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林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(2)

林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(1)
林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(3)
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林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(5)
林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(6)


古田重二良がどういう人物だったか、wikiから引きます。

古田重二良 重二良(ふるた じゅうじろう、1901年(明治34年)6月23日 - 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の教育者。昭和時代戦後期の日本大学第四代理事長を歴任し、日大のマンモス化を達成した。私立大学の経営者(教育者)として昭和戦後期の高等教育機関が少なかったころに、マスプロ教育のシステムを導入して大学進学率上昇に貢献し、理系学部を重視した政策をとった。また戦後期に財界から期待されてサラリーマン育成機関となった日大のビジネス教育の推進、日本の大学経営における手法を確立した。大学闘争では最大規模となる日大紛争を招いた当事者。学校法人秋田短期大学(現・学校法人ノースアジア大学)初代理事長。

 日大の公式サイトから引用します。

私学は建学の精神を継承し、自主的な運営を行い、有為な人材を社会に送り出していますが、財政的には常に苦しい状態にありました。古田は、教育・研究と経営は一体であり、自ら財政基盤を強固にし、自立的な経営をなし得ぬかぎり、私学における学問の自由や研究の成果を期待することはできないと考え、財政基盤の確立に最大限の努力を注いでいます。戦後混乱期の日本大学の財政難を救うため、資金集めに奔走した古田ならではの考えでした。当時私学に対して国家からの助成金がほとんどなかったため、収入の増加をはかるために、学科の増設、学生数の増加、授業料の値上げを、時には思い切った方法で実施し、日本大学の財政を安定化させました。反面、急速な規模拡大は教育環境を悪化させ、日大紛争の要因ともなりました。

ここを要約すると、「古田氏は第二次大戦後衰微していた日大を建て直した上、さらに発展させた中興の祖」となります。私学の場合、高邁な教学の理想を掲げたとしても、財務が保証できなければ「画餅に帰す」結果となります。


 しかし、問題なのはたくさんの学生を集めて得た多額の納付金が、果たして学生教育にきちんと還元されていたのか?という問題です。大学は企業と違い、利益追求が目的でありません。財務が安定するなら、極力学生にその利益を返していくのが本筋でしょう。千人単位の大講義室での講義は、教育効果に疑問があります。


 1968年国税庁の調査で、日大の経理に20億円の使途不明金があることがわかります。日大教職員組合のサイトから引用します。

(1)20 億円使途不明金事件と日大紛争

使途不明金事件は、日本大学の歴史の中でも、組合の発展の中でも、大学の状況を大きく変化させたという点で最も重大な事件であった。裏口入学金に関する小野竹之助理工学部教授の脱税問題に端を発して 1968年2月と3月に各部科校に東京国税庁の源泉徴収に関する査察が入り、新たに 20 億円の使途不明金があることが判明した。査察直後に経済学部会計課長の富沢広氏が失踪し、理工学部会計課徴収主任の渡辺はる子氏が自宅で「潔白」との遺書を残して自殺した。

 所謂政界の汚職疑獄事件とそっくりで、自殺者も出しました。一般に「潔白」を訴えて自殺する場合、自殺者はほぼクロです。

この査察結果の一部が4月 14 日にマスコミによって報道され、国会でも取り上げられることとなった。大学当局は、緊急理事会を開き「刷新振興委員会」を設置して刷新案の作成に着手した。組合も早期解決のために理事総退陣の勧告を行い、「特別調査委員会」を設けてその問題の調査に当たり、7月にその調査結果を公表した。

 この使途不明金事件を切っ掛けに在学生の追求が始まりますが、ここに古田重二良のもう一つの黒い顔が出て来ます。
再び日大教職員組合のサイトから引きます。

1968年当時、日本大学は「20億円の使途不明金」を指摘されるほど腐敗していたが、他にも欠陥や問題点を抱えていた。例えば会頭の古田重二良は、日大が学生運動のない大学だと自慢していたが、校舎や大学周辺では高い詰め襟の学生服を着た応援団や右翼体育会系学生たちが大手を振って闊歩し、赤い服の学生に「お前、アカか」といって脅すような環境だった。大学当局は日大で学ぶ学生の自由な活動を「暴力」によって萎縮させる行為を容認し、支援もしていた。大講堂での授業はいつも定員を上回り、休息できるキャンパスなど何処にもなかった。

