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日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(5)〜慶應医学部生理学教室の源流(4)

日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(1)〜京都大医学部 藤浪鑑(あきら)先生
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(2)〜慶應医学部生理学教室の源流(1)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(3)〜慶應医学部生理学教室の源流(2)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(4)〜慶應医学部生理学教室の源流(3)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(6)〜慶應医学部生理学教室の源流(5)
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慶応義塾の研究 〜医学部に内部進学できるのはどんな学生か?


ここまで、慶應義塾大学医学部教授・加藤元一とその師の京都帝国大学医学部教授・石川日出鶴丸の死闘を取り上げてきました。二人ともとっくに鬼籍に入りましたが、今あの世でどうされているでしょうか。ついぞ和解などせず、「飛衛と紀昌」のように、相変わらず師弟で激しく闘っているようにも感じます。



 ところで、加藤元一先生は別な面も見せています。まず実験でたくさん使用してきたヒキガエルの供養をおこなっています。信濃町から四谷4丁目方面に向かう途中にある長善寺(通称「笹寺」)に蝦蟇塚を建立されているそうです。実験動物の供養塔は慶應医学部の敷地内にもあって供養を毎年おこなっていますが、それとは別に作られているものです。人間味を感じますね。話には聞いていますが地図をみるとちょっと行きづらい場所です。しかし、一度行ってみたいです。私も生理学実習でヒキガエルならぬウシガエルを沢山使ってしまいましたから。


 人間味というなら、加藤先生の愛塾精神も強烈だったそうです。慶應義塾応援指導部(通称「援部」)の部長も務めていらっしゃいました。ここは「慶應義塾 応援指導部 75年史」サイトから引用させていただきます。

加藤元一は明治二十三年(一八九〇)、二月十一日、岡山県新見町(現在の新見市)の眼科医の家に生まれた。次男であったが紀元節に生まれたので元一と名づけられ、幼いころから近所で評判の腕白坊主で「シオカラ(腕白)ゲン」と渾名された。勉学に励み、スポーツを愛し、一高を経て京都帝大卒業時には銀時計をたまわった。


 三十七歳にして帝国学士院賞を受賞し、ついには二度もノーベル賞候補になるほどの天分を持った学者であると同時に、加藤は熱烈な愛塾心を生涯胸に抱いていた。その背景には以下のような事実がある。まだ三十代のうちに続々と論文を発表し医学界の泰斗と世の注目を集める加藤の活躍を帝大閥の医学者たちはやっかみ、なかなかその業績を正当に評価しようとしなかった。一方、塾医学部を創始した北里柴三郎は加藤を温かく見守り、藤山雷太はじめ塾出身の財界人たちは、海外で生理学会が開かれるたびに経済的支援を惜しまなかった。


 そんな加藤に、昭和八年(一九三三)、晴れて正規の組織となった応援部の部長就任を委嘱したのは当時の林毅陸(はやしきろく)塾長である。「あなたは野球が好きだし、家も神宮に近いから、慶應らしい応援部を作ってほしい」と。


 そのとき加藤は四十三歳、ローマで開かれた学会で研究発表をおこなった直後で、学者として脂の乗りきった時代である。毎夜遅くまで研究室に灯をともして実験をつづける世界的生理学者が応援部の顧問に就任することを、塾内でも突飛に思う者がいたという。しかし加藤は当時の応援部幹部の塾生たちに会い、こう尋ねた。


「この部は慶應義塾のために役立つかね?」

「はい、もちろんであります」

「よろしい、それなら引きうけよう」


 やりとりの場にいた白石鐵馬(松本好生)は、「簡潔にして小気味のいい、男の然諾であった」と書き遺している。


 以来、三十年の長きにわたり加藤は応援部長をつとめて部員らを鞭韃し、たくさんのエピソードを残した。慶早戦が神宮でおこなわれる日には、信濃町の校舎に残っている塾生がいると、なぜ神宮に行かないのかと注意して回った。また、応援部員たちにはつねづね、「ファウルボールを拾う部員になれ。ファウルボールを拾う尊さを知れ」と諭した。

ご免なさい。確かに医学部は神宮球場直近ですが、私は在学中慶早戦にはそんなに行きませんで、申し訳なく思います。この記事は署名なしですが、当時の加藤元一先生に非常に詳しい方です。是非その「たくさんのエピソード」も書いてほしかった!またこんなことも、書いてあります。

昭和三十二年(一九五七)、加藤は入学式で教職員代表として新入生歓迎の言葉を述べた。「君たちの中で、ある者は必ずしも慶應が第一志望ではなかっただろう。しかし、君たちが慶應に入って良かったと思うのは、早慶戦の応援に行って、『若き血』を歌い、勝って肩を組んで『丘の上』を歌うときだ。もしラッキーだったら、三田の山まで提灯行列をして、またビールを飲んで肩を組んで応援歌を歌う。そのときに初めて慶應に来てよかったと思うだろう」


 余談だが、加藤は慶應義塾とスポーツに加え、酒を愛することにおいても人後に落ちぬ豪傑であった。研究室の実験材料を保存する冷蔵庫には酒瓶が常備され、晩年、慶應病院に入院中も、「前の三河屋に加藤の注文だといって酒を届けさせろ」と言い張って医師らを当惑させたという。学究にして豪放---いかにも明治生まれの男らしい逸話である。


 加藤元一は昭和五十四年(一九七九)に八十九歳の天寿をまっとうした。故郷新見市の雲居寺にある墓所の線香立てはペンが交叉した形にデザインされており、墓石には生涯の研究テーマであった神経不減衰学説にちなんで「不減衰」の文字が彫られている。


 確かに今も慶應医学部は外部入学者の全員が国立大との掛け持ちで、医科歯科や東大理1・理2などの合格を辞退して入学する者が多いです。しかし東大理3と京都大医学部の2校に関してだけは落ちて慶應に来ます(*ただし京大医学部に関してはその合格を辞退して慶應に入学した者を2名直近で知っています)。そのような本意でない入学者にも暖かい励ましを送られた加藤先生には、何かこみ上げてくる気持ちを感じます。今回杉先生の著書で、改めて加藤元一先生の偉業を振り返りましたが、熱い情熱をもったこの偉大な先生を心から尊敬します。


日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか 杉晴夫著 光文社新書 2022.04