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日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(3)〜慶應医学部生理学教室の源流(2)

日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(1)〜京都大医学部 藤浪鑑(あきら)先生
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(2)〜慶應医学部生理学教室の源流(1)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(4)〜慶應医学部生理学教室の源流(3)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(5)〜慶應医学部生理学教室の源流(4)
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(6)〜慶應医学部生理学教室の源流(5)


さて前回述べたように、「神経伝導不減衰説」を打ち立てた加藤元一先生ですが、恩師の石川秀鶴丸教授に公衆の面前でその学説を罵倒され、顔面蒼白となったわけです。


「余に二時間の時間を与えれば、慶雁の学説をこつぱ微塵に打ち砕いてみせる。どうだ!」


 医学部は師弟の格差が他の学部と比べて激しいと思います。一つの理由として医学部の教育が徒弟制に近く、側によって直接指導を受ける機会が多いことがあると思います。また命を預かるという意味で過失があってはならないという思いから、必然的に厳しい指導があります。日本の場合、ドイツ医学を導入したせいでより権威主義的な学風がまん延しました。しかし学問に関しては公平な議論ができなければ、発展はありません。加藤先生は自分が信じる「伝導不減衰」に命をかけました。石川教授から罵倒された第2回日本生理学会総会の3年後、スウェーデン・ストックホルムで開催された第12回万国生理学会議で加藤先生は公開実験をおこない、自説の正しさを証明しました。この時加藤先生はシベリア鉄道経由でストックホルムに向かいましたが、日本で実験に使ったヒキガエル100数匹を携行しました。ところが公開実験前に日本から連れてきたヒキガエルが全滅してしまい、仕方なくオランダ産の別のカエルを使って実験しました。生命科学の研究者ならおわかりと思いますが、ある事象がAという動物で見られても、Bという動物ではまったく見られないことはよくあります。近縁であるマウスとラットですら、よくあることです。従って加藤先生が如何に自説に自信があっても、相当な不安を抱いたことは想像に難くありません。しかし!不減衰の実験はオランダのカエルを使って見事に成功しました。この結果、「伝導不減衰説」は世界的に認知され、従来の減衰説は衰退していくことになります。


 この学説により加藤先生は1927年「帝国学士院賞」(現在の日本学士院賞)を授与されました。しかし京都帝大の石川日出鶴丸教授はこの受賞に猛然と抗議し反対公開状が出され、激しい論争になりました。前回取り上げた立命館大名誉教授の加藤隆平先生の三重医専時代の回想に、石川先生の以下の言が記載されています。


石川先生は「私の弟子に何人も優れた弟子(大学学長を含む大学教授数人の名前を挙げられた)がいるが、なかでも加藤元一君が一番良く出来た弟子であった。しかし学会で突如として私の研究と逆の研究結果を発表して、私に逆らってきた.弓の名人の飛衛と先生を殺そうとした弟子の紀昌に準(なぞら)えられた.それで私は加藤元一君を破門して抛りだしてやった。」と話された。


・・なんか恐ろしい世界だな、ひでつるまる。前後関係がよくわかりませんが、石川先生は列子の記載に出てくる「飛衛と紀昌」の逸話も加藤隆平先生に披露されたそうです。加藤隆平先生からの引用がかなり長くなりますが、石川先生が披露された「飛衛と紀昌の逸話」とはこうです。


昔百発百中の弓の名人甘蝿(かんよう)が居た。その名人に弟子飛衛が入門して弟子は千発千中の名人となった。その後、飛衛のもとに紀昌(きしょう)と言う弟子が来て弓を教えて欲しいと飛衛に頼んだ。飛衛先生は「弓を習うには小さい物が大きく見えるようにならねばいけない。」と教えられた。弟子は「小さい物が大きく見えるようになるにはどうすればよろしいか?」と質問した.先生は小さい物が大きく見えるようになるには、「風を糸に吊して、三間離れた所から毎日正座して晩めば三年経てば風は車の輪位に大きく見えるようになる筈だ。」と教えられた.それで弟子は三年間教え通り練習して、風が車の輪程大きく見えるようになったので、先生を再び訪ねた.今度は先生は「弓を習うには瞬きをしないようにしなければいけない。」と教えられた。弟子は「どうすれば瞬きしないようになりますか」と質問した。先生は「錐を手に持って先を眼の寸前まで近づけてでも瞬きをしないように毎日練習しなさい.」と教えた。弟子は三年程練習して瞬きしないようになったのでまた先生を訪ねた。先生は「弓を取って射て見よ。」と言われたので、弓を射たら百発百中で的に当った。ここで弟子の紀昌は天下一の飛衛先生に次ぐ名人となった。紀昌は先生を殺して自分が天下第一の名人になろうとした。紀昌は弓を持って先生の帰路、川べりで先生を射殺ろそうと待ち構えた。先生が通り掛ったので弟子は弓に矢を接いで構えた.先生は危機を察したが、弓がないので川縁に生えていた葦を一本取って弟子に向って投げた。弟子の射た矢先と先生の投げた葦の先とが衝突して両方が落ちた。弟子は第二の矢を番えた。先生も二本目の葦を取って投げた。二本目の矢と葦とが一本目と同様に突当って落ちた。これで勝負は着いた。先生は無数に葦があるし、弟子は背に持ち合わせた数の矢しかない。矢の尽きるまで衝突すれば、先生の勝となる.弓の名手になる方法を編み出した先生の方がいろいろ先生に質問して練習法を教わった弟子よりずっと優れていた。


 うーん、白土三平の「カムイ外伝」かブルース・リーの「ドラゴン怒りの鉄拳」の世界みたい・・師匠と弟子で殺すか殺されるかの真剣勝負か。しかし、神経伝導に関しては弟子の加藤元一が師匠の石川日出鶴丸に打ち勝ちました。1935年モスクワで開かれた第15回万国生理学会議では「条件反射説」で有名なソ連のパブロフ博士が会頭で、加藤元一先生を招待講演者として呼びます。ここで単一神経線維剥出による公開実験に成功し、不減衰説すなわち神経伝導all or non説を不動のものとして認知させました。このときは日本から持って行ったヒキガエルでうまくいったようです。


日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか 杉晴夫著 光文社新書 2022.04