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「田中耕太郎」 〜東大法学部の真骨頂

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東大法学部というと、文科一類(文一)、すなわち大学受験の文系で一番難易度が高い東大教養学部文科一類から主に進む学部です。近年キャリア官僚の不人気を背景にその人気に陰りが見え、東大文二の合格最低点を下回った年もありますが、依然として難関です。また進学先の東大法学部というと、専門科目の成績評価が非常に厳しく、「優」をもらうのは文一に入るような優秀な学生でも相当大変と聞きます。そういうこともあってか、近年東大の成績評価の規定で「優以上の評価を全体の3割程度に与えること」に変更されたそうですが、実際どの程度実行されているでしょうか。あと有名なのは、教官への道。普通大学に残って研究者になる場合、まず大学院に進みます。大学院で博士号の称号を得て、ようやく助教(昔なら助手)に採用される道が開けて段々ポストを上がっていくのが普通です。ところが東大法学部の場合、学部在籍中に優秀な学生は卒後すぐ助手(今の助教)に採用されます。そして30代には助教授(同じく准教授)に昇任し、ほどなく教授になります。普通の文系学部の大学教員のキャリアパスとは相当異なります。これは官庁に就職する学生が多い東大法学部の場合、優秀な学生を確保する目的があるからでしょうが、他大学にはまずない進路です。


 その点田中耕太郎は例外的で、東大法学部を卒業後いったん内務省に就職してから東大に戻っています。しかし東大在学中に高等文官試験に合格、それも首席ですから、相当に優秀な人だったことがよくわかります。後年商法学を専門にしたのは、この就職も大いに関係したと思われます。実は私、文系の学問がよくわかりません。歴史や地理といった文学部系は好きですが、法学とか経済学はまったく理解できません。一応大学の教養課程の選択科目で法学や経済学を仕方なく履修しましたが(社会科学の単位をとらないとならないから)、「こんな学問をもしも自分の進学先にしていたら、たちまちドロップアウトだったな」とつくづく思いました。まあ自分には、人間の意思とは無関係な自然科学の方が、人文科学よりも確からしいと思う偏見があるせいでしょうが。


 しかしこの田中耕太郎の伝記を読んで、「そうか、人文科学にもそれなりに真理を追究する高度な技法があるのか」と今更ながら、感心しました。田中耕太郎が現役の教官だった時代は、第二次世界大戦前の軍国主義が顕著だった昭和時代の初期です。本書でも、滝川事件や美濃部亮吉の「天皇機関説」に対する軍部や右翼の攻撃など、大学の学問の自由や自治を揺るがす数々の事件と、田中が向き合ったことが記されています。特に陸軍の「皇道派」の首魁として有名な荒木貞夫が文部大臣に就任した時代は、とても大変だったと思います。東京帝大の総長選挙を巡って荒木貞夫が横やりを入れ、大学の自治が脅かされる事態となった時の田中耕太郎の法学部長としての態度は、まことに毅然としたものでした。しかし経済学部の河合栄治郎教授の去就を巡っては、平賀新総長の意向を汲んでその休職に賛成した田中は法学部内で孤立します。その責任をとって法学部長を辞任しましたが、日本の世論が狂ったようにファシズムに傾いていた時代によく耐えたなと改めて感心しました。しかし東大内でも、政府や軍部のお先棒を担いで小賢しい画策をする小者が結構跋扈していたのですね。日本の研究や学問が政府や官僚の口出しによって大きな困難に直面する今、田中耕太郎のように毅然とした態度で論じられる大学人が果たしてどの程度いるでしょうか。


 第二次大戦後、田中は文部省に学校教育局長として就職し、さらに文部大臣に就任しています。ここで戦後の教育根幹を決めた教育基本法の制定に関わります。その後さらに参議院議員に立候補して当選し、文教委員長として教育関係の整備の総仕上げをおこないました。今日の日本の教育体制に与えた田中の貢献は、一方ならぬものがありますね。その後も最高裁判所長官への就任と、その活躍はさらに続きます。しかし最高裁判所長官としての田中は保守主義者の立場に立ち、松川事件や砂川事件でも強硬な姿勢が目立ちます。松川事件は高校時代の国語教科書に出ていた広津和郎の文章で知っておりましたが、田中がここまで保守的な態度で臨んでいたとは知りませんでした。田中は、その後オランダ・ハーグにある国際司法裁判所の裁判官に選ばれ、9年間務めます。ここでも南西アフリカ問題(今のナミビア)など困難な問題に直面しています。田中耕太郎は普通のひとの10人分くらいの仕事を、生涯でこなしたのではないでしょうか。東大法学部出身者の面目や躍如といわんばかりの八面六臂の活躍で、目を見張る思いで読み終えました。


 読んだ後に思ったことがいくつかあります。田中耕太郎は第二次大戦前に旧制の修猷館中学を卒業して旧制一高に進んでいます。修猷館は大学受験時代の模試成績優秀者でよく見た高校ですが、こんな人物を出していたのですね。これと関係ありませんが、昔ある講演で演者の先生が「私は修猷館高校の出身で」というところから語り出して、びっくりしたことがあります。まあ福岡にある進学校くらいのイメージしかなくそんなに凄いことなのかと思ったのですが、確かに田中耕太郎のような傑出した人材を出す高校なら名誉に思うでしょう。


 田中耕太郎がキリスト教信者として無教会主義の内村鑑三とも交流があり、その後カトリックに転向して峰子夫人ともども熱心に活動しています。ローマ教皇ピウス12世との交流も語られています。ただこのことで気になるのは、1959年に起きたBOACスチュワーデス殺人事件を巡って容疑者のサレジオ会ベルメルシュ神父が出国した事件です。田中耕太郎が最高裁判所長官だった時代ですが、被疑者のベルメルシュの超法規的なベルギー出国に田中が関与していたのではないかという疑いが昔からあります。これは松本清張が「黒い福音」として書いた本の中に出てくる「ある日本の高官」が田中耕太郎を指しています。この事件は単に被疑者の出国の問題だけでなく、今も続く日米地位協定で縛られる日本の国際法上の不利な立場とも深く関係しています。


 田中耕太郎は戦前からヨーロッパを中心に世界各国に何度も留学したり、勤務したりしています。いかに優秀な方だったとはいえ、当時の日本の世情を考えると破格の好待遇でちょっとうらやましくなります。ところでこれだけ優秀な人だったので、子孫はどういう活躍をしているのか気になります。ところがそれに関してはほとんどわかりません。一人息子の田中耕三氏がいて、松川事件の裁判で非難される父親について「父の一面」という文章を朝日新聞に投稿して、弁護したことがこの本でも紹介されています。これは掲載された写真からみて耕三氏が学生時代の時と思われますが、その後の耕三氏はどうなったのでしょうか。巻末の引用文献で、耕三氏が「ジャン・ミネカイヅカ」というペンネームで「諒解」という著作を1984年刊行していることが記されています。それはフランス語で書かれた耕三氏自身の小説の翻訳だそうです。なおその小説に出てくる「ラ・エ」(La Haye)という都市はオランダ・ハーグのことで(Den Haag)、フランス語表記です(18世紀初頭、ルイ14世がオランダにも攻め込んで領土にしようとした名残)。おそらく田中耕太郎が耕三氏など家族と過ごしたハーグでの生活が投影されているのでないかと想像します。


「田中耕太郎」 牧原出著 中公新書 2022.11