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大阪大学、ノーベル賞まだゼロの不運

日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか2(4)〜筋収縮の生物物理1


日経新聞の記事です。確かに旧帝大で大阪大学と九州大学の2校はまだノーベル賞の自然科学部門の受賞者がいないです。その2校で大阪大学は受賞まであと一歩とあった研究者が多いという話です。


 戦前の理学部の菊地正士教授の「電子を雲母に照射することで干渉縞」は確かに惜しかったですね。素粒子に粒子と波の2つの性質があることを示しています。湯川秀樹氏の「中間子論」の発見は、主に大阪帝大の講師の時の仕事だったと思うのですが、受賞は京都大教授になってからでした。


 花房秀三郎先生のsrcの業績は、京都帝大の藤浪先生の雪辱を期すものでしたが、残念でした。

例えば、卒業生で米ロックフェラー大学教授だった花房秀三郎は77年、正常な細胞にもがんを引き起こしうる遺伝子が備わっていると証明した。ノーベル賞の登竜門とされる米ラスカー賞を82年に日本人として初めて受賞し、期待が集まった。


しかし89年の生理学・医学賞を受賞したのは、がん遺伝子研究で先に成果を発表した米の科学者2人だった。花房はほぼ同じころに証拠をつかんでいたが、追試を繰り返して発表が遅れた。研究者の間では「花房が決定打を放った」が常識となっている。弟子で名古屋大学学長などを務めた浜口道成によると、ノーベル賞のことを聞くと「早く発表した方が受賞するのは当然」と振り返る一方で「実証したのは私だ」と自負心を見せたという。

あとは、アポプトーシスの長田氏と自然免疫のTLRの審良氏。どちらもかなり近かったですが、受賞機会を逸しました。

「ノーベル賞に最も近い日本人」。90年代後半から2000年代にかけて、特任教授の長田重一や審良静男に期待が集まった。


長田は役割を終えた古い細胞が自ら死ぬ「アポトーシス」という現象を分子レベルで解き明かし、1998年に発表した論文は引用回数が日本人として初めて世界一になった。


2002年10月7日夜、長田の研究室に報道各社が集まってきた。直前に生理学・医学賞の受賞者が発表され、アポトーシスを発見し、関係する遺伝子を突き止めた英米の3人に決まった。ある記者が「残念でしたね」と切り出すと、長田は発表があったことを知らず「何が?」と質問した。「好きだから研究しているのであって賞は二の次」と残念がるそぶりを見せない。


審良も「自分の成果は最初ではなかったし、受賞すると思っていなかった」と明かす。病原体が侵入した際に最初に攻撃を仕掛ける「自然免疫」のカギとなるセンサーの働きを次々と解明し、論文の引用回数の合計は05年から4年連続で世界のトップ10入り、うち2回は1位だった。しかし、受賞した米の科学者より4カ月遅れた。元学長の岸本忠三は「自然免疫に最も貢献したのは審良だが、どちらが最初かという点で負けた」と話す。


1分子イメージングの柳田敏雄氏はどうでしょうか。おもしろいと思いますが、柳田氏が主張する「ルースカプリング説」には真偽は措くとして、欧米の反感が強いように思います。


明日からいよいよノーベルウィークですね。今年、日本人の受賞者は果たして出るでしょうか?