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阪大医学部の入試漏洩事件7 〜同級生の証言

阪大医学部の入試漏洩事件1 〜身の毛もよだつ戦慄の展開
阪大医学部の入試漏洩事件2 〜大阪大学の狼狽
阪大医学部の入試漏洩事件3 〜一体何処で漏れたのか
阪大医学部の入試漏洩事件4 〜不正入学者たちの命運
阪大医学部の入試漏洩事件5 〜当時の大学偏差値
阪大医学部の入試漏洩事件6 〜医学部入学に狂奔した親たち
阪大医学部の入試漏洩事件7 〜同級生の証言
大阪大学・微研の研究不正と自殺(2006年)1


この不正入試事件に関して、同級生の証言があります。湘南鎌倉総合病院で循環器科長兼心臓センターセンター長を務める齋藤滋先生です。首都圏から京大を受験する学生は珍しくありませんが、阪大を受ける学生は医学部とはいえ、非常に珍しいです。個人的には駿台時代に阪大医学部を受けた友人はいませんでした。


齋藤先生の自伝をみてみましょう。幼少の頃から詳しく書かれていておもしろいので、長くなりますが、引用させていただきます。

生まれ、小学校、中学校そして都立豊多摩高校時代


生まれは東京都江東区深川の社員寮だったということです。場所がら深川八幡の産湯をつかったという伝説もあります。物心付く前に杉並区天沼に転居し、そこでずっと育ちました。杉並区立第九小学校に6年間通ったのですが、戦後Baby Boomの最終学年に属していたため、小学校は人クラス55名くらいの生徒が詰め込まれ、それでいて各学年は8-9クラスもあったのです。幸いなことに一年生から毎昼食時には給食が支給され、そこにはアメリカ進駐軍から支給されていた「脱脂粉乳」を溶かしたミルク一杯と、必ず「肝油」2錠がついていました。これらは栄養素補充のために必須だったのですが、何も知らない僕には「まずい」ものでしかなく、大嫌いでした。


小さい頃より好き嫌いが多く、給食で頻回に支給されていた鯨肉の食事が嫌いで、先生からは「栄養だから食べなさい」と言われても食べずに残し、毎日のように昼休み最後には廊下に立たされていたのです。辛い毎日でした。当時はテレビ放送は未だ無く、ラジオ全盛の頃でした。子どもたちにも人気のラジオ放送は毎日夕方に15分ぐらいの連続番組として放送されていた「赤胴鈴之助」だったのですが、その主人公をつとめていた俳優さんは、何と第九小学校卒業だったので、それが誇りでしたね。


小学校を卒業する頃には、勉強が好きになり、クラスで一番の成績を何度もおさめるようになりましたが、それと共に近眼が進行し、メガネをかけるようになったりです。小学校を卒業し、杉並区立東原中学校に入学したのは1962年でした。1964年には東京オリンピックが開催されました。その時杉並区立東原中学校三年生でしたが、クラスではオリンピックに影響され、鉄棒が流行っていました。毎日グラウンドの鉄棒にぶら下がり一生懸命練習しました。初めは逆上がりすら出来なかったのに、最後には逆手車輪まで出来るようになりました。


当時東京都公立高校は学区制というものがあり、杉並区の場合には第三学区に属していました。第三学区で東大進学率が圧倒的に良かった(確か毎年100名以上合格していたと思います)のは、都立西高校だったのですが、自分の学力では入学試験無理、と考え二番手の都立豊多摩高校を受験し、1965年から三年間通学しました。豊多摩高校は伝統的に自由な雰囲気で、自宅から高校まで余程の雨でない限り、高下駄を履いて自転車で30分ぐらいかけて通学していました。高校入学した途端、クラスの皆がとても頭が良いように感じ、自分がものすごく幼稚だと感じました。そして、すごく焦りを感じ、一生懸命勉強したのです。

