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日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか2(6)〜筋収縮の生物物理3

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杉先生はさらに柳田敏雄氏の恩師の大沢文夫氏に対しても批判しています。大沢文夫氏は戦前の東京帝国大学理学部物理学科の卒業で、日本の生物物理学の草分け的な存在です。名古屋大学理学部に助手として採用され、その後助教授を経て1959年教授に昇任します。1973年から大阪大学・基礎工学部教授を併任し、1986年の定年まで両大学の教授を務めました。2つの国立大学の教授職を併任する先生は時々いますが、これだけの長期間併任するのはきわめて珍しいです。やはり大沢氏が研究者・指導者として、非常に優秀だったからでしょう。実際多くのお弟子さんを養成しており、その一人が柳田敏雄氏となります。


 さて杉先生はルースカップリング説にこそ批判的ですが、柳田敏雄氏が優秀な人物であることは認めています。その優秀な柳田氏ですが、なんと40歳になっても大阪大学・基礎工学部・大沢研の「技官」に留め置かれています。そして大沢先生はそのまま定年で退職を迎えます。見かねたと思われる隣の研究室の三井利夫教授が、柳田氏を助教授に採用し、ようやく研究者としての道が開かれました。これしかし、本来は大沢先生がすべきことでしたね。そのせいか、柳田氏自身もここで大沢先生に対してちくりと批判しています。


 それと関係すると思いますが、杉先生はオーストリアであった学会帰りにウィーン美術史美術館を柳田氏に案内した時の彼の奇異な発言を述べています。ウィーン美術史美術館の絵画は「人民の搾取の果実」だと柳田氏がののしって歩き回ったと述べています。ここは私が興味ある方だと、ピーター・ブリューゲルの大規模なコレクションを所蔵しています。他にもルネッサンス以降の近代絵画を中心に膨大な収蔵品があります。せっかく案内した杉氏は相当に鼻白んだようで、柳田氏を「先達に対して敬意が足りない無礼な人物」と断じています。しかし、これは当時の柳田氏の処遇が良くなかったことが影響していたのでないでしょうか?彼が「搾取」を連呼したのは、暗に大沢文夫氏がいつまで経っても柳田氏に仕事に見合った職位を与えないことへの憤りの反映でないかと感じます。さりながら、この「先達への敬意が不足」はルースカップリング説以前から柳田氏が先に出ている他チームの論文をことさらに無視する姿勢から、欧米の研究者の反感をかう結果となった可能性は確かにあります。


 私も同じような経験があります。私がフランス留学中に日本から来たある先生が、「美術館に行きたい」と所望されるので、オルセー美術館を案内したことがあります。それまで研究所の仕事に忙しくてパリ市内の文化などに触れる機会がまったくなかったのですが、このオルセー探訪で私は驚愕しました。マネやモネなど印象派画家の有名な絵画がこれでもかと言わんばかりに大量に展示されています。ドガの青い踊り子のパステル画連作が遮光された薄暗い室内に展示されていましたが、今にも踊り出しそうなそのモーションに息を呑みました。何にも考えずに行ったのでかえってその感動が大きかったと感じますが、肝腎のご案内した先生にはそういう感興はなかったようです。「つまらんね」とか「見たような絵だ」とか、そういう発言しかありませんでした。柳田氏の「搾取」発言とは全然違いますが、案内した相手に失望したという意味では同じような経験でした。自然科学の研究者ですから、美術品に関心がなくても別に構わないのかもしれませんが、文化的な素養や感受性の有無は研究マインドとも関係するのでないかな?


 さて杉先生の大沢先生への批判は、弟子達へ科研費など研究費を獲得させる、それも大型の研究費を取れるよう動いたことです。柳田氏も大沢研から独立後連続的に科研費の上位種目やERATOプロジェクト獲得に成功しており、反対に杉先生は競合する分野で競り負ける結果となりました。しかもその研究が、杉先生が認めない筋収縮のルースカップリング説検証だったこともあり、暗に「無駄金を投じた」と言わんばかりの勢いで難じています。しかし実験というのは「やってみなくてはわからない」です。普通の実験科学者なら「出た結果は10中8,9がはずれ」は実感するところでしょう(完全な失敗でなくても自分が予想したような結果ではないという意味での「はずれ」)。ですから「大枚はたいたのにろくな成果が出てない」と批判するのは如何なものかと思います。


 直接は杉先生と競合しない分野でも大沢氏の別な弟子の研究費獲得についても、批判しています。そちらは具体的な研究内容が書かれてないので誰のことか判然としませんが、おそらく宝谷紘一(ほうたにひろかず)氏ではないかと思います。宝谷氏も柳田氏と似たような時期に大型研究費やERATOプロジェクト獲得に成功しており、鞭毛の生物物理学的な解析を展開しました。なぜ宝谷氏かというと、「おもしろければ何をやってもいい」という杉氏が言う「大沢氏の某弟子の口癖」というのは、宝谷氏の発言として私も間接的に聞いたことがあるからです。また杉先生が本書で関係者や施設をA, B, C, Dと順に並べてきたのに、この宝谷氏とおぼしきところはいきなり「J氏」となり、くわえて後にJ氏とたもとを分かった上司を「L氏」としています。なぜ「K」を飛ばす?(あとで別な項目でK氏が出てくるが)。これ、KとはJ氏・L氏の在籍した施設でないかと考えると、「京都大学」が該当しそうです。


 宝谷氏が推進した研究の評価はよくわかりません。ただし、杉先生が言う「センスが悪いひと」というのは、脂質二重膜の小胞内に人工的に微小管を生成して形態をみた仕事のことかなと感じます。「人工細胞」として内耳の有毛細胞の毛の構造との類似性を宝谷氏は論じていますが、本当にこれ関係あるのですか?昔ソ連の科学者オパーリンが提唱した「コアセルベート」の発想と似ている印象がありますが、それと同じように「生命の起源」と関係するのかどうか、私はよくわかりませんでした。それはさておき、杉先生が言う「生命科学の研究はどういう観点を重視して進めるべきか?」は大事なところなので、次に送ります。


日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか 杉晴夫著 光文社新書 2022.04