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日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(4)〜慶應医学部生理学教室の源流(3)

日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(1)〜京都大医学部 藤浪鑑(あきら)先生
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(2)〜慶應医学部生理学教室の源流(1)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(3)〜慶應医学部生理学教室の源流(2)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(5)〜慶應医学部生理学教室の源流(4)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(6)〜慶應医学部生理学教室の源流(5)


前回述べた加藤元一の「伝導不減衰説」を不動のものとした1935年の第15回万国生理学会議ですが、当時の加藤の弟子達も連れて行ったようです。その中に冨田恒男や田崎一二(いちじ)の名前があります。田崎一二については後述しますが、冨田恒男先生はこの時すでに慶應にいたのかとびっくりしました。実は私が在学当時、冨田先生は女子医大から生理学の講義に来られていました。当時第一生理学教室は視覚の電気生理学が中心で、冨田先生はカブトガニの眼を使った研究を話されていました。加藤元一なんて大昔の人かと思ってましたが、意外とそうでもなかったのか。話は脱線しますが、冨田恒男先生は愛知県岡崎市出身で、シンセサイザーの作曲家として有名な冨田勲と親戚関係になります。冨田勲のご子息が今春慶應義塾大学環境情報学部を定年で退職した冨田勝教授です。皆さん全員が慶應義塾大学の卒業で、他にも冨田一族で慶應の関係者は何人かいます(医学部にも)。


 杉先生の本から大幅に逸れてしまいましたが、杉先生が嘆くのは日本の生理学者たち特に東大医学部関係者たちの傍観者ぶりです。杉先生は東大医学部生理学教室に入職してから、この不減衰説の論争を知ったそうですが、当時の教授達は昭和天皇ですら関心を抱いたと言われるこの論争にまったく無関心だったようです。特に厳しく指弾しているのは、本ではW名誉教授となっている若林勲氏(1901年~1988)です。若林氏は東大医学部第二生理学教室の教授でしたが、この論争に立ち会った世代であるにも関わらず、その学問的評価に何の価値もみてなかったと書いています。また若林氏が後年おこなった「適応反復刺激」の学問的価値にも、杉先生は疑問を投げかけています。


 それと比べると、勝負あったとはいえ、石川先生・加藤先生とも研究にかける情熱いや執念には凄まじいものがありました。何度も取り上げている立命館大名誉教授の加藤隆平先生の回想録ですが、三重医専時代の石川先生の逸話としてこんなことも述べています。


私は終戦後間もなく三重医専(後の三重大学医学部)に当時校長の石川(秀鶴丸)先生から呼ばれて教員として昭和二十一(一九四六)年十月から就任できることになり、面接の翌日から数学と物理学の講義を担当することになった.

〜中略

表向きでは私は教養課目の担当だけであったが、実際は石川校長が生理学者であったので、生理学に必要な補助となる実験物理の助手が必要であった。それで私は面接の折沢山の生理学研究に必要な実験技術に就いての説明を聞かせて貰った。翌日登校したら直ちに研究テーマが言い渡された。このように就任してから講義と研究の手伝いをしていた数ヶ月後の或る日解剖学の本陣良平教授(後の金沢大学学長)が私たちの研究室に入って来られた.本陣先生に石川先生は出遭いざま、「本陣君余り近頃ここへ来ないね。研究をしてるのかね」と尋ねられた.本陣先生は「研究しておりません」とはっきり答えられた。この返事に激怒された石川先生は「大学の教授になる者が研究しないとは何事か。直ぐやめ給え。」と強く叱かられて、本陣先生の襟首を掴んで外へ引出して階段から突き落された。


!!!襟首を掴んで外へ引き出し、階段から突き落とす!ハゲシイな、ひでつるまる!これ、今だったら立派な傷害罪だし、下手したら傷害致死罪で逮捕されていたかもしれません。いささかやり過ぎ感が否めませんが、石川先生が如何に学問を重視したかよくわかる話です。本陣先生は幸いながら死亡せず、母校の金沢医科大学(今の国立金沢大学医学部=医学類)に戻り、解剖学教授となって学長も務めました。


 しかしながら、激しいというなら加藤先生も負けていません。論争に勝ったとはいえ、恩師石川日出鶴丸先生への思いはその後も消えなかったようです。これは先輩から聞いた話ですが、加藤先生は生理学の講義で必ずこの「伝導不減衰説」論争に触れていたそうです。昔、慶應医学部生理学の講義はまことに厳粛なものでした。我々の頃でも教授が講義で板書するとき、脇に助手が控えていました。そして講義の進行に連れて板書が増えると、古い方から助手が板書を黒板消しで順次消して、次に書くスペースを作ります。これおそらく加藤元一先生が教授だったころからの習慣でしょう(今はさすがにしてないと思うが)。さて加藤先生が不減衰説を講義する前に、必ず黒板に「石川日出鶴丸先生」と書きます。そして講義が不減衰説の説明に入ると後ろを振り向かずに、後ろ手に持った竹棒にて「石川日出鶴丸先生」をバシッと指され「我が恩師、石川日出鶴丸先生は我が学説の「不減衰説」を否定された!」と獅子吼されますまさに声涙ともに下るというやつでしょうか!学生たちは加藤先生の学問に対する情熱に感服する次第でした。


 ある年のことです。新米の助手が、この黒板消しを仰せつかりました。加藤先生がおもむろに講義を始め、「石川日出鶴丸先生」と板書されます。講義が進むにつれ本題の不減衰説に入りますが、何と!その助手が「石川日出鶴丸先生」を他の講義の板書もろともに消してしまったのです。しかし加藤先生は後ろを振り向かずに講義を続けるので、気づいておりません!いよいよ「我が恩師、石川日出鶴丸先生は我が学説の「不減衰説」を否定された!」とバシッと竹棒で指しましたが、何も書かれてない黒板をバシッとしたので学生達がざわざわし出しました。様子がおかしいのに気づいた加藤先生が振り向くと、「石川日出鶴丸先生」がない!狼狽した加藤先生は助手に対して、「このバカもーん!!我が恩師石川日出鶴丸先生を何と心得るか!」と大声で怒鳴ったという話です。その助手がその後どうなったか?ですか?噂によると、この助手こそ後年名古屋保健衛生大学(今の藤田医科大学)の教授になったN先生でないかと言われております。しかし真偽のほどはわからないので、お手柔らかにお願いします。それにしても師弟ともに、ハゲシイ性格だったようです。


日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか 杉晴夫著 光文社新書 2022.04