その結果一年生二学期の期末テストでは学年300名くらいの中で三位の成績となりました。本来が怠け者でしたので、その成績に慢心し、それからは毎日毎日ギター(クラシックとフラメンコ)の練習に明け暮れ、好きな数学と物理以外は勉強を全くせずに過ごしたのです。それと共に成績はどんどん下がり、高校三年の時には、英語、古文、歴史、地理、化学などは何を言っているのか、全く理解できなくなっていました。それでもあまり焦ることは無く、1968年の現役大学入試は、好きな工学系を目指し、東京工業大学一本だったのです。


豊多摩高校の思い出の中で、忘れられない先生として、「西山 常夫」先生という体育教師がおられました。西山 先生は日本ラグビーの礎を造られた方であり、当時は日本唯一のラグビー国際審判員も兼任されていました。この先生が体育教師であられたので、豊多摩高校男子学生は3年間に渡り、ラグビーが体育授業の中で必須でした。西山 先生は、その後豊多摩高校教師を退官された後、当時創部間もない東海大学ラグビー部監督を勤められ、東海大学ラグビー部の事実上の生みの親、そして育ての親であられれましたし、東海大学体育学部教授を勤められながら、体育生理学や体育心理学に関する研究活動および論文執筆にも励まれました。残念ながら 先生は2014年にご逝去されました。だから皆あの長細いボールを用いたパス、キックの練習、それのみかタックルの練習もしました。また時にはクラス対抗で試合もしました。辛かったのですが、楽しかったです。また毎年年一回狭山の村山貯水池を一周するマラソンを行うことも必須でしたので、毎年春はマラソンに向けて生徒全員が毎週数日校舎の周りを周回させられました。

ご幼少の頃からなかなか個性的といいますか、かなりとんがった人物であったことがよくわかります。都立豊多摩高校の偏差値は今59なので、中堅校からやや上寄りといった感じでしょうか。記載では都立西高の次ということなので、昔はもっと上位校だったと思われます。しかし、「数学が得意」は大学入試、特に理系では大事なポイントです。

駿台四谷予備校時代


東京工業大学入学試験では、数学・物理はほぼ満点だったと思いますが、その他の科目は皆目分かりませんでしたので、当然のことながら不合格となりました。ようやく心に焦りが芽生え始め、予備校に通うことに決めました。そして、当時一番評価の高かった駿台予備校を目指したのです。予備校といえども入学試験がありました。駿台には当時、お茶の水校と、四谷校があり、お茶の水校の方がランクが高かったのです。試験は四階に渡り行われ、二回受験したのですが、どうしてもお茶の水校合格ラインには到達せず、そこで諦めて四谷予備校に入学しました。毎朝、阿佐ヶ谷駅から中央線を満員電車の中 四谷駅まで通学しました。まじめに勉強したのですが、どうしても地理・歴史は勉強する気になれず、倫理社会を選択することにしたのです。化学は、高校時代の教科書を読み返し、勉強しました。分子量とかいう概念を全く分かっていなかったのですが、勉強しだすと「意外と簡単」という気がしてきました。


問題は英語だったのです。当時予備校で友達となった、名前は忘れたのですが、その男の子から、「英語を勉強するならば、サマセット・モームの Penguin Paper Bookを辞書ひかずに読めばいいんだ」と、言われました。純真だった僕はそれを真に受け、それからあの分厚い、800ページはある、代表作「人間の絆」 (英文題名は Of Human Bondage)を辞書を使わずに読み始めました。初めは断片的にしか内容が分からなかったのですが、次第にずいぶんと分かるようになり、結局、5月から7 月にはいるまでには読み上げました。そのことを先の友人に言ったところ、「えーっ、嘘でしょ? そんなことする人いないよ」との答えにショックを受けたのですが、結果的にはこれにより英語不得手を克服しました。毎日のように東大安田講堂攻防戦がテレビで放映されていた1969年初めに行われた学力テストでは、何と四谷予備校で三位の総合成績となっていました。ちなみに予備校に入学した当初は、四谷予備校1,000名の中で400番ぐらいの成績だったのです。この年、学生紛争はどんどん激しくなり、結果的に1969年の東京大学入学試験はキャンセルされました。結果的に、全国の受験生は日本中に広がったのです。僕もその影響を受け、社会科の選択科目選択が主な理由で、大阪大学医学部を目標に据えたのです。

