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国立大学法人法改正が成立(7) 〜戦前の国防教育を思い出す

国立大学法人法改正が成立(1) 〜「日本が死んでいく」の意味
国立大学法人法改正が成立(2) 〜「法案可決までの異常なスピード感」
国立大学法人法改正が成立(3) 〜集英社オンライン記事へのヤフコメ
国立大学法人法改正が成立(4) 〜集英社オンライン記事2から
国立大学法人法改正が成立(5) 〜“稼げる大学法案”で学問の自由が失われる
国立大学法人法改正が成立(6) 〜小林鷹之氏の考え
「田中耕太郎」 〜東大法学部の真骨頂


今回の国立大学法人の改正で、前述した記事にこんな見解がありました。

指宿昭一弁護士は、かつての日本にも現在とよく似た時代があったことを以下のように指摘した。

「明治憲法下において大学の自治が侵害されて、何が起こったか。軍国主義が蔓延り、そして戦争への道に突入した。1933年、滝川事件。その次の年に天皇機関説事件。今、それと同じ政治社会状況にある。(中略)2つの事件を通じて大学の自治や学問の自由が破壊されてアジアへの侵略戦争へと国が進んでしまったことを私たちは決して忘れてはならない。だから何としてもこの法案を阻止しなければならない」

これで思い出すのは、荒木貞夫です。陸軍「皇道派」の首魁として名高いですが、どんな人物だったのか?wikiから引用します。

荒木 貞夫(あらき さだお、1877年〈明治10年〉5月26日 - 1966年〈昭和41年〉11月2日)は、日本の陸軍軍人、政治家。犬養内閣・齋藤内閣の陸軍大臣、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。真崎甚三郎と共にソビエト連邦との対立を志向した皇道派の重鎮。侵略思想を宣伝したとして極東国際軍事裁判で終身禁固刑を言い渡されたA級戦犯。

生い立ちを抜粋します。

1877年(明治10年)5月26日、東京都狛江市(出生当時は神奈川県多摩郡和泉村)に、小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。日本中学を中退し、1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校卒業(第9期[1])。近衛歩兵第1連隊に配属され、第16代連隊旗手をつとめる。日露戦争中は、近衛後備混成旅団の副官として、梅沢道治少将に仕えた。旅団司令部には参謀の配置がないために、事実上の参謀役を務める。1907年(明治40年)11月、陸軍大学校を首席で卒業(「恩賜の軍刀」拝受)。

所謂、「天保銭組」で(陸軍大学校の卒業生徽章から来ている)、しかも首席ですから間違いなくエリートです。そして右翼の大物でもありました。

1924年(大正13年)、平沼騏一郎が司法官僚や陸海軍の高級軍人を集め組織化した国粋主義団体・国本社で、荒木貞夫は宇垣一成と共に理事をしており、平沼に心酔していた。1931年(昭和6年)7月16日の原田熊雄の『原田日記』によれば、その頃荒木は平沼を天皇の側近にするための宮中入り運動をしていたが、西園寺公望によって阻止されている。憲兵司令官時代から大川周明や平沼騏一郎・北一輝・井上日召といった右翼方面の人物と交流を持っていたことから、1931年(昭和6年)の十月事件においては、橋本欣五郎から首相候補として担がれたが、荒木自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。


しかし、その後荒木貞夫は陸軍大臣に就き、そして文部大臣にもなります。


皇道教育の推進


1933年(昭和8年)12月、法政大学顧問に就任。1937年(昭和12年)7月には法大予科の修身科講座の講師となり[11]、「自由と進歩」を誇る法大に軍国色の強い学風を浸透させていった。

1938年(昭和13年)5月26日に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。国民精神総動員の委員長も務め、思想面の戦時体制作りといったプロパガンダを推し進めた。この頃から、軍部の大学・学園への弾圧が始まり、人民戦線事件や平賀粛学に代表されるような思想弾圧が行われるようになった

筋金入りの精神論者として知られる一方で、科学技術政策に力を入れ、文相時代の1939年には海軍の平賀譲と共に科研費制度の創設に尽力した


戦後の極東国際軍事裁判においては、文相時代の事柄にも重点が置かれることとなった。裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛は、検事の尋問に応じて宣誓口供書を提出したうえで、弁護団の反対尋問で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を「1938年、荒木貞夫文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された」「軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となった」と証言している。


荒木貞夫が文部大臣だった時、東京帝大総長選に干渉しようとして当時法学部長だった田中耕太郎と激しく対立したのは、有名な話です。東北大学に提出された岡敬一郎氏の論文から引用します。

前も述べましたが、現在の日本の大学でここまで自分の意見を政府に対して貫徹できる教員はどれくらいいるでしょうか。心許ないです。しかし、荒木貞夫が今に連なる科研費制度の創設者とは知りませんでした。良いこともしたように見えますが、実態はこうでした。 駒込武氏の「戦時下の京都帝国大学」から引用します。

戦時下の京都帝国大学の空気を感じるために、試しに『京都帝国大学新聞』を紐解いてみたことがある。たとえば、第 364 号(1943年 5 月 20 日付)の第 1 面には「本年度科学研究費/本学関係は百二十一件」という見出しで、科研費の交付対象として採択された研究題目・研究代表者・補助金額がずらりと記されている。科研費が創設されたのは 1939年、陸軍大将荒木貞夫が文部大臣をしていた時期のことである。本学理学部出身の科学史家・広重徹が『科学の社会史』で指摘したように、基礎科学の振興が総力戦体制の構築に役立つと考えられたからこそ、一挙に 300 万円という莫大な予算(註 現在の貨幣価値で約43億円)が認められたのだった。科研費は、創設当初は自然科学だけを対象としていたが、1943 年度からは人文・社会系の諸学問にも助成の対象を拡大した。


つまり、科研費は国防を下支えするお金として、支給が始まったのです。こう見てくると、小林鷹之氏の政治思想と、荒木貞夫の政治思想に近いものを感じます。ですから、前出の以下のコメントはとても受け容れがたく、戦争当事者国になる可能性はあり得る展開のひとつと私は思います。というか、小林鷹之氏や荒木貞夫とそっくりな考え方だな。


あるくむ2023/11/25(土) 15:39


学術が政治と距離を置くべき原則論に異論ありませんが、この後編記事は酷いですね。一部引用します。

「現在の日本は太平洋戦争直前の1930年代と酷似しているという。「歴史は繰り返す」という名言の通り、国立大学法人法改正案は大学教育の崩壊にとどまらず、近い将来に日本が再び戦争当事者国になる可能性につながるほど危険な法案」

飛躍というか妄想。国民実感とこれほどまでにかけ離れた主張は、もはや共産党以外に見る機会がありません。

科学は現在の否定からしか発展しないものであるから、学術がリベラルなのは当然のこと。しかし国立大の影響力を利用して防衛技術の開発に公然と反対したり、偏った派閥組織票で学術会議を私物化したり、金だけ出して口は出すな、ポストは渡さないと言うのは筋が通らないでしょう。