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日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか2(7)〜生理学の重要性

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最初にお断りしますが、私は生理学者ではありません。日本の基礎医学領域で、生理学と解剖学は斜陽の分野に見えます。古典的な生理学や解剖学の研究者は今減る一方です。その代わりに増えているのが分子生物学や遺伝学の研究者で、医学部の生理学や解剖学の分野でもそういう研究者が教授になることが非常に多くなりました。今の時代業績数で競うとそうなるのは仕方ないことですが、杉先生はそういう教員選考の流れにも強い批判をしています。


 まず杉先生は遺伝子改変実験で遺伝子KO(ノックアウト)した動物の解析について、鋭い批判をしています。遺伝子の実験でloss of function(機能喪失)とgain of function(機能増強)が二大要素です。特にloss of functionの方がgain of functionより明確な結果が出ると信じられています。これはgainの場合、どこまで増強すればいいのか?があいまいなためで、逆にloss of functionはゼロですからそれ以上もそれ以下もないとなります。特に遺伝子KOはRNA干渉と違って絶対的なゼロ(遺伝子を消失させる)ですから、信用できる操作となります。そのため遺伝子KOはマウスを中心にかなりの数がおこなわれました。結果として著明な形態や機能の異常が出て、その遺伝子がどこでどの時期どういう機能をするのか克明にわかった例が多数報告されました。しかし他方遺伝子KOしても、一見して正常なマウスとの差異がはっきりしないあるいはまったくない結果も多く出ています。こういうredundantな結果になると、論文が書けないです。これに悩まされた研究者は多いことでしょう。杉先生が言いたいのは、そういうredundantな結果こそ生命の本質を反映しているということです。つまり我々の遺伝子の多くは一つくらい壊れただけでは、個体全体に影響しないように設計されているのです。脊椎動物の場合遺伝子重複の結果似たような遺伝子が複数存在することも多く、結果としてそういうった遺伝子群がひとつの遺伝子欠失を補完することもできます(無論それ以外の遺伝子による補完の可能性もある)。そうやって守られる遺伝子こそが生命にとって最重要な遺伝子である可能性もあります。そう考えると「結果が出ている遺伝子KOマウス」もその形質が果たしてその遺伝子「だけの」機能を反映しているのか、怪しいといえます。そうなってくるとdouble KOとかtriple KOとか実験操作が果てしなく拡がり、気が遠くなります。杉先生は生命個体をひとつのシステムとして捉える視点の重要性を述べており、ともすれば要素還元主義に傾きがちな現在の分子生物学や遺伝学を批判しています。現在ゲノム医学は情報科学の進歩とあいまって急速な進歩を遂げているので、今後この辺の状況は変わっていくかもしれません。


 もうひとつは東洋医学に対する厚労省の否定的な態度です。杉先生は特に鍼灸がいまだに健康保険に組み入れられていないことを、強く批判しています。もともと中国で数千年近い歴史を持つ治療法で、欧米ではその効果が科学的にも立証されて保険適用されています。それなのに日本の厚労省は「日本人は欧米とは体質が違うから検証しなければだめ」と言っていまだに適用していません。杉先生は鍼灸の温熱刺激が中枢神経系でどうオピオイド放出を起こすのかを説明しながら、その科学的根拠を述べています。なるほど、こうなっているのか。「痛み」のコントロールは現代医学の重要課題のひとつです。こういうオピオイド分泌を身体が持つ本来の機能を巧みに刺激しておこなわせる鍼灸は、究極の生理学です。ところで、この本の紹介の最初の方で出て来た京都帝大教授だった石川日出鶴丸先生は鍼灸で重要な貢献を、第二次大戦後おこないました、京都帝大医学部生理学教授だったころから石川先生は鍼灸の医学的な研究を継続していました。ところが戦後進駐してきたGHQは「鍼灸は非科学的」ということで、鍼灸を禁止しようとしたのです。当時三重医専(現在の三重大医学部)の校長だった石川先生は敢然として立ち上がり、軍制部のワイズマン中尉(のち大尉)に掛け合って禁止に反対したのです。その効あって鍼灸は禁止になりませんでした。石川日出鶴丸先生は加藤元一との関係で敵役みたいな感じですが、生理学者として真摯な態度で学問に向き合っていたことがよくわかるエピソードです。


 最初に述べたように現在の日本の生理学は分子生物学者たちに席巻されていて、本当の意味での生理学すなわちシステムバイオロジーを理解しているひとは非常に少ないと思います。今後の医学発展を考えると憂うべき事態です。


日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか 杉晴夫著 光文社新書 2022.04