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日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか2(1)〜理研CBS(BSI)の功罪

日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか(6)〜慶應医学部生理学教室の源流(5)
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日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか2(5)〜筋収縮の生物物理2
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか2(6)〜筋収縮の生物物理3
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか2(7)〜生理学の重要性
日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか2(8)〜日本の科学と大学


杉先生の著書の紹介はもう少し続きますが、あまりに長くなりリンクを付けるのに疲れてきました。後半は「日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか2」シリーズと分離することにしました。表題を最初理研BSI(Brain Science Institute)としてしまいましたが、今は理研CBS(Center for Brain Science)と名称変更になっていました。どちらにしても脳科学の研究所です。この研究所は、理化学研究所が筑波研究学園都市にある支所以外で初めてつくった専門領域の研究所でないかと思います。東大医学部生理学の伊藤正男教授の強力な提言により1993年に設置されたと杉先生は書いています。


 しかしその設置にはアメリカの科学政策の影響も大きいと私は考えます。1971年に当時のニクソン大統領が「がん克服」と訴えて米国がん対策法(NCA)を成立させ、がん治療の研究に大きな予算が投入されるようになりました。ちょうど分子生物学の勃興と重なったため、アメリカのがん研究は大きく飛躍しました。その後同じ共和党出身のレーガン大統領がその向こうを張るように1980年代後半、認知症克服を掲げて脳科学研究の国家プロジェクトに力を掛けるようになりました。日本は第二次大戦後常にアメリカ追従ですから、このアメリカの政策が大いに影響したと私はみます。ちなみにこの政策を推進した時、あるアメリカの科学者が「レーガン自らがアルツハイマー病だからさ」とジョークを言ったそうですが(小長谷氏の記載による)、レーガン大統領は大統領を引退した5年後の1994年に自らがアルツハイマー病であると告白しました。上の話はとてもジョーク扱いにはできず、レーガンは大統領任期中すでに認知症の自覚があったのでないでしょうか?その点今のバイデン大統領は今でも明らかに認知症の症状を示していますが、アメリカ国民は次の選挙でもバイデンを選ぶのかな?


 話を戻すと、杉先生はまず理研脳科学研究センターのfMRIの研究を難じています。fはFunctionalの意味で「機能的なMRI」となります。脳血流の多寡を画像的にイメージングして、機能部位を解析するというものですが、まずfMRIでないとわからない脳内の事象はなかったのでないかと述べています。つまり従来の他の計測法以上の成果を得られるものでなかったということです。またfMRIは超高額な器械であるにもかかわらず(1器約3億円)、理研が購入してから長期間使用されてなかったことも問題視しています。伊藤正男氏が「日本はアメリカと比べて、脳科学への研究予算が極端に少ない」と主張してBSIが成立したが、アメリカは人件費も含んでの予算だから比較がおかしいと杉先生は述べています。確かに理研には人件費も研究費も含めて国立大とはケタ違いのお金が掛けられています。単純比較が難しいですが、人件費については旧帝大系の教員とくらべて少なくみても2倍以上のお金をつけられているというのが実感です。研究器機などの備品類は億単位のものが無造作に購入されており、大学はとてもかないません。そういう放漫な浪費が結局無駄を生んだということです。しかも2007年の理研CBSの自己評価でfMRIについて言及がまったくない、つまり結果からみても無駄だったということです。


 伊藤正男氏に関してはまだ批判が続きます。従来の神経生理学で重視された動物生理学の意義を否定し、哺乳類以外の神経生理学は意味に乏しいと主張したようです。具体的には理研BSIの所長になると、昆虫などの無脊椎動物神経生理学の研究に矛先を向け、「昆虫の脳など脳でない。高等動物(ヒトのことかな?)の脳研究に役立たない」と言ったそうです。ああ、キノコ体(mushroom body)のことか。キノコ体は東大薬学部の名取研出身者などが研究していましたが、興味深い内容だったと個人的には思っています。そういう無脊椎動物の脳研究への予算を文科省がばっさり削ったのには、伊藤正男氏が責任あると。そういえば確かに最近キノコ体の研究はほとんど聞きません。


 しかしながら、アメリカのエリック・カンデルは海産の貝であるアメフラシの神経生理学の研究で2000年にノーベル生理学医学賞をもらったのは、とんだ皮肉であると杉先生は言っています。生理学に関して杉先生は「普遍性のある事実確認の重要性」を随所で語っていますが、これ現代の医学・生物学研究からみて大変重要な視点だと思います。というのは、分子生物学の進歩で現代の生命科学は微小で局所的な事象の解析に傾き過ぎており、個体としてのシステムを俯瞰する視点がおろそかになりがちと私も感じているからです。決して「ロートルの戯言」でなく、貴重なご指摘です。その意味で昔の慶應医学部生理学教室ではヒキガエルに始まりカブトガニ、アメリカアカイカ、ネコ、トッケイヤモリなどそれぞれの神経生理解析に適した動物を実験に使っていました。それにしてもそういう研究の話ばかりが慶應の学部の講義ではなされ、おもしろかったけど今の大学院講義並の専門的内容だったなあ。


 杉先生の批判は伊藤正男氏自身の研究にも向けられています。伊藤先生といえば、小脳神経回路の研究が有名で、特に前庭動眼反射などが挙げられます。杉先生の批判はそういった回路理論の根底にある「長期抑圧」の解析で、ネコに深麻酔をかけて特定のシナプスの活性でみたことに向いています。私は専門外なので評価できませんが、「果たして麻酔をかけてない神経回路の状態を、一部であっても本当に反映しているのか」を疑問として投げかけています。しかし伊藤氏はすでに亡くなっているのでこの疑問に反論できません。


 理研・脳科学研究センターは発足以来変遷はありますが、もう30年経ちました。研究成果も厖大であり多彩であることは間違いないですが、ノーベル賞級の独自研究が出たかと言われると少なくとも私は知りません。脳科学に関して国内で独創的な研究があるとすれば、筑波大学の国際統合睡眠医科学研究機構でないかと個人的には思います。機構長の柳沢正史氏はきわめてユニークな研究を推進しています。


日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか 杉晴夫著 光文社新書 2022.04