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林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(3)

林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(1)
林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(2)
林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(4)
林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(5)
林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(6)


古田重二良は右翼の強力な集団である「日本会」の重鎮なのです。「日本会」とは何か?安倍晋三などが加盟した「日本会議」とは違いますが、似たような性格でかつより強力な影響力があります。中央公論のサイトから引きます。

日本会は、日大が呼びかけ1962年12月に社団法人の認可を受け、設立された。知る人ぞ知る組織だ。社団法人から内閣府の認定する公益社団法人に改組され、今も存在する。ホームページを覗くと、理事長の向野誠がこう挨拶文を寄せている。


〈社団法人日本会が設立されてから現在まで、営々と流れる「総調和」の精神は、混沌とした世界情勢の中でますますその重要性が増しております。民族・宗教の対立、政治思想の対立、そして地球規模の気候変化、人口の増加と貧困問題......、「世界調和と人類繁栄」の構築という私共の掲げる「総調和」の精神は、古くて新しい、私たち人間の「生きる」というテーマの追及でもあります〉

しかし、「日本会」は日大だけでなく、広範な人脈があったのです。

日本会はその世話人が組織の性格を表しているといえる。


くだんの〈日本会世話人名簿(抜粋)〉には、錚々たる顔ぶれが並ぶ。いずれも戦後日本の政財界の歴史に名を刻んだ著名人ばかりだ。


総裁は佐藤栄作、戦後、日大を率いてマンモス大学に育て、中興の祖と呼ばれた古田重二良が会長に就いている。日本会は日大会頭の古田が各界に呼びかけ、結成された。世話人名簿にあるメンバーを列挙するだけで、壮観という以外にない。名簿の順に姓名を挙げると、次のようになる。


赤羽善治、東龍太郎西尾末広愛知揆一町村金五、塚田十一郎、大平正芳、市村清、足立正、御木徳近、柴田徳次郎、松下幸之助、堀田庄三、江崎真澄、村上元三、小佐野賢治、銭高輝之、小田原大造、中原実、藤山愛一郎、曽禰益、石田博英、西村直己、迫水久常、三木武夫、奥村綱雄、徳川夢声庭野日敬、堤清二、井植歳男、保利茂、椎名悦三郎、安藤楢六、永野重雄、鈴木享市、賀屋興宣、岸信介、灘尾弘吉、田中角栄、福田赳夫、安井謙植村甲午郎、和田完二、原文兵衛、藤井丙午、日向方斉、石田退三、中曽根康弘山岡荘八、大川博、五島昇


日本会には国会議員や自治体の首長だけでなく、大手企業の経営者やメディア関係者、宗教家や文化人、裏社会に通じるフィクサーにいたるまで、あらゆる分野の著名人が参加してきた。とても全員を説明する紙幅はないが、名簿順に少しだけ紹介すると、1人目の赤羽善治は60年代に九州電力の社長、会長を務めてきた財界人だ。福岡商工会議所会頭や福岡証券取引所理事長、日本経営者団体連盟常任理事を歴任してきた。

日本の保守派政治家だけでなく社会党右派、また財界人を含む広範な人脈を築いています。政財界のフィクサーと言われた小佐野賢治も出てますね。


60年代後半の日大紛争では、全共闘を中心とする左翼学生が絶対権力者である会頭の古田を追及した。学生たちは、古田の後ろ盾となっている日本会の保守政治家やそこに連なる右翼組織を意識せざるを得なかった。と同時に、古田の率いる大学執行部は運動部の学生を動員し、ゲバ棒に立ち向かわせた。応援団、空手部、柔道部、相撲部の屈強な部員たちだ。そして伝統ある日大相撲部の田中英壽は、そこに駆り出された一人だった。のちに日本一のマンモス大学理事長として無類の権勢を誇った田中の原点がここにある。


古田体制は日大闘争によって倒れた。詳しくは稿を改めるが、その40年後に生まれたのが田中体制である。


田中はある意味、戦後、古田が築き上げた日大の巨大な体制を継いだにすぎない。田中帝国と呼ばれた日大には、政官業の利権が渦巻き、相撲やアメリカンフットボールを中心にした運動部関係者が幅を利かせ、田中は理事長の座を盤石にする。


日大にはやがて得体の知れない取引業者や暴力団関係者が出入りするようになり、大学そのものを食い物にしていく。



続きます。