ、その京都大学に俺は入れるんだ、医学部ではないけど自分がここまで追い求めてきた京大に何か自分の求めるものが見つかるかもしれない、そんな思いでその時京大薬学部入学を決意しました。県立大学は必然的に退学する事になり、その日のうちに担当教授に直談判し、退学届けを提出しました。県立大学で出あった数々の友人との別れはほんとうに辛いものでしたが…。