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林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(1)

林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(2)
林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(3)
林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(4)
林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(5)
林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(6)


日大とはほとんど関係ない私ですが、前理事長の田中英寿のスキャンダル後も一向に収束しない日大の現状に注視しています。ある意味、衰退の一途をたどる日本の不甲斐なさを鏡映しにしていると感じるからです。


 今でこそ早稲田や慶應は私学の雄として確固とした地盤を築いていますが、創立当初の経営はまことに大変でした。慶應などは西南戦争の頃に経営危機を迎えています。慶應義塾のサイトから引用します。

明治の初め、慶應義塾の塾生はほとんどが士族でした。そのため1871年(明治4年)の廃藩置県、1877年(明治10年)の西南戦争など、士族の生活を大きく変える出来事が起こる度に、慶應義塾の経営は厳しくなっていきました。『慶應義塾略史』によると、明治6年には10,446円70銭(現在の約1.3億円相当)あった収入が、 明治10年には5,226円(現在の約4,700万円相当)余と半減してしまいました。

要するに入塾生の大半を占めていた士族階級が、この戦争を機に没落して学校に通うお金がなくなってしまったのです。

福澤先生は経営難を乗り越えるため「教員を半分に減らそう」と提案しました。それに対し、当時教員だった鎌田栄吉(後の文部大臣)は「教員を半減させては、番頭が並んでいない呉服屋のようにさびれていく。教員の給料を半額にしよう」と申し出ます。しかし、そこまで努力して経費を落としても、財政は極めて厳しい状態を脱することができませんでした。


福澤先生は遂に、幕末以来義塾の運営で苦楽を共にしてきた小幡篤次郎に、1880年(明治13年)9月頃、廃塾の意志を告げます。これに納得できない人々は、独自に資金集めを始めます。小幡篤次郎、阿部泰蔵、浜野定四郎、荘田平五郎、松山棟庵、小泉信吉、中上川彦次郎は連名で「慶應義塾維持法案」を作成し、”慶應義塾のこれまでの歴史は「世に益したるもの」であり、「私立」であることを維持しつつ教育体制を守るためには、「同志社中」に各の家産に応じ拠金を乞うのが唯一の方法である“と呼び掛けました。


翌年には寄付者を「慶應義塾維持社中」として、理事委員など運営組織を定めた「慶應義塾仮憲法」が制定され、寄付金は1881年(明治13年)12月から翌年5月までの申込総額が44,365円(現在の約2.5億円※3、4)に達しました。

社中協力が、廃塾のピンチからギリギリのタイミングで救ってくれたのです。

社中協力」の伝統はこの時に始まりました。今は経営危機が迫った私立大学が地方自治体にすがって公立化し、建て直しを図る例が散見されます。しかし、独立自尊の慶應義塾としては「お上を頼る」を潔しとせず、「廃校」の道も考えたわけです。私が思うに、初期の慶應義塾に入った者たちは、士族出身が多かったこともあって志が高い者が多かったのでないかと感じます。今でこそ「豊かな階層が通う大学」と揶揄されることもありますが、慶應の根底は「精神的な豊かさ」だったのでないでしょうか。今に至るまで慶應は日本の私学としては卒業生の寄付が集まる方なのも、この頃からの伝統なのでしょう。


 しかし、明治期から増えてきた私立学校はどうだったのでしょうか。日大の創立について日本大学のサイトから引用します。

日本大学は、1889年(明治22年)に創立された日本法律学校を前身とします。 欧米諸国の法律を学ぶことが主流の当時において、日本の法律を学ぶ学校として誕生した本学は、私学としての独自性を大いに発揮しました。 1903年(明治36年)には日本大学と改称し、1920年(大正9年)、大学令により大学となりました。

日本の法律は最初から独自に造られたものでなく、ドイツやフランスの法律を参照しています。「独自性を発揮」とは言いますが、先行している欧米の法学を学ばなくてもいいと言ってるようにも聞こえます。しかし、そうした実利志向のせいで、日大の法学部は第二次大戦前の高等文官試験(行政科)で数十年単位の総合格者数で早慶をも上回っていたようです。その結果は入学者数の増加を生んでいき、次第に大きな大学となっていきます。


 そして、日大のマンモス校化を推進したのが、第二次大戦後に日大の「会頭」として辣腕を振るった古田重二良です。今回調べて久しぶりにこの人物を思い出しました。1968年の東大安田講堂占拠事件を中心に昭和中期に燃えさかった大学紛争で、「悪の権化」として彼の名前が度々登場しました。
続きます