お決まりの駿台予備校コースです。駿台予備校の上位コースの入学は、今で言うMARCH上位校よりは難しかったです。東工大志望から阪大医学部とは大転換ですね。しかも、勉強法も型破りと言いますかすごいです。

阪大入試合格発表


1969年3月何日かに大阪大学医学部より合格通知が杉並区本天沼の自宅に届きました。自分では試験の自己採点結果から、「絶対に阪大医学部入学試験に合格した」と、試験から阿佐ヶ谷に戻るなり友人を呼び出し喫茶店で熱く語るほどに試験結果には自信がありました。しかし、やはり本物の合格通知が届けばやはり舞い上がってしまいました。入学しても、健康診断のために、大阪まで出かけねばなりませんでした。早速に、中野サンプラザの中にある「日本交通公社」今では JTBと呼ばれていますね。そこに出かけ、新幹線往復チケット(もちろん学割です)と、大阪の一泊の宿を申し込んだのです。健康診断は、中之島の阪大本部からリーガロイヤルホテルに向かって歩いてすぐの処にあった関西電力会館で行われたようにあやふやに記憶しています。そこには、医学部と歯学部入学予定者の合計 200名ぐらいが集まりました。列に並んで待っていると、次第に不安になってきたのです。「ひょっとして、医学部入試は落ちて自動的に歯学部に回され、そこに入学したのかもしれない」そんな風に不安がこみ上げてきたので、僕の前に並んでいたKという入学予定者に自分の不安を話しかけました。その時の返事は「そんなことないよ」とか言うものでした。このKが僕が阪大医学部に入学して初めてコンタクトを持った友人だったのです。これがその後大きな衝撃となることはこの時は未だ知りませんでした。

これが運命の出会いになるとは!

教養課程開始してから味わった衝撃


学園紛争のため、ずっと教養課程の講義は始まらず休講状態が続きましたが、医学部では定期的に学生を集め、色々な情報提供を行っていました。このため、同級生と顔を合わせる機会もあり、徐々に同級生の友人が出来ました。Kは大きな中華料理店店長の息子さんで、数年の浪人生活の後でようやく入学できたのです。また、Aというのは比較的大きな個人病院院長の息子で、これも数年間の浪人生活の果てに入学できました。この二人を含め、何人かの友人が出来、自動車で大阪や神戸を色々と案内してもらいました。1970年1月末になり、ようやく学園紛争も収束し、教養課程講義が始まり、3月末には一年分の期末試験が行われることになりました。KやAは試験前僕の下宿に遅くまでつめかけ、試験勉強をしたのですが、あまりにも飲み込みが悪いことに驚きました。しかし、その時は「えー そんなこともあるんだな、それでも阪大に入学することもあるんだな」と、その程度にしか考えませんでした。そして月日は流れ、皆揃って教養課程二年次に進学したのです。そして、1971年4月からは揃って皆 医学部に進学できることになりました。その年の多分2月頃でしょうか? 生協食堂で昼食をとり、その近くの阪大図書館に何時もの如く新聞を読みに行ったのです。新聞を開くと第一面に衝撃の見出しがありました。「阪大不正入試事件」というものだったのです。何とこのために、同級生100名の中で10名近くが入学取り消しとなり、そのまま大学を去って行ったのです。もちろん、その中にはAもKも含まれていました。あまりの衝撃、そんなことがあるんだ、愕然としたのですが、すぐに「やっぱりね」という踏ん切りで自分の気持ちが収まって行きました。

!!!齋藤先生、あっさりしてますね!僕だったら衝撃を受けて、大学通うのしばらくやめるかな。非常に貴重な証言です。