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阪大医学部の入試漏洩事件3 〜一体何処で漏れたのか

阪大医学部の入試漏洩事件1 〜身の毛もよだつ戦慄の展開
阪大医学部の入試漏洩事件2 〜大阪大学の狼狽
阪大医学部の入試漏洩事件4 〜不正入学者たちの命運
阪大医学部の入試漏洩事件5 〜当時の大学偏差値
阪大医学部の入試漏洩事件6 〜医学部入学に狂奔した親たち
阪大医学部の入試漏洩事件7 〜同級生の証言
大阪大学・微研の研究不正と自殺(2006年)1


こうして大阪大学の嫌疑は晴れ、焦点は一挙に印刷所に向きます。

「入学試験を印刷しているのは、あそこしかない」


 A(殺された姜旭生)は1月24日に刑務所時代の仲間を呼びつけ、「今年の国立大医学部の入試問題が手に入ることになった。かなり太いカネになるから、買うという客を探してくれ」と依頼をしていたことが分かった。そのときは前年(昭和44年)の成功事例まであげて説明する熱の入れようだったという。


 やがて、塀の内と外で連携する数名の犯罪グループの存在が浮かび上がってきた。つまり、数年に渡って大阪刑務所で印刷されていた大学入試問題が何らかのかたちで持ち出され、組織的に販売がなされていたことが、露見したのだ。前代未聞の不祥事であった。


 そもそも入試問題が市中の印刷所ではなく、刑務所内で刷られるのは、外部に漏れるのを防ぐためであり、最も安全に管理されていると言われていた場所から、入試問題が何年も盗まれ続けていた事実は大学関係者をはじめとして社会に大きな衝撃を与えた。

そう、昔は大学入試の問題は刑務所で印刷されていたのです。刑務所は確かに外部から隔離されていますが、そこはワルたちの集う場所でもあります。

3月初旬、坂本は新聞社のヘリコプターが刑務所上空を旋回する音を聞いていた。「私たち現場の刑務官は何も知らされていなかったので驚きました。マスコミが何を取材しようとしていたのを知ったのかは、新聞やテレビの報道からでしたよ」(坂本氏)

いよいよ疑惑の本丸の急襲です。

大阪府警の捜査官が現地調査に入り、職員の事情聴取も行われる中、坂本は捜査協力をするようにとの特命を受けた。「それで私は過去5年分の職員の出勤簿、超過勤務命令簿、勤務表、大学入試問題印刷期間中の所長指示、工場日誌などの大量の冊子や文書を、保安本部、文書倉庫、第4区の事務所から収集し、整理しました。

大阪府警捜査本部の割り出したところでは、強盗殺人の罪を犯して入所していたB(尾崎増義という男)という男の名前が上がって来ていた。果たしてBは模範囚ということで昭和44年9月に仮出所していたが、その前はまさに印刷工場のある第4区に入れられていた無期懲役囚であった。出所後の雇用要請も印刷工として出していた。

昭和46年3月6日の読売新聞は「刑務所印刷工場から盗む」「大学入試問題42年から3回」という見出しを立ててこう報じている。


 自供によると、B(尾崎増義)は大阪刑務所に服役中のさる三十七年十一月、盲腸で同刑務所内の病舎に入ったとき、目を悪くして同じ病舎にいたA(姜旭生)から、「オレは来月十九日に仮出所できる。お前は印刷工で大学受験問題の用紙を印刷しているので盗み出してほしい」と持ちかけられた。その場では断ったが、Aが出所後、何回も面会に来て強要し、盗み出す方法は手紙で暗号によって知らせると何度も頼まれた。

つまり、この入試漏洩は昭和46年に発覚する10年近く前からその計画が練られていたのです。捜査の結果、この試験持ち出しには、家弓光司という懲役囚も関係していることがわかりました。

昭和42年に姜から連絡が入った。「ガス工事をやっている、ぼちぼちやっている」これは打ち合わせていた合言葉だった。尾崎は同じ印刷工場で働く家弓を誘った。尾崎、家弓の自供によると、試験問題を印刷ミスにみせかっけ、わざと破いて屑籠などに隠し、それをバレーボールの中に詰めた。運動の時間に尾崎はそのボールを思い切り蹴り上げて刑務所の塀を超えさせ、待ち受ける姜の手に

このバレーボール放り投げ受け渡しは当時の報道でなされた試験問題の盗みだし手口ですが、今は「虚偽」と考えられています。実は姜旭生は複数の刑務官も抱き込んでいて、おおっぴらに刑務所の外に持ち出されたのが真実と言われます


再び文春オンラインからの引用です。

そこでA(姜旭生)が目をつけたのが分類の保護担当で、そこにCという看守部長がいました。彼は私が見ても制服もヨレヨレでどこか隙があった。出所したA(姜旭生)は、言葉巧みにCを取り込みました。キタやミナミのキャバレーなどで接待漬けにして、自分をB(尾崎増義)の引受人に登録するように便宜を図らせたのです」

印刷工場は二つ、活版・活組、第4区では、製本作業をする45工場と、印刷機が並ぶ46工場で、この二つの工場の交代勤務担当を担当しているDという鹿児島県出身の若い看守が狙われた。


 Bから、Dが適任だという連絡を受けたAは、看守部長のCにDを誘わせ、酒宴等の接待を繰り返した。これは完全な服務違反であり、刑務所の知るところとなれば懲戒処分になる行為である。


「職員を酒と女で懐柔し、バレれば役人をクビになるような弱みを握ってしまえば、運び屋ぐらいは断り切れずに承諾するというようなことを、長い懲役生活で様々な事例を見てきたAはその経験から知っていたのですね」


受刑者によって中から外に放るのはありえない。入試問題として最終的に製品ができあがるのは46工場なんですが、46工場の運動時間って毎日違うんですよ。で、外から合図があるにしても中のやつがボールを放り投げて外で受けるなんてありえない。答えは一つです。刑務官が絡んでいなければ成立しない犯罪でした。しかし、刑務所はこの件では全面的に大阪府警に協力した。私も徹底的に調べ上げて資料を提出しました。だから、内部の人間の関与は告発されずに、バレーボールにして手打ちにしたのでしょう」(坂本氏)

「ミイラ取りがミイラになってしまう」と言えるでしょうか。姜旭生はまさにワルの帝王で、狡猾です。この刑務官CやDが誰かは明かされていません。しかし、当時の刑務官のきわめて劣悪な労働条件も事件の遠因でないかと述べています。

ずさんな刑務所管理と叩かれたのですが、それは限界でした。人手は足りない、勤務時間は長い。当時、事務官の勤務時間は週44時間なのに塀の中の刑務官は53時間でした。まだテレビカメラもない時代ですから、見張り台にも人を立てて、一晩69人ぐらいで3000人近い受刑者を見ていました。


 夜の10時から朝の5時まで1時間おきに見回る。その夜勤を10回やらないと休みがもらえなかった。江村所長は試験問題の件で世論から攻撃されながらも、『それには看守の劣悪な労働環境もある、理解してほしい』というようなことを言ってくれて改善に繋げてくれたのです」(坂本氏)