そんな日本大学の「暴力」を背景にした学生支配に、多くの日大生が不満を抱きながらの大学生活をおくっていた。日大闘争が沸騰するまで、学生たちは秋田明大と同じように大学当局と右翼・体育会系学生が結託した威圧的な「暴力」支配を幾度となく目の当たりにして辟易としていたのだ。

秋田明大氏は後の日大全共闘の議長を務めました。「彩流社」のサイトから引きます(出版社の「彩流社」)。

日大闘争への助走路となった暴力事件の顚末を、秋田明大議長へのインタビューから知らされた。秋田明大議長は「そもそも日大闘争を起こそうと思った切っ掛けは何だったんですか」と問う私に、こう話してくれた。


「秋田 1967年に経済学部学生会が主催した新入生歓迎会のときに目の前でね、許せん事件が起こったからなんだ。私が進学した経済学部では、その頃はサークルを中心にして大学のなかで活動をしていたんだよね。そのサークルの一つを運営していた学生会の藤原執行部が、その年の4月20日の新入生歓迎会で暴力的に弾圧される場面を見ていて、この大学は情けないいうんか、どうしようもないなっていう思いを強く持ったんだ。あの時は、講演に来てくれた羽仁五郎さんも少しやられたんじゃないかな。そりゃあ、めちゃくちゃでしたよ。20人ぐらいの学生を黒い学ランを着た応援団や右翼の連中が大勢やってきて、会場の大講堂で講演を妨害したうえものすごい暴力を振るったんだよね。(中略)ショックだったよね。暴力がまかりとおる日本大学を変えなくちゃならないと思って学内で運動を始めたのは、その事件が切っ掛けだったんだ。」(『日大闘争の記録―忘れざる日々』第8号P15~16「全共闘はみんな自分で決めていた」より)

秋田明大が「学内で運動を始めたのは、その事件が切っ掛けだったんだ」と語った「事件」とは、どんな出来事だったのか。「事件」は日大闘争が沸騰する前年、1967年4月20日の「新入生移行生歓迎大会」で起こった。

当日「事件」現場にいた森雄一は、こう証言している。


 あの日の朝、経済学部で突然行われた学生証検査体制下で、新入生歓迎の「羽仁五郎」講演会場に校舎裏口から400人もの他学部生を中心とした応援団、空手、ボクシング、相撲部等の者たちが秘かに入館し、講堂の前席を占拠していた。そして羽仁先生が登壇したとたんに「全学連に結集しろ-経済学部学生会」との偽ビラをばらまき、そのビラを手にした者たちが一斉に「ジジイ帰れ、赤殺せ」と叫び、壇上に押しかけて執行部員に暴行を始めた。(中略)

 部の先輩であり、我々の代表である学生会委員長と執行部員たちが「不定の輩、国賊」と彼らに罵倒されて殴られ蹴られ、校内のあちこちに小突き回された挙句、学生会室に閉じ込められて「学生会を解散する同意書」に強制的に署名させられた。 (『日大闘争の記録―忘れざる日々』第9号)

恐るべき白色テロ!いったい、この暴力学生たちは何者なのか。これこそ、古田重二良が学内に培った反共産主義の右翼の学生達なのです。


 wikiから引きます。

日大は、極めて強い保守思想の持ち主である古田重二良の経営のもと、その潮流に乗って急速に膨張した。1968年(昭和43年)には学生・教職員総数15万を数える日本最大の大学となり、全国大学生総数の約1割を占めるまでに至った。


一方で、学習環境や福利厚生、教職員数はこれに追いついておらず、教育条件の劣悪さに学生たちの不満が高まっていた[5]。当時の大学の講義は500人から2000人程度の学生を入れた大教室で教員がマイクで話す形式(いわゆるマスプロ方式)が中心であり、教員の質も低く[注釈 2]、それにも関わらず授業料はしばしば値上げされた。その時の日大の学費は、当時の日本の大学の中でも特に高額であった。日大の学生たちは教育環境の改善を求める自治運動や学園の民主化、自治会の全学連加盟などを求める運動を行ったが、大学当局は「学生の指導を徹底強化する」「学内における政治運動は禁止する」と方針を打ち立て、これを抑圧した。また、当時の古田重二良会頭は日大柔道部出身であることから、大学当局は、日大学内の運動部や応援団の体育会系学生を優遇して、学内の学生活動を監視・弾圧する実行部隊として利用した


そう、これこそが、日本の右翼の重鎮古田重二良としての顔なのです。
続